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綿あめのきみ  作者: うわの空
第一話
2/14

詰めあわせた愛情

 綿あめのようなひとだと思った。

 ふわふわしていて、どこにもとげがなくて、口に含めば甘い。ふわふわしているけれど、ふらふらしていない。自分の意志はきちんと持っているし、主張する。風に流される雲とは違うのだ。このひとはふわふわしているけれど、どこかにちゃんとした芯があって、だから周囲の空気に流されたりはしないのだろう。それが、彼の第一印象だった。

 このイメージはいまでも間違っていないと思う。夫婦になって半年が経っても、彼は相変わらず綿あめのままだった。いまのところどこかに消えることもなく、なぜだか当然のような顔をして私のそばにいる。もしかすれば本当に、割り箸かなにかで固定されているのかもしれない。あるいは、かわいらしいキャラクターの描かれた袋にでも入れられているのか。

 そんな彼は朝食の準備をしているらしく、私の部屋にまでコーヒーの香りが漂ってきていた。私の分も用意してくれているのだろうか、とぼんやり思う。

「家事は、やりたいひとがやりたいものをやろう」と言いだしたのは彼で、その時私は「そんな風に曖昧にしていたら、どちらもやらないんじゃないの」と考えていた。けれどそれは大間違いで、実際は彼がてきぱきと動いた。朝の六時から彼が活動するものだから、私が起きる頃には大体のことが終わってしまっている。そう言うと、彼はそうだねえと笑った。


「僕がね、そうしないと気が済まないたちなんだ。もともと、料理も掃除も洗濯も好きだし。だから、亜衣あいは気にしなくていいんだよ」


 こういう時、彼は嘘をつかない。つまり、家事をしない妻に対する不平は一切ないらしかった。

 私はもうひとつ思い違いをしていた。「漫画家は夜型人間で不摂生」だと決めつけていたことだ。彼は完全な朝型人間だし、健康にはとにかく気を使っている。といっても妙なサプリを買ったりせず、「自然な食材でバランスのいい食事を」くらいのものだったけれど。そのおかげか、彼は肌が白くても不健康な印象を与えず、目の下にクマができていることもなかった。漫画家や作家が不健康で夜型だというイメージは、どこから湧いてきたものなのだろう。

 ベッドからおりて、軽く伸びをする。三月の空気はまだどこか冷たかった。


「亜衣? 起きてるの?」


 部屋の外から彼の声がして、私は「ええ」と返す。すぐ行くわ、とも。

 ――2LDKの部屋を借りて、それぞれの部屋を作りたい。寝る時も別々がいい。私の部屋にはあまり入らないでほしい。

 結婚前に突き付けたこの条件を、彼はいまだに守っている。


「僕の部屋には来てもいいよ、あまり楽しいものはないけれど」


 私の条件をのんだとき、彼はそう付け足した。部屋というよりも職場に近い彼の部屋は、それ用の画材や資料で溢れかえっている。大きな本棚にずらりと並べられた本は私としては興味深かったりするけれど、世間一般的に考えれば見ない方がいいのかもしれない。

 ――確かに僕は漫画家なんだけど、漫画家の前に……エロがつくんだ。

 エロ漫画家? と訊き返した時の彼の顔は、一生忘れないと思う。



 リビングの扉を開けると、モーニングをやっている喫茶店のにおいがした。トーストとベーコンエッグ、サラダ、ヨーグルト、それからコーヒー。この中で、私の胃に入るのはコーヒーだけだ。彼もそれは知っていて、けれども毎朝訊ねてくる。


「パンかなにか要らない?」

「要らない」

「コーヒーは?」

「ブラック」


 ブラックコーヒーだけの朝食って身体によくないんだけどなあ、と言いながらも彼はマグをふたつ用意する。私は、部屋の隅にちょこんと置かれたガジュマルに近づいた。洗面所で汲んできた水をやりながら、その木を観察する。……相変わらず変わった形だ。その気根はどう見たって、むっちりとした女性の太ももにしか見えない。

 この木を買ってきたのは彼だった。部屋にグリーンが欲しいと思い、観葉植物を見に行った時に一目ぼれしたらしい。


「多幸の木なんだって。花言葉は、健康」


 いいでしょ、と彼は嬉しそうに言った。そうねと言いながら、私はガジュマルを見る。

 多幸の木。

 それとは別の名前があることを、私は知っていた。

 ――絞め殺しの木。


「できたよー」


 ガジュマルを見ている私に、彼が声をかける。ダイニングテーブルに置かれた彼のコーヒーには牛乳がたっぷりと入っていて、私のコーヒーには牛乳も砂糖も入っていない。マグは色違いで、水色とピンクだ。


「午後から雨が降るらしいよ。傘、持って行ってね」


 サラダのきゅうりをかじりながら、彼が言う。窓ガラスの向こうに広がる空は、確かに明るくはない。パート先のドラッグストアはここから近いけれど、小雨が降れば全身びしょ濡れになる程度には遠かった。

 私は、目玉焼きの黄身を半分に割っている彼を見た。


みなとは大丈夫なの」

「どういうこと?」

「雨、嫌いでしょ」


 彼――湊は、夏と雨を嫌っている。原稿が湿気って気持ち悪いらしい。


「今日はデジタルの日だからね、大丈夫だよ」


 デジタル、と私は復唱した。彼と出会うまで知らなかったのだけれど、最近の漫画家は紙とペンだけでなく、パソコンまで使うらしい。湊は基本はアナログで、仕上げはデジタルだと言っていた。だとすれば、


「締め切り、近いの?」

「そうだね」

「私、晩御飯作ろうか」


 冷蔵庫に何があるのかと思い浮かべて、冷蔵庫の残り物でメニューを決められるほどの腕を持っていないことに気づいた。三十路になっても結婚しても、料理だけは上達しない。


「作りたい?」


 湊の言葉に、私は首を振った。私が料理下手であり続ける一番の理由は、向上心のなさにある。料理をしたいと思わないし、しようとも思わない。湊は笑った。


「いいよ、僕が作るから。そのかわり、食器を洗ってくれる?」


 食器洗いは得意なので頷いた。私は、料理以外の家事はできる。料理だけが壊滅的にだめなのだ。

 コーヒーを飲み終え、食器を洗い、パートへ向かう準備をする。――雨はまだ降っていない。それでも言われた通りに折り畳み傘を鞄に入れ、靴を履いている私に湊が声をかけた。


「はい、弁当」


 結婚してから彼は毎日、当たり前のようにお弁当を作ってくれている。朝食のコーヒーよりも、このお弁当に私は慣れない。毎日玄関で目を丸くして、ありがとうとお礼を言って、そうしてようやくそれを受け取る。受け取ったものが電子レンジ対応のお弁当箱であることも、その中身が常にやたらと凝っていることも、それがすべて手作りであることも知っている。なのにいつまで経っても、そのお弁当を「普通」だとか「日常」だとは思えないのだ。

 お弁当の存在を忘れているのではない。ただ、慣れないのだ。

 それに気づいた湊は、「弁当忘れてるよ」と言わなくなった。もしかすれば他の人間なら「いい加減にしろ」と怒るのかもしれない。けれど湊は怒らずに、いつでも笑顔で手を振ってくれる。


「行ってらっしゃい」


 行ってきますと返して、彼の笑顔を目に焼き付ける。家の外に出る。そしていつも思う。

 もう二度と会えないかもしれないのだ、と。



 五年ほど働いている駅前のドラッグストアは、適度に忙しく適度に暇だ。食品はお菓子とジュースしか取り扱っていないので、主婦で混雑することもない。品出ししながら気になる場所をハンディモップで掃除していると、レジカウンターにいた新人が声をかけてきた。


「高倉さんって最近結婚したんですよね」

「ええ」

「いいなあ。いまめっちゃ幸せな時ですよね。寝る直前まで彼の顔が見れて、朝起きたら彼が隣にいるとかすごく素敵じゃないですかあ」


 ……二か月弱一緒に働いているこの女性は、実は少女漫画家なのだろうか。それとも二十代前半の女性というのは、そういうことを夢見るのだろうか。彼女の指先を彩っているぽってりとしたジェルネイルは淡いピンク。「目立たない色合いのネイルのみ可」という規定にはひっかかるかもしれないそれが、彼女という人間をよく表しているような気がした。

 ネイルが剥がれてしまうのはもったいなくて、私は「寝室は別々にしている」という話を隠した。いつか剥がれるのだとしても、いまはピンク色でいい。

 私が隠したことに気づかなかったらしい彼女は、「寝る直前まで彼の顔を見ている」と信じたようだ。彼女が笑うと、物差しで線を引いたかのように切りそろえられた髪が肩の上で揺れた。


「じゃ、次はベビちゃんですね!」


 悪気のない声に面食らう。結婚したと報告すると次に言われるのがこの言葉だ。

 次はベビちゃん。

 年配のパートや社員からも、自分の子供はかわいいとか、彼の子供が欲しくなるとか色々と言われた。子供が産まれた瞬間が一番幸せだった、とも。

 結婚したと言うと、一+一は二でなく、三にも四にもなる。まだここにいない命が、勝手に組み込まれる。

 結婚したなら子供。次はベビちゃん。それがひどく不思議で、同時に不安になった。

 私は、湊にとってガジュマルなのかもしれない。



 湊のお弁当は、相変わらずまめまめしかった。今日のメインはお手製のスコッチエッグ。彩りを考えたのかブロッコリーが添えられている。ほぼ毎日入っている卵焼きは、入っていなかった。

 彼の手料理にいつも驚かされていた私だけれど、今までで一番驚いたのは若干焦げた卵焼きだった。「今日の失敗しちゃった、ごめんね」と渡されたお弁当箱には、バウムクーヘンを彷彿させる卵焼きが入っていて、私は逆に感動した。

 お婆ちゃんの作ってくれたお弁当みたい。そう思った。

 私が幼稚園児の頃、お弁当を作ってくれていたお婆ちゃんは料理がうまかったけれど失敗もしていた。卵焼きが焦げていたり、きんぴらごぼうの味が濃かったり。今日のお弁当はうまくできてた? と毎日質問されたのを覚えている。

 そんなお婆ちゃんは私が小学生になる直前に亡くなって、それ以降は母がお弁当を作ってくれていた。遠足と運動会。年に二回のお弁当は、それでも母にとっては苦痛だったのだと思う。

 小学二年生の遠足で、私は特に疑問も持たずにお弁当を食べていた。そんな私のお弁当を見て、隣にいた男子が声を上げた。


「これ、コンビニの弁当じゃねーの? お前の母ちゃん、コンビニで買ったやつを弁当箱に詰めてるんだよ」


 男子に指さされたのは妙に薄くスライスされた卵焼きで、焼き目もなければ崩れてもいなかった。

そこでようやく私は、周囲のお弁当箱に入っているものに比べ、自分の食べている卵焼きが嫌に偽物っぽいことに気づいた。そして、母が料理をしている姿をほとんど見た試しがない、ということにも。

 もしかしたらお母さんは、料理が苦手なのかもしれない。

 遠足から帰宅した私は早速、母に「一緒に料理をしたい」と提案した。母が苦手なら、私がうまくなればいいと思ったのだ。

 けれど私の提案に、母は顔を曇らせた。


「どうして? ……今日のお弁当、なにか言われた?」


 それは、ホラー映画を観ているような表情だった。死体があるとわかっている井戸を覗き込む顔。あるいは、幽霊のいる背後を振り返る女優のような顔。

 料理もお弁当も、あまり話題に出してはいけない。子供ながらにそう思い、私は首を振った。


「おいしかったよ」


 コンビニ弁当だと指摘されたのは、隠した。

 母は結局死ぬまで包丁を握らなかったし、私が刃物に触れることすら恐れていた。



 タイムレコーダーを押してドラッグストアから出ると、湊の言っていた通り雨が降っていた。水色の折り畳み傘を広げて、雨音を聞きながら家路につく。けれど、職場と自宅の中間地点にある小さな公園で足を止めた。仕事終わりに、この公園で煙草を吸う習慣がついている。そしてそれは、雨だろうと関係ない。

 ブランコ、滑り台、鉄棒、ベンチ。古きよき公園とも古臭い公園とも言えるそこは、雨のおかげで誰もいなかった。しゃがんで、ベンチの下を確認する。……いない。

 濡れたベンチに座るつもりはなかったので、滑り台のもとへと向かう。数歩近づくと、黒いものが見えた。台の下を覗き込む。


「ああ、こっちにいたの」


 私の呼びかけに、ハチワレの猫が小さく鳴いた。この猫は、毎日ではないが結構な頻度でこの公園にいる。いなくても気にしないが、とりあえず探す。見つけても餌はやらないけれど、なんとなく話しかける。そういう関係だった。

 猫に倣って、滑り台の下で雨宿りする。メンソール入りの煙草に火をつけると、喉の内側に煙がはりついた。猫のそばでは吸わない方がいいかもしれない、と今更ながらに思う。

 ――家に帰ったら、湊はそこにいるのだろうか。割り箸で固定された綿あめみたいに。普通で、当然で、なんでもない顔で、おかえりと言ってくれるのだろうか。


「……いい場所ね」


 雨音に包まれた場所で静かに言うと、猫はゆっくりと目を細めた。


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