幸せを作り出すひと
ウイルスなんてもの、いったい誰が開発したのだろう。その頭を駆使すれば、もっとひとのためになるものを作れる気がするのに。
朝、スマートフォンは普通に起動した。たけのこのスイーツについて、レシピを調べたりしたから間違いない。そのあと買い物に行き、たけのこを購入し、あく抜きをした。仕事を始めたのは何時だったろう。普段は仕事の前にメールのチェックするのに、こういう日に限ってそれをしなかった。
異変に気付いたのは昼の一時頃。昼食の前にスマートフォンを見ようとした時だ。ロックを解除しようとしたら、妙な警告文が出てきた。
お使いのスマホは、違法行為が認められたためロックされました。今から二十四時間以内に罰金三万円を支払わなければ、スマホ内のファイルが裁判所と警察に自動送信されます。罰金の支払い方法につきましては、下記を参照してください。
眉間にしわが寄った。違法行為とはなんだろう。たけのこのスイーツを調べたら違法なのか? アダルトサイトにでもアクセスしていれば多少は驚いていたかもしれないが、たけのこスイーツでこれはない。
パソコンで検索すると、新種のウイルスだと分かった。大手企業のページにも潜んでいるタイプで、簡単に感染してしまうらしい。『ウイルスを駆除するには』と検索し、書かれていた通りにやってみたが反応はない。これで駄目ならショップへ行けとも書かれていた。
面倒なことになった。画面をいくらいじっても、警告文とカウントダウンが表示されているだけ。当然ながら、電話もメールもできない。なんでこんなことにと思いながら、亜衣の職場とは逆方向にあるショップへ向かったのは二時頃だ。ショップが混んでいたため、「あとで取りに来ますから」と修理を頼んで外に出た。そして、外出ついでにと画材を見たり本屋で資料を探したりして時間を潰した。
亜衣がそろそろ帰ってくるなと思い、ショップへ戻ってスマートフォンを受け取ったのが五時半。そこでようやく、おふくろから着信がきていることに気づいた。四十三件、という見たこともない数字に心臓が早鐘をうつ。まさか、誰か倒れたのだろうか。こちらからかけてみたが通話中だった。家路を急ぎながら、親父の携帯にかける。……いくらコールしても出ない。いつもなら「仕事中か」と思えたけれど、今日だけは出てほしかった。
親父とおふくろに電話をかけ続け、ようやく繋がったのは帰宅直後だった。繋がったのはおふくろの方だ。
『ああ、湊! よかったわ、心配してたのよ。電話、繋がらないから』
よかったわ、以降のセリフはこっちの言い分だ。なにがあったのかと訊こうとしたら、おふくろが興奮気味に言った。
『殺されていたらどうしようかと思っていたの。あなた、知らなかったんでしょう。可哀想に。もう大丈夫よ、私がちゃんと言っておいたから』
殺される? 僕が? どういうこと。
――訳がわからないと思う一方で、はぐらかそうとしている自分もいた。
『あなたの結婚相手よ。とんでもない女だったんだから。ちゃんとお金を払って調べてもらったら、すぐにわかったわ。信じられないかもしれないけどよく聞きなさい。あなたが一緒にいた女はね、人殺しの子供なのよ。怖いでしょう』
おふくろは、今なんて言った。殺されていたらどうしよう。とんでもない女。お金を払って調べてもらった。人殺しの子供。怖いでしょう。違う、そこじゃない。
「……ちゃんと言っておいたって、なに」
『円堂とかいう女よ。スマホの番号も分かったからね、電話で言ってやったの。言い訳もなかったみたいね、ほとんど黙ってたわ。本当は職場に電話してやろうと思ったのだけれど、万が一職場の人間に聞かれちゃったら駄目じゃない。今は高倉を名乗っているし、湊と暮らしているからね。人殺しと関わりがあるなんて知られたらこちらの心象も悪くなるし、あなたも』
「――なにを言ったの」
『え?』
「亜衣になに言ったんだ!」
こんな気分で叫んだのは、初めてかもしれない。
亜衣の事情を聞けば、おふくろはろくなことを言わないだろう。僕は前からそれを知っていたのに。――最悪だ。
『なにを怒ってるの。あなた、騙されてるのよ。ねえ最近、テレビに出てるひとがいるでしょう。マインドコントロールみたいな真似して、ひとを操るなんとかって本を書いてる有名人。あの女も、きっとそうだったのよ。あなた、騙されてるの』
「違う!」
『ほら、騙されてる』
もう大丈夫だからね、とおふくろは子供をあやすように言った。あなたには近づかないよう、離婚するよう言っておいたから。
『あなたみたいに優しい子は、悪いひとにつけこまれやすいんだわ。気をつけなさい。よりにもよって、殺人鬼の子供に目をつけられるなんて。殺されたらどうするの』
「それ、亜衣にも言ったのか」
『だってねえ、遠い親戚の話じゃないの。父親の話なのよ? ……母親もどうせ、ろくな女じゃないんだわ。犯罪者の血を増やすなんて、頭おかしいんじゃないかしら』
「いい加減にしろ!」
自分の怒声で、スマートフォンの画面が割れるかもしれないとすら思えた。
まったく同じ文面でなくても、似たようなことを亜衣に言ったのは明白だ。あるいは、もっと酷いことを。
「僕が今の職に就く時、おふくろ言ったよな。『私と湊は関係ない。親子でも所詮他人なんだわ』。自分の子供が不都合なことをした時は他人ぶって、違う問題が見つかったら親の血のせいだって言うのか! ふざけるな!」
『問題の規模が違うわ。あなたは別に、人様に迷惑かけてるわけじゃないでしょう。誰も殺したりなんかしていない』
「亜衣だって誰も殺してない!」
――八つ当たりだ、と冷静な自分が言っていた。僕が今、怒鳴りつけるべき相手はおふくろではない。怒る相手も責める相手も間違えている。
会わせるべきだった。亜衣とおふくろを。会って、話をさせればよかった。新聞記事や週刊誌ではなく、亜衣を見てもらえばよかったんだ。
『父親』ではなく、『彼女』を見てもらえばよかったのに。
壁かけ時計を確認し、いつもなら亜衣が帰宅している時間だと気づく。――ここには帰ってこないつもりだ。
「もう切るよ、またあとでかける」
『ちょっと』
待ちなさい、とおふくろが言いきる前に電話を切った。そのまま亜衣に電話をしながら、彼女の部屋へと向かう。妙に澄んだ女性の声で、「おかけになった電話番号は」と言われた時点で通話終了を選んだ。
無断で彼女の部屋に入ったのは初めてだった。無断でなくとも、入ったことはほとんどない。
部屋は乱れていなかった。ぬいぐるみのひとつもない、ホテルのような部屋。デスクの上にあるラムネのボトルだけが、彼女らしい持ちものだと思えた。
クローゼットを確認する。服は減っていない。キャッシュカードや通帳はどこに、と考えかけてやめた。適当な靴を履いて外に出る。鍵がなかなか鍵穴に入らず、ガチガチと鳴った。
私物を取りにくるだろうと、何故か思えない自分がいた。彼女はきっと、ここに帰ってくるつもりはない。もう、戻ってこない。
ある日突然、彼女が目の前から消えてしまう。僕はそれを、ずっと恐れていた。
亜衣が考えそうなこと、と向かった先は役所だった。おふくろは離婚を迫ったという。彼女は恐らくそれを受け入れたはずだ。
『離婚しなければならない』
亜衣はどこか、物事を現実的に考えるふしがある。それなら次は『離婚届』と思ったはずだ。
自宅から一番近い役所は既に閉まっていた。時間外窓口に彼女の姿はない。ここには来ていないのか、もう貰ったのか、既に持っていたのか。いずれにせよ、ハズレだった。
交友関係を考えるものの、彼女の口から友人の話が出たことはない。休日はいつも家にいた。念のため職場に電話してみたが、「今日はもう退勤しましたよ」としか言われなかった。
武藤に連絡し、合コンの時にいた女性陣の連絡先を訊ねる。が、収穫はなかった。
ホテル、ネットカフェ、二十四時間営業のファミレス、ファストフード。電車、タクシー、船、飛行機。
彼女は子供ではない。どこにでもいけるのだ。今更思い知り、僕は途方に暮れた。自宅で待っていた方がよかったのかもしれない。
――湊、どこかに行くの?
いつか、彼女が言った言葉。僕はどこにも行かないと答えた。なのに。
どこかに行ってしまったのは、亜衣の方だ。
駅へ向かい、切符を買う。自信はなかった。そこに彼女がいなければ家に帰るつもりで電車に乗る。景色が動き出したところで、家で待っていた方がよかっただろうかと後悔する。
扉の前に立ち、窓の外に彼女の姿がないかを探し続けた。
一か月前には満開だった桜は、一枚の花弁も残っていなかった。少し濃い緑が、一直線に並んでいるだけ。面白みのなくなった道には誰もいない。屋台だってひとつもない。日が落ちた今、照明があることだけが救いだった。
桜並木に沿って、道なりに進む。一か月前、僕の隣には亜衣がいた。なにか食べるかという質問に、きょどきょどと視線をさまよわせていた彼女が。今はいない。大の大人のくせに心細くなり、電話をかける。おかけになった電話番号は――。通話をやめる。ラインを確認する。既読にすらなっていなかった。
……やっぱり、引き返した方がいいかもしれない。家にいた方が。
桜並木を半分過ぎて僕がそう思った頃、桜の木の下でうずくまっている人影が見えた。
「亜衣!」
彼女かどうかも断定できない距離なのに、僕は叫んだ。自分の叫び声を号砲に、全力で走る。
――亜衣だ、あれは間違いなく彼女だ。だってあそこは。
彼女がうずくまっているのは、綿あめの屋台があった場所じゃないか。
叫びながら走るという、不審者のような僕に気付いた彼女は顔を上げた。朝、弁当を渡す時のように呆けた顔をしている。なんて顔するんだと思ったけれど、僕だって相当おかしな顔をしていただろう。
「湊」
日頃の運動不足がたたり、息切れしている僕に亜衣が言う。
「どうしてここにいるの」
「――……勘だよ」
彼女の姿を見て、僕はようやく笑えた。
「僕の勘は当たるんだ」
僕の右手にあるスマートフォンを見て、亜衣が戸惑ったような、そして少しだけ悲しそうな顔をした。僕がどうしてこんなにも切羽詰っていたのか、誰から連絡が来たのか、なにがあったのか。彼女はすべて悟ったようだった。
「――仲直りして」
首を振る僕に、亜衣は続ける。
「できるだけ早く」
それでも首を振る僕に、彼女は溜息を落とした。
「私みたいに後悔したくないのなら、ちゃんと仲直りして」
「……私、みたいに?」
「話すわ。ここで、ぜんぶ」
僕の右手のスマートフォンを見ながらも、どこか遠い目をした亜衣が言う。
彼女の右手には、白紙の離婚届があった。
「父親は私が生まれる前に死んだ、と教えられていたの」
隣に腰掛けた僕に、亜衣はゆっくりと話し始めた。結婚前に僕に教えてくれた話を、あえてもう一度、最初から。
「祖母と、母と、私の三人暮らしだった。祖母はよく、母に言い聞かせてたわ。『亜衣ちゃんはあなたの子なのよ』。――あなたの、をいやに強調していた」
おかしいな、と思うことはたびたびあった。母親の若さ。包丁や小動物、男性に対する怯え。自分を見る目。
祖母が死んでから、それが目立つようになった気がするわと亜衣は言った。
「それでもなにも知らないまま、私は小学校を卒業して中学校を卒業して、バイトをしながら高校生をして。――そうして大学生になる直前にパソコンを買ったの。調子に乗って、ネットサーフィンもしてみたわ。ガラケーだとあまりネットもできなかったし」
パソコンが来て一週間経った頃、彼女は思い付きで、『円堂亜衣』を検索した。
「同姓同名の有名人はいないのかと思っただけなんだけど。検索結果は姓名判断のサイトばかりだった。それで、今度は母の名前を検索してみたの。ただの遊びよ」
ところが、母親の名前はあらゆるサイトに載っていた。
「拉致殺人って単語が太字になっていて、四番目の被害者が母の名前だった。――公開捜査にしたせいで、名前が残ってたみたい。当時十五歳だった少女は、拉致された八か月後に保護されたとだけ記事には書いてあった。けれどその記事に、数件コメントが残ってた」
――その被害者、妊娠してたらしい。子供産んだって。
――腹出てたっけ? それ普通、報道されない?
――妊娠初期で目立たなかったんじゃないのか。
――だとしたら、なんで産んだのか理解に苦しむな。
「……包丁を異様に怖がったり、父親がいなかったり、被害者と母親が同姓同名だったり。まさかって思うじゃない。そこでちょうど、母が買い物から帰ってきたの。……私は事件のことをろくに調べていなかったくせに、母に否定してほしくて訊いたわ。――お母さんと同じ名前のひとが拉致された事件って知ってる?」
あの時の母の顔は一生忘れない、と亜衣は力なく笑った。僕は笑えなかった。少し強い風が吹き、離婚届が音を出す。亜衣は皺の付いた紙を鞄の中に入れ、そのまま煙草を取り出そうとし、――けれどもやめた。なにもない前方を、あるいは彼女にしか見えていない綿あめの屋台を見ながら、呟くように言う。
「いまのはぜんぶ、結婚前にも話したと思うけど」
僕が無言で頷くと、亜衣は溜息をついた。その動作は緊張しているようにも、過去の自分に落胆しているようにも見えた。
「この後のことを、話していない」
「……亜衣のお母さんが、事故で亡くなったっていう」
「その前よ」
亜衣は自嘲気味な笑みを浮かべて、こちらを見た。
「母の反応で、母が『四番目の犠牲者』だったことも、自分が拉致殺人犯の子供だということも分かって。……私は自分の出生の秘密がショックで、受け止められなくて、それをなすりつけるように叫んだのよ」
――どうして堕ろしてくれなかったの。
「母は、この世の終わりみたいな顔をしていた。恐らく私も。母の口が開くのはやたらと遅く見えて、それでも言葉が到達するのは早かった」
――私だって、堕ろせるのなら堕ろしたかった。
「……家から出ていった母が、世界から消えたのはそれから三日後」
自殺したのかもしれないわ、と亜衣は言った。
以前同じ言葉を発した時のように、紫煙で『なにか』を隠そうとはしなかった。ペットボトルの中身が揺れることも、ない。
その分だけ、彼女の声は震えていた。
「なにも考えていなかった私は、事件のことをほとんど把握していなかったくせに母を責めた。――警察に保護された時、母はもう妊娠二十二週目だったのよ。いやでも堕ろせなかったの。……母がどんな気持ちで私を産んだのか、そして育てていたのか。私はなにも知らずに、『どうして堕ろさなかったの』と叫んだ」
「――……亜衣」
「ねえわかった? 私は人殺しの娘で、私『も』人を殺したのかもしれない。……母を殺したのよ。たとえそれが、言葉という間接的な手段であったとしても」
いつもより少し早口で、亜衣は言いきった。
「私といたら、湊は幸せになれない」
言いきった、断定的に。
彼女は僕から目を逸らし、再び前を向いた。なにもない空間を見ているのか、そこにあった屋台を見ているのか。
――来年は綿あめを買おうと約束した。きっともう、その約束はなくなってしまった。僕と彼女に来年はない。二年後も三年後も、明日すらない。
亜衣は、そう思っている。
勝手に、断定的に。
「……僕には、わからないことが沢山ある」
亜衣と同じ場所を見ながら、僕は言う。彼女がこちらを向いた気配がした。
「僕の『勘』では、亜衣のお母さんは事故だと思う。けれど、自殺だったのか事故だったのか、明確にはわからない。自殺だったとして、それが亜衣の言葉のせいだったのかもわからない。ハチワレの猫が死んだ理由もわからない。……でもね、僕にだってわかることはいくつかあるんだ」
わかりきっていることがあるんだ。
「――僕は、きみのことが好きだ」
僕の職業に引いたり遠慮したりしなかったところ。奇妙なCDを真面目な顔でプレゼントしてくれたところ。ガジュマルに水をやるしぐさ。弁当箱に驚く姿。死んでしまった野良猫と一夜を過ごせる優しさ。――その分、傷つきやすいひと。
挙げていったらキリがない。それくらい好きなんだ。心にも想いにも形はなくて、けれど形が明確にわかるんじゃないかってくらいに僕は彼女が好きだ。
だからこそ、僕は恐れていた。
彼女はきっと、僕が『消えてしまう』ことに怯えていたのだと思う。彼女の母親のようにいつか突然、僕が世界から消えてしまうことに怯えていた。だから亜衣は、職場へ向かう時はいつも僕の顔を見つめていたのだろう。迷子みたいな表情で。
けれど、僕は逆だった。
僕は、彼女が消えてしまうのを恐れていたんだ。
いつか亜衣が観ていた動物番組で、綿あめとアライグマの話をやっていた。あれを観た時僕は、彼女も綿あめのような人なんじゃないかと思った。
水中で溶ける綿あめのように、いつか簡単に消えてしまいそうで。
自らすすんで、水に入ってしまうような気がして。
そうしたら僕はきっと、アライグマのようにおろおろするのだろう。少しだけ甘くなった水に手を突っ込んで、必死になって彼女を探すんだ。僕はそれが、怖かった。
亜衣がここからいなくなるのが、怖かったんだ。
「……僕は誰も傷つけたくなくて、きみのことをおふくろにも言わなかった。会わせようともしなかった。けれど結局そのせいで、きみもおふくろも傷つけてしまった」
ふたりが会っていればなにか違っていたかもしれない。あるいは僕が、亜衣のことをきちんとおふくろに説明していれば、少なくともこんな傷つけ方は避けられたはずなのに。
「例えば僕は自分の職業について、もっと知ってほしいとかもっと話したいと思ってる。なのに、亜衣のことは隠そうとした。それとこれとは話が別だと言われれば、そうなのかもしれない。けれど僕は亜衣のことを、――今現在のきみの姿すら、知ってもらおうとしていなかった。きみのためだと思いながらも僕は結局、自分のことしか考えていなかったんだ」
ごめん。
僕は今でも、自分のことしか考えていないんだ。
「僕はやっぱり、自分の幸せばかりを考えているのだと思う。――亜衣はさっき言ったよね、きみと一緒にいると、僕が幸せになれないって。でもそれは違う。僕の幸せは、僕が決めることだ。きみが決めることじゃない。けれど」
わかりきっていることがあるんだ。
「僕が幸せになれるかどうかは、きみがそばにいてくれるかどうかで決まる」
朝は一緒にコーヒーを飲んで、真剣な顔でガジュマルに水をやっている姿があって、弁当に驚く顔を見て、玄関で手を振って、もらったCDを聴きながら仕事をして、帰ってきたらおかえりと言って、一緒に晩ごはんを食べて、他愛のない話をして。
ほんの少しでもいいから、きみが笑っていたら。
ほんの少しでもいいから、きみが幸せを感じられる日が来たら。
僕はそれで、充分なんだ。
「これからもきっと、僕はきみを傷つけてしまうのだと思う。何度もぶつかるだろうし、きみに謝るだろうし、もしかしたら怒るかもしれない。それでも僕はきみと一緒に生きて、きみと一緒に幸せになりたい。――僕は消えてなくなったりしないよ、亜衣」
迷子みたいな顔で確認しなくたって、ずっとここにいるから。
「もしも僕の幸せを想ってくれるのなら。……帰ろう? 一緒に」
戻ってこいと強く言えないところが、やっぱり僕だった。
亜衣はなにも言わなかった。彼女の鞄にある紙が音を立てたような気がして、少し緊張する。突き出されたら、破り捨ててやるつもりだった。けれど離婚が彼女のためになるのであれば、僕は身を引くべきなのだろうか。離れた方がいいのだろうか。彼女のためなら。
亜衣がようやくこちらを見て、けれどもすぐに目を逸らした。
「――……もう少し夜風にあたったら、帰る」
それは、水中に溶けてしまいそうなくらいに頼りない声だった。僕は頷く。
「でも、できるだけ早く」
散々言われてきた言葉を、彼女に返す。
僕はようやく、この言葉の意味をきちんと理解できたのかもしれなかった。




