もったいない
この子が生まれてすぐに、夫は世を去った。それ以来、私たちは二人きり。でも、それを言い訳にはしない。あの人の分まで、息子とともに生きていく。
息子は5歳になった。この頃はかわいくてたまらない。でも、甘やかしてばかりにならないよう、躾はしっかりしないと。子供にありがちな食べ物の好き嫌い。野菜なんか、特にそう、いつも残してしまうのはいけない。もったいない。きちんと叱ることとする。
「もったいないの?」
そうよ。折角作ったご飯を食べないのは、もったいないわ。
「わかった」
素直な返事。やっぱり、良い子だわ。
息子は頬に詰め込むように、全部頑張って食べてくれた。
息子は10歳になった。男の子は元気一杯だ。
自慢ではないが、私に似て運動神経が良い。地元のサッカークラブから声が掛かる。息子はやりたそうだが、遠慮しているのか、言い出さない。もったいない。ぜひとも、やりなさい。
「いいの?」
うん、いいの。思いっきりスポーツに打ち込むのなんて、今時分くらいしかできないもの。
息子は仲間とともに泥だらけになりながら、市の大会で優勝した。
息子は15歳になった。受験生は根を詰めて、勉強に励んでいる。成績は結構良い、父親の方からかしら。担任の先生は志望校より上のランクが目指せると言っている。もったいない。行くべきじゃないの。
「でも、家から遠いし、通学にもお金がかかるんじゃ…」
何、言ってるのよ、それくらい。心配しなくても何とかするわ。ただし、将来、私の面倒はみてよね。
「えーっ」
冗談よ。まあ、頑張んなさい。
息子はプレッシャーを撥ね除けて、無事合格した。
息子は20歳になった。大学生は走り回る。時間を物を体力を、一杯まで使い切るように、手を広げていた。日帰りで富士山を登りに行ったと思えば、10個もバイトを掛け持ちしたり。次から次に女の子を追いかけては、振られる度に落ち込んで。でも、次の日には復活して。回るように忙しい。学業も疎かにはしていないのは立派だけど。睡眠時間を削って、徹夜するのも何日か。ちょっと欲張りなんじゃない。
「大丈夫、大丈夫。今しかできないから」
家に帰って来た時に窘めてみるが、軽くいなされるのみ。夕食をかけ込み、頬を膨らませたまま自分の部屋に戻っていく。残さず食べるのは良いことだけど、これではおいしさは分からない。もう、聞いてくれないのかしら。
息子は25歳になった。社会人は順調、仕事も私生活も充実している。でも、傍目にはそうみえるが、そうでない気もする。広げた手はそのまま、やる事が多過ぎる。何だか追い回されているみたい。大丈夫なのと聞くと、大丈夫、大丈夫と、いつぞやの返事。本当だろうか。私の不安は的中した。それ程、間もなく、息子は過労で倒れてしまった。
「無理はしない方がいいんじゃない」
宥めるように話しかける。息子は喋らない。差し入れのケーキを口に詰め込んでいる。変わらないわね。
「じっくり味わわないのも、つまらないものよ」
息子は黙ったままだったけれど、頷いているようにも見えた。分かってくれたかしら。人生は長いの。よく噛みしめて、たっぷり味わわないと、もったいないし、楽しくないわ。
その後、息子は少しずつだが、変わっていった。一つ一つ、時間を掛けてこなしていく。その変化は好ましく、安心させるものだった。
息子は30歳になった。大人は落ち着いていて、穏やかでゆとりがある。毎日を楽しむように過ごしている。およそ、不安なく、私は見守っていた。そんな息子がかしこまって、話があると言ってきた。何かしら、大事な用件なの、と思っていると、一人の女性を紹介された。
「彼女と結婚します」
息子は毅然とした態度で言い切った。相手の女性は身なりのきちんとした綺麗な人だった。いつかは来るだろうと思っていた場面、私は反対しないことに決めていたが、結局のところ気になることは気になる。自分への言い訳は仕方ない。彼女を送っていった後、戻ってきた息子に聞いてみた。
「あなたより年上の方ね」
「そうだよ。この際だから、正直に言っておくけど、彼女は来月で40になる」
「あなたが決めたことだから、尊重はする。でも、彼女の方が先に老いてくし、亡くなって、あなたは一人、残されることになるかもしれない。第一、子供だってどうだか」
いけない。色々、口から出てきてしまった。思っていたより動揺していたのかも。
「大丈夫だよ。二人で何とかしていくさ」
そんな私を押し留め、遮るように言う息子は、とても、とてもとても頼もしく見えた。ああ、そうか。私は気付かなかった。そして、気付いた。息子はすっかり大人なのに、そう見ていたはずなのに、私はどこか意識の中で子供にしていたのだ。今日は、それを受け入れる日となった。
でも、続きが少し漏れる。
「彼女を選んだ理由はなあに?」
「彼女、40になるけど、美人でしょ。もったいないし、味わい深いと思わない」
人は変わっていくと言われている。でも、それは積み重なりで、途切れてしまうものではないようだ。本質はあまり変わらない。
私は息子を微笑ましく見ていたに違いなかった。