豆腐がとれない
刑事モノとして、始まりとして書こうと思っていた文章です。
続けるかも。
厄介なヤマは、厄介なときに訪れる。
育ての親ともいうべき高畑さんは、常々そうもらしていた。わたしは、〈問題のマンション〉をぼんやりと見上げながら、溜息をついた。
なにか嫌な予感だ。郊外に建つ、どこにでもあるような普通の四階建てのマンション。立地もいい。空き部屋も無さそうだ。建物の上を仰ぐ。冬の空は高く青々としていて、マンションはまるで空に貼り付けられたようだった。この風景が気にいらなかった。なにか言い知れない胸騒ぎを覚えさせられる。崖の端から奈落を望むような感覚。嫌な予感。虫の知らせというやつだ。
わたしは、コートのポケットを探って、茶色のビンをとりだしてみた。ちゃぷん、という水分の塊がぶつかり合う音がした。こいつは常にそこにある。こんな気分のときは飲んだら最高なんだろうな、そう思いまた懐にしまいこんだ。まだ大丈夫だ。
扉の前にはお決まりのテープが張ってあった。奇妙だ。騒がしくないのはありがたいが、見物人がほとんどいない。やはり空室が多いのか、それともまだ気づいていないだけなのか。記者は……まだ来ていないようだ。これは常に歓迎だった。
扉の前には鑑識がいた。扉の中を覗き込んでいた。こっち待ちだったか。
「おつかれ」
わたしは声をかけた。彼は強張った顔でこちらを向いた。たしかこいつとは三回目だったろうか。なにやら今起きたばかりといった顔をしている。
「よろしくおねがいします」
まるで声まで深酒後の寝起きめいていた。わたしはあえて気にしないようにして、テープをくぐった。
わたしは部屋に入ってすぐ、その鍋に出会った。
そうして思った。こいつだ、と。
鍋は赤かった。
いや、赤いのは鍋ではない。鍋の中で煮立っている湯が、ペンキをぶちまけたかのように紅く染まっているのだ。油分が浮いている湯面は濁っていて、中になにが入っているのか見通すことはできなかった。
湯の飛沫によってできたのであろうか、鍋肌はところどころ赤黒く変色している。煮立ったようすは、地獄がそこに現れたようだった。
これを食ったのかな、そう思うと、気管が締め付けられる。慣れないものだ。もっとも昔なら、胃が狂ったように踊りはじめたに違いない。
鍋の脇に置かれた菜箸を取った。地獄へ突きいれてみる。出発進行。鍋は、煮立たせすぎたのか、それとも具のせいか、湯はねばつき、内側に日輪のような模様を描いていた。
湯気がもうもうと立ちのぼってきた。心なしか、たちこめる湯気までもが朱に染まっているように感じる。わたしは、くもった眼鏡を外して袖で拭き、思い出したようにコートの衿をたてた。この部屋は、凍えるように寒い。
鍋をかき混ぜた。箸に当たるのは、身元不明の崩れかかった具材ばかりだ。お目当てのものは見つからなかった。嫌いだったのかもしれない。
「なにを探しているんです?」
いつの間にか横にいた田中が、鍋を覗きこんだ。こいつは気配を消すことだけは一人前だな。田中は眉間にしわをよせ、早くこの部屋から出たいと顔全体で訴えていた。いつも祟られているかのような顔をしている男だが、今日はまるで、死刑執行前のような、世界中の負をいっぺんに背負いこんだような顔だった。ここ最近でいちばんいい顔だ(もちろん不幸な、という意味でだ)。
「いや、たいしたことじゃないんだ」わたしは言った。「ただ、豆腐……豆腐がないなと思ってね」
「本気で言っているんですか?」田中は首を振った。「いったい、いくつの現場を経験すれば、そんな冷静になれるんですかね。ぼくには一生無理そうだ」そういうと、まるで化け物を見つめるようにわたしを見つめた。
現場。
そうだった。
衝撃的な光景をつきつけられ、自分を見失っていたのかもしれない。
わたしはふと思い出したように部屋を見回した。窓を覆うカーテンが揺れている。あそこが寒さの犯人だろう。カーテンも染まっていた。赤く。壁紙や天井も。黒く。血まみれの部屋。容疑者、おそらくこの鍋を作った「料理人」は、ここでなんらかの儀式──料理とでも言うがいい──を行っていたのだ。湯は血液だろうか。具材については、考えたくもなかった。鍋はしばらくメニューから外そう。早くこの現場から出て、深呼吸をしたいと思った。強い酒があればなおいい。
「コンロの火、消してくださいね」
田中が言った。