序
完結は期待しないでください。
うだるような暑さだ。
アスファルトも溶け出しているのではなかろうか。
すさまじい紫外線は、容赦なく肌を焦がす。
女性の方々の毎日の肌のケアは想像にも及ばない。
男すらも、日焼け止めクリームやそれに準ずるものを使用するほどだ。
そんなことを思いながら、パンパンになったボストンバッグを担いで、汗を垂れ流しにしながら、駅の雑踏の中にいる。
最初屋内に入ったときは涼しいとも感じたが、これだけの人ごみでは屋内だろうがエアコンがかかっていようが室温は外と大した違いもない。
新幹線のホームにたどり着き、ようやくバッグを一旦下ろすことができた。
額に浮かび、頬を流れ落ちていく汗をポケットから取り出したハンカチでぬぐう。
ほどなくまた額に浮かんでくるのがわかる。
しばらくこの汗が引くことはないだろう。
ホームにある店で冷たい水と車内で適当に読むだけの漫画を買う。
社会人とは言っても、暇つぶしとして新聞なんて買ってられない。
少年の心、とまではいかないが、そこまで大人でもないのだ。
出発の時刻が近づき、アナウンスが流れる。
ペットボトルの水はすでに半分以下になっていた。
今飲み干しても車内で買えば問題はない。
すでに自分の前後には人が並んでいる。
おそらく、目的は皆同じ。
新幹線がほどなくホームに来て、それに乗り込む。
早い段階から乗車券を購入していたので、立つことはない。
バッグを座席の上に突っ込み、座る。
ようやく、ゆっくりすることができる。
隣に座っているのは、自分よりも明らかに年上であろう男性だった。
スペースを隔てて逆側の2席には、女性と、小学生くらいの男の子。
男性が女性から缶ビールを渡され、男の子は女性からお菓子を受け取る。
家族、なのだろう。
微笑ましいな、と思って見ていると、プシッといい音を立ててフタを開けたビールを一口飲んだ男性と目があった。
反射的に、軽く会釈をする。
男性はビールから口を離し、
「お一人ですか?」
と、声をかけてきた。
はぁ、と間の抜けた返事をした。
「と、いうことは、私たちと同じですか?」
目的が、ということなのだろう。
そういうことであれば、目的は同じである。
俺はペットボトルの水を飲み干してから、答えた。
「ええ、帰省します」
とてもとても、暑い夏の、お盆がきた―。
新幹線から下りる。
先ほどのご家族とは4駅ほど前に別れた。
2時間ほどの旅だったが、ビールを3缶ほど飲んだ先ほどの男性のいびきによって、あまりいい出会いであったとは言えなかった。
駅の周りの雑木林から、セミの大合唱がお迎えをしてくれている。
地元は、田舎である。
田舎というところならば、都市部よりは涼しいのではないかという希望的憶測をもって臨んだわけだが、実際はそうではなかった。
結局は、日本中どこでも暑いのだ。
セミたちもよくこの暑い中で律儀に鳴き続けられるものである。
駅の外にはまばらに人がいて、帰省してきた人たちの家族や友人が迎えに来た、というところだろう。
俺も自分の家族を探す。
辺りを見回して、すぐに見つかった。
白い軽トラックの脇。
これだけ暑いのにツナギを着て、腕まくりをして、真っ黒に焼けた肌を見せる壮年の男性。
俺の、じいちゃんだ。
「ヒロトーっ!」
俺を見つけるや否や、大声を出す。
周りの人が俺とじいちゃんに目を向ける。
恥ずかしいので、重いバッグを担ぎ、小走りでじいちゃんのところに向かった。
「おせぇぞ!!」
助手席に乗ると、すぐに叱責がある。
昔から、とにかく大声で、よくわからない理由で、理不尽に怒られ続けてきた。
二十歳も過ぎた今では、なんとも思わない。
そうして、ようやく実家に着いた。
家と家とが10メートル以上は離れているようなこの田舎で、俺の実家はさらに離れて、お隣さんとは80メートルくらい離れている。お隣さんと呼べるのかさえ怪しい。
じいちゃんはトラックから降りるなり、何も言わずに小屋の方へ歩いていった。
突然がなりたてることがあったりするのだが、無口になることもしばしば、何とも難解で器用な人だなと思う。
俺もバッグを荷台から持ち上げ、開けっ放しになった実家の玄関に向かった。
生まれてから社会に出るまで過ごした家。
夏の日差しを真上に浴びながら、築うん十年の家は砂利道の脇に静かに佇んでいる。
先ほどじいちゃんが向かった小屋を含め、その外観はどうやらいつまで経っても変わることなく、俺の帰りを待つというよりはむしろ、何人の立ち入りを許しているようなものだ。
家と家との間が何より広いので、俺の家の庭もなかなかに大きく、車庫など無くても車の3台や4台は駐車することができる。広いと言っても芝を植えたりはしておらず、砂利を敷いているだけの味気ない庭であり、自宅で所有している車はじいちゃんの軽トラックと両親の古いセダンなのだが。
…こうして家を眺めている間も、容赦ない照りつきとセミの鳴き声は相変わらず、また汗が首筋をつたってきたので、そろそろ入ることにする。
「ただいま」
玄関に足を踏み入れ、一言。
しかし何の反応もない。
「ただいまー」
もう一度、より大きな声で。
しかし何の反応もない。
俺は何を期待していたのか、大人しく靴を脱いで茶の間に向かった。
「あら、おかえり」
母親は居間で扇風機の風を浴びながら、アイスコーヒーを飲んでいた。ふすまが開いていたのに、さっきの挨拶が聞こえないわけがないだろうと言おうと思ったが、それを言ったところでどうにもならないことはわかっている。
「…ただいま」
もう一度。
その後俺もアイスコーヒーを一杯もらい、荷物を置きに自分の部屋に向かった。
ギシギシときしむ階段を昇り、物心ついてから学生生活を終えるまでを過ごした、自分の部屋。
ふすまは閉じていた。
「…」
俺は一瞬ためらったが、思い切ってふすまを開け放った。
むわっ
とした空気が部屋の外に流れ込んでくる。
そしてカビ臭い。
梅雨の時季も放置されていたのであろう。
すっかり家の物置と化していた俺の部屋は、じめじめとした気持ち悪さを以て本来の部屋の主を迎えてくれた。
部屋の窓という窓を全て開け放ったあとで、俺は一旦下に降りて、庭に出た。
タオルを頭に巻いて、小屋の裏に向かう。
「っと、動くかね…」
見つけたのは、バイク。
バイクと言ってもいわゆる原付と呼ばれるものに分類されるものだ。
地元の高校はバイク通を認められていたので、このバイクで通った。
もっともじいちゃんの散歩用なので、現在市販されているようなしゃれたスクーターではなく、まさしく「田舎のじいちゃんが乗るような」およそデザインを無視したようなバイクである。
近くで井戸の水をシャワーで浴びていたじいちゃんに、まだ走れるか聞く。
「ったりめぇだ!」
そして怒鳴られた。いつものことである。
「わかったよ」
真面目に取り合うだけ疲れるのだ。
俺はタンクのガソリンを確認した後、キーを回してキックペダルを思い切り踏み抜いた。
鈍い音を立てて、エンジンはかからなかった。
なにくそ。
もう一度、より勢いをつけて、一番下まで踏み抜いた。
ドルルルッ
50ccの小型エンジンが音をたてて起動した。
ヘルメットをかぶり、ギアを入れる。
「ちょっと行ってくる」
後ろのじいちゃんに一言いってアクセルを回した。
じいちゃんのことだから何の反応もしないだろう。
俺は砂利道を出て、田んぼに囲まれた田舎道に飛び出した。
真夏の陽気の下、特に行きたいところもないけれど、バイクを走らせる。
実家に戻ったらまず何よりやりたいことだった。
ただ立っていると蒸し暑いだけの空気も、バイクに乗って浴びればそれなりに涼しいものだ。
代わり映えすることのない、緑一面の田舎の風景を、のんびりと眺めながら。
林に囲まれた道路。日中でもそれなりに日陰ができるので、そこに入るとより一層ひんやりとした空気が肌を撫でる。
このまま高校のあるほうまで行こうかとも思ったが、市街地になってしまうため、周りに気を使う。
のんびり流したいだけだったので市街に向かうことなく、15分ほど地元の田舎道を走り、昔馴染みの駄菓子屋の自販機でコーラを買って、家に戻った。
さきほど買ったコーラを居間で飲む。
アイスコーヒーも好きだが、やはりコーラはうまい。
まだまだ少年の心は忘れていないようだ。
そのまま居間で甲子園を見ながら横になる。
地元の出場高校は初戦で負けてしまったが、特に応援もしていなかった。
年々スター性を帯びてくる甲子園の球児たちの活躍を眺めていると、次第に眠くなってきた。
「…」
「ヒロトー、起きなさい」
母親の声を遠くに聞いて、俺は目覚めた。
どうやら、というかやはり眠ってしまっていたらしい。
寝ぼけ眼で回りを見る。
暗くなっていた。
窓の外は暗い中で薄い赤みを帯びていた。
すっかり陽も暮れたようだ。
時計は6時をまわっていた。
ヒグラシの鳴き声が遠くの森から無数に聞こえてくる。
「もうご飯にするけど、どうする?お風呂入ってきたら?」
夕ご飯の支度を終えた母親が居間に入ってきた。
食卓ではじいちゃんがすでに焼酎をあおっていた。
そう言われてみれば、昼間の汗と、寝汗とで体がベタベタである。
「ん~、風呂入るわ」
俺はゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かった。
一番風呂かと思ったが、すでにじいちゃんが入った後だった。
「…ふぅ~っ」
夏の暑い時季とはいえ、やはり湯船に浸かるのは気持ちがいい。
普段一人暮らしのときはどうしてもお湯を張るのがおっくうになってシャワーだけで済ましてしまう。
汗をしっかり落とし、俺は食卓へ向かった。
「おう、ヒロト、久しぶりだな」
「ああ、ただいま」
親父が帰宅してビールを飲んでいた。
俺が椅子に座ると親父がおもむろにグラスを俺に持たせ、ビールをついできた。
「たまには悪くねぇだろう」
「まあな」
母親は酒を飲まないので、俺と親父と二人での晩酌となった。
色々と現在の職場の話をした。
実家について聞いても、何も変わってないと言われるだけで、もっぱら親父の話に付き合わされるだけであった。
「明日は墓参りだからな。ちゃんと手伝えよ」
「社会人にもなったんだから、言われなくてもちゃんとやるさ」
それが今日の最後の会話だった。
両親もじいちゃんも寝てしまったので、居間でテレビをつけても音量に気を使うだけなので、俺は物置と化した自分の部屋に戻った。
すっかり物にあふれていたが、それでもベッドはしっかりと確保されていた。
そこに横になる。
外はすっかり暗くなり、ヒグラシの音もなくなり、カエルの鳴き声がうるさかった。
電気をつけているとやぶ蚊が大量にやってくるので、電気を消してさっさと寝ることにした。
部屋を真っ暗にして、音楽でも聞きながら寝ようかと思ったが、
その時携帯にメールの着信があった。
「ん…?」
見ると、古くからの友人からだった。
「…久しぶりだな」
そういえば春に電話が来たときに今年は帰省するということを言ったかもしれない。
メールを開く。
そして、俺は、言葉を失う。
sub:無題
もうこっちに戻ってきたか?
昨日久しぶりにアイコに会ったんだけど
アイツも実家帰るってよ
たまには会って飲んで来たら?
-End-
「―」
言葉を失う。
俺は携帯を閉じ、少し目を閉じた。
そして再び電気をつけ、物が積まれた机に近づき、
見つける。
高校の卒業アルバム。
カバーから取り出し、一からめくっていく。
そして、最後の見開きを開いたとき。
一枚の長方形の紙がヒラリと下に落ちた。
「………」
俺はアルバムを静かに机に置き、その紙を拾い上げた。
正確には写真である。
そこには4人の男女が写っている。
まだ雪の残った白い校門を背景に。
俺と。
お前と。
あの娘と。
君と。
数年の時を経て、俺は、高校の最後の年を思い出す。
調度今頃、暑い夏に始まった、俺たちの最後の学生生活を―。