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夜明けのために

作者: 廣本 涼
掲載日:2026/10/29

 ウィプソンがこれほどまでに落ち着かない気持ちになるのは珍しかった。先ほど淹れた珈琲は減る気配もない。舐めるようにしか飲んでいないのだから当然だ。ウィプソンはこの飲み物が大の苦手だったが、冷静さを保ちたい時にはこのようにちびちびと舐めることにしている。

 半公営の凍眠会社の管理職と言えば社会的な印象は良いが、今のウィプソンは問題のあった案件の解決を指示し、いざという時は現場に出向いて顧客や関係者に頭を下げてまわる『責任を取れる何でも屋』とでも呼ぶべき立場だった。しかし給料は良い。自腹で購入したマシンを職場に置いて珈琲を淹れてはほんの少しだけ舐めるという贅沢もできる。

 ウィプソンがほとんど残っている珈琲を流しに捨てると、すぐさま自走式の家事ロボットがやってきた。ロボットは彼が渡したカップをすぐさま洗い始める。ウィプソンはそのまま休憩室をあとにした。


   ◯


 エレベーターで二階から地下二階に降りるとそこからは真っ直ぐな長い廊下が続いている。白い扉が等間隔で並ぶその廊下を歩いて、ウィプソンは例の『彼』がいる部屋へと向かった。生体認証のあと扉が滑るように開くと、中で既に他の二人が待っていた。カウンセラーのライルと解眠技士のギレーだ。

 部屋は大きなガラスで二つに仕切られていて、その右横にある手動の扉で繋がっている。ライルに促されたウィプソンはガラスの前に立つと向こう側の『彼』を見た。

「彼が……」

「はい。彼こそが百八十年の眠りから覚めることに成功した人類です」

「信じられない」

「ええ、本当に」

 人体を低温状態で管理して肉体の老化を止める、いわゆる凍眠技術の推奨年数は二十五年だ。四十年を超えると肉体への負荷が激しくなり目覚める確率が著しく下がる。百八十年の年月を経ての解眠など、常識では考えられなかった。

 しかし『彼』は生きていた。頭に銀色の細いワイヤーをつけてベッドに横たわる青年は、弱っているが自力で呼吸している。

「ギレー、やはり君は素晴らしい技士だ」

 ウィプソンは振り返ってまだ年若い解眠技士へ惜しみない賛辞を贈った。彼は一人だけ隅の椅子に腰掛けたまま「当然です」と気怠げに言った。

「技士長が迷わず君を担当にした理由がよくわかるよ」

「百八十年も前のカプセルを開けて解眠しろと言われた時には何かの間違いかと思いましたが」

 ギレーが皮肉っぽく口の端を上げる。ウィプソンは苦笑した。

「百八十年前のカプセルが存在していると聞けば誰もが冗談だと思うだろう。私もそうだった」


 今回の件は半年前、倒産した凍眠会社が請け負っていた凍眠カプセルの一部を引き取ったことから始まる。

 従来のカプセルは滑らかな筒状だがそのカプセルは他と比べて明らかに異質で、無骨な長方体は重くて頑丈だった。何より奇妙なのが、引き継いだ管理データにそのカプセルの記録が存在しないことだった。凍眠者の名前、性別、凍眠の開始日、解眠希望日、身元引受人など四十項目にわたる詳細なデータは、凍眠する為に必須である。

 管理データがない、という事態はあり得ないはずだった。しかし問い合わせると、倒産した会社も数十年前にカプセルだけを別会社から引き継いだことが判明したのだ。

 カプセルには小さな数字が彫られていた。刻まれていたのは百八十年前の日付で、解眠希望日は記されていなかった。中の人間は生きているはずもないが、勝手に廃棄するわけにもいかない。人物の特定へ結びつく情報を求めてカプセルごとスキャンすると、センサーが生体反応を検知した。つまり百八十年前の人間が中でまだ生きているというのだ。信じがたいことだったが生体反応がある以上、会社としては生存している想定で対応するしかない。カプセルを開けて解眠することが決定した。


 そして『彼』は目覚めた。


 解眠作業は通常の八倍かかり、ギレーは半月以上も会社に寝泊まりして『彼』にかかりきりだった。『彼』が目覚めてからも細やかな処置は全てギレーが担当している。

「肉体の損傷は想定よりずっと少なく、四十年ほどで解眠した状態とさほど変わりがありませんでした。そちらは現在治療中で、問題なく完治すると思われます」

「素晴らしいことだ」

「しかしながら脳の動きは未だ不安定で、記憶も曖昧なようです。通常の状態に戻るにはまだ時間が必要かと。彼の脳は生命活動停止寸前まで抑えられていましたから」

「つまり、その状態を再現できるのなら百年を超える年月の凍眠が可能なのか?」

「普通は死にます。技術的に無理があるのです。彼に施された凍眠技術は非常に高度、且つ無茶苦茶だ。再現は不可能でしょう。それに深く眠り過ぎた彼の脳は酷い混乱状態で、従来の活性化技術をそのまま適用することができません。だからずっと名前すら聞き出せなかったんですよ。今は僕が状態に応じて細かくコントロールして安定させていますが、手間がかかりすぎるんです。商売として現実的ではありませんよ」

「そうみたいだな」

 ギレーの目の下の隈が何よりの証拠だった。

 ライルが抱えた端末を見ながら報告する。

「他の問題もありました。彼の言葉が翻訳できなかったのです」

「翻訳できない?」

 ウィプソンは片眉を上げた。百八十年は人の命からすれば長いが言語の翻訳すらできないほど昔ではない。二百年前にはすでにこの星は移住した人類で栄えていた。

「ええ。なので言語検索の範囲をこの星の外にまで広げたところ、一つだけ該当する言語が見つかりました。完全な一致ではないので参考言語として使用していますが会話は可能です。ですが……」

 ライルが口ごもった。

「それがまた変なんですよ」

 そう言ったギレーの薄ら笑いもどこかぎこちない。

「参考言語の国は約三百五十年前に滅んでいるみたいなんです。どこの星の国かはお分かりですね?」

 ウィプソンは息を呑んだ。人類が宇宙のあちこちに移住を始めたのは二百三十年前だ。それ以前に人類がいた星は一つしかない。

「地球か」

「彼が凍眠したのは百八十年前で、人類が地球を完全放棄したのは百二十年前ですから、地球で眠った後この星に運ばれた可能性はあります。しかし、とっくの昔に滅んだ国とほぼ同じ言語を使っているのはおかしい。時系列が合わないんです」

 ガラスの向こうの青年をウィプソンは凝視した。

 『彼』は肉体の状態から二十歳前後と推測されている。カプセルには、眠る『彼』の周囲を埋めるようにして衣服の切れ端らしき色とりどりの布が詰め込まれていた。会議でその儀式めいた写真を見た役員の一人が「まるで棺だ」と呟いていたが、ウィプソンの感想も似たようなものだ。他に、二つ折りにされた手紙のようなものが一枚入っていたと報告があったが、劣化のためすぐ修復班に回されたようで写真はなかった。


 『彼』は誰なのか。本当に地球の人間なのか。何故これほど長い時間眠っていたのか。


 仕事としてだけでなくウィプソン個人としても関心があった。深く息を吐いて気持ちを落ち着かせるとウィプソンは二人に声をかけた。

「よし。それでは面談を始めよう」

 頷いたライルがガラスに軽く触れると、操作画面が浮かび上がった。今、『彼』の方からはこのガラスは不透明なただの壁に見えている。ライルは手慣れた動きで操作して、視界と音声の遮断を解除した。

 それに気づいた『彼』がベッドのリクライニングを上げて少し上体を起こした。理性的な瞳がウィプソンを捉える。

「おはようございます」

 ウィプソンが発した国際共通語は『彼』が耳につけている小さな補助翻訳機ですぐに翻訳される。『彼』は鷹揚に頷いた。

「ご気分はいかがですか? 何か必要なものなどございましたらお申し付けください」

 『彼』が何かを話した。珍しい発音だった。声を拾った翻訳機が『彼』の声を再現して共通語で返事をする。

「支障はない。感謝する」

 共通語で聞く彼の声は爽やかで聡明さを感じさせるものだった。

「この度は弊社をご利用いただき、誠にありがとうございます。サービス部のウィプソンと申します。ええと……お客様」

 視線を彷徨わせるウィプソンに『彼』が苦笑しながら言った。

「アサヒだ」

「失礼いたしました、アサヒ様」

 ウィプソンはにこやかな笑みを崩さず、確認するふりをしてライルの端末にその名前を登録した。こちらが『彼』の管理データを持っていないことは伏せるように上層部から言われている。他社の責任とはいえ、顧客のデータを紛失している事実は極力隠したいからだ。

 アサヒが頭部に装着しているワイヤーは脳のデータを集めている。自身の端末で彼の脳波や数値を確認していたギレーが小さく頷いて続行を許可した。

「アサヒ様の解眠希望日が記されていなかったため、弊社の判断で解眠させていただきました。解眠日のご希望がない場合、人体の安全確保のためこちらで日時を決定しております。ご了承ください」

「問題ない。彼らは私がなるべく長い時間凍眠することを望んでいた。目的は果たした」

「彼ら、とは?」

 ウィプソンが尋ねた途端、充電が切れかけたロボットのようにアサヒの瞬きがゆっくりになる。

「……誰だろう。彼らに約束したんだ。大切なことだった。何故だ、何よりも大事なことなのに……」

 ギレーが端末を投げるように床に置いた。彼はガラス横の扉を蹴破る勢いで開けるとアサヒに駆け寄った。ワイヤーを確認した後、ベッドのそばの機械を素早く操作する。アサヒの瞼が静かに閉じられた。

 ギレーが腕で『中止』のサインを示した。


   ◯


 面談を再開するまで十日ほどかかるというのがギレーの見立てだった。結局わかったのはアサヒという名前だけだ。ウィプソンはひとまずその名前で手がかりを探してみたが、ネットワークから目ぼしい情報が見つかることはなかった。

 面談はできなくともウィプソンは時間を作ってこまめにアサヒの様子を見に行った。状態が不安定だったのはあの時だけで、彼はギレーを捕まえて熱心に共通語を学んでいた。あっという間に文法まで理解したと知った時は驚きだった。現代では再現できない凍眠技術を施されていたことから考えても、彼は高い文明の中で育ったと推測するのが妥当だ。しかし、該当する国や地域の記録は過去を遡っても見つからない。

 それなりに裕福で平和な家庭に生まれたウィプソンは大きな波風もなく順調に出世してここまで来た。三十五歳でのサービス部の部長職は出世頭と言ってよい。要領はいいが単調な人生がウィプソンの誰にも言えないコンプレックスだった。多くの人が羨むウィプソンの人生も、彼からすれば色褪せた凡作でしかない。

 そんな彼にとって、アサヒは初めて目の前に現れたミステリーだった。謎に満ちた青年の存在はウィプソンの世界に突如強烈な色彩をもたらしたのだ。

 何かと理由をつけて部屋に来るウィプソンを鬱陶しく思ったギレーによって、彼はアサヒの雑談相手に指名された。ギレーがアサヒを診ている時間だけ、絶対に自分から質問しないという条件でウィプソンはベッドの隣の椅子に座ることを許されたのだった。

 アサヒを前にするとウィプソンは奇妙な緊張感を感じた。背筋が伸びるのは客の前だからという理由だけではない。彼の目を見ると慣れているはずの愛想笑いを見透かされている気持ちになるのだ。会う度にアサヒに対する畏れと好奇心が膨らんでいる自覚があった。

 アサヒはよく質問をする。大抵がこの星に関することで、ウィプソンはその度に聞かれていないことまで詳しく答えた。この星は人類が住む七つの惑星のうちの第三惑星であること、太陽によく似たアポロン恒星があること。食べ物のこと、気候のこと、空のこと。

 そうするうちにアサヒの記憶がふと戻る時もあった。

「私の国では、親の欲しいものを子供の名前にする文化があった。ただ欲しているものではない。求めても得られないものの名だ」

 何故、と口を開きかけたウィプソンをギレーが睨んで黙らせる。ウィプソンはアサヒが再び話し出すまで辛抱強く待った。

「得られないものを子に名付けることによって、我々はそれを神から与えられたと解釈した。子を通して満たされぬ渇望を昇華するのだ。アサヒという名は、夜の終わりの光を意味する言葉だった」

 思い出す内容は不規則で、彼は自分の故郷の場所もまだわからないようだった。だが、空欄だらけだった記憶をアサヒは確実に埋め始めていた。


   ◯


 長い年月を越えて一人きりで目覚めたアサヒをライルは注意深く見守っていた。自分の子供たちより若い彼を、彼女は気にかけずにはいられなかった。

 ライルがアサヒの部屋に顔を覗かせると、ギレーは毎回「貴女もですか」と言わんばかりに顔をしかめる。サービス部の若き部長は常にベッド脇の椅子に腰掛けていて、アサヒの弟にでもなったかのようにきらきらとした顔で客の話し相手をしていた。普段の安定して隙のないところはウィプソンの美点だったが、ライルは年下の上司の意外な一面を微笑ましく思った。

 それに対してアサヒは驚くほど精神が成熟していた。貪るように学ぶ彼は、覚えた共通語を積極的に使って「こんにちは」とライルにも挨拶をする。その勢いはともすれば焦りになるが、アサヒは前のめりな気持ちを上手くコントロールしていた。己の感情の制御に慣れているのだ。

 彼は「私には使命がある」と言っていた。

「それが何かは思い出せなくとも、時間を有効に活用したい。この土地について学ぶことは決して無駄にはならないはずだ」


 アサヒとの面談の再開日が決まった頃、ライルはある話を聞いた。エレベーターで乗り合わせた男は修復班に所属していて、アサヒのカプセル内にあった一枚の紙の修復を担当していた。翻訳しながらの作業は難航していたが無事終わったらしい。「詳しい内容は言えないが」と前置きした上で彼は囁いた。

 文章内には人物名がなく、代わりに敬称が使用されていた。アサヒを指していると思われるその敬称は国際共通語でこう訳すしかなかったという。


 『陛下』と。


   ◯


 人類が完全に地球から離れる頃には、王族という存在は廃れていた。血縁者による独裁によってそれに近い政治をする国はあったが、王朝とは認められていない。今の時代の人間にとって王や貴族といった生まれながらの特権階級は物語の世界の登場人物である。

「まさか王族とは。どうりで若者らしからぬ佇まいをしていたんだな」

 声を弾ませるウィプソンに、向かいに座るギレーが白けた目を向けた。

「一応言っておくと、参考言語の国は王朝制ではなかったようですよ」

「よく調べたな。私は見つけられなかった」

「仕方ないですよ。どこを探しても記録はないか、あって数行でしたからね。まあ、滅んだ国の記録を保持してやる余裕なんて当時はなかったんでしょうけど。言語集録サーバーの偉大さがよくわかりますよ」

「莫大な税金を使って人類が維持しているだけのことはあるな。まさか百八十年も前から生きている人間との会話に使用するとは、誰も思わなかっただろうが」

 ウィプソンはこの後の面談に備えて、休憩室でまた珈琲を舐めていた。ギレーも違う豆で淹れたものを飲んでいる。彼はウィプソンの珈琲マシンを我が物顔で使う社員の一人だ。

「彼の脳は急速に活性化して回復に向かっています。貪欲に知識を取り込むうちに脳を動かすことにも慣れたのでしょうね。前回のように不安定になる心配もなさそうですし、カプセルに入っていたものは部長から彼に返してください。ライルさんが取りに行ってくれています」

 ウィプソンは頷いたあと「ずっと考えていたんだが」とカップをテーブルに置いて椅子に背中を預けた。

「人類が地球を放棄したのは、太陽の熱に耐えられないと判断したからだったよな」

「そう習いましたが」

「私もそう習った。最後の数十年なんか昼間は灼熱で、日が沈まないと外を散歩することすら難しかったというじゃないか」

「……何が言いたいんですか?」

「彼は自分の名の意味を『夜の終わりの光』と言っていた。彼の親が求めても得られないものがそれだったということだ。おかしいだろう。気候は厳しいが地球には昼夜があった。夜の終わり、つまり朝の光は昇っていたはずだ。何故それが『得られないもの』になるんだ?」

「何かの比喩じゃないですか。僕はそう思いましたけど」

「そう考えるのが自然だろう。しかし比喩ではなくそのままの意味だったならどうだ。彼の故郷がどこにあったのか、一つの可能性が浮かばないか?」

 ウィプソンは指を下に向けた。人差し指は休憩室の絨毯を指しているだけだ。

 しかし彼の言わんとすることをギレーは察したようだった。

「まさか」

 彼の呟く声をかき消すようにドアが開くと、小箱を抱えたライルが顔を覗かせる。彼女は二人を呼んだ。

「そろそろ時間です。行きますよ」

 ウィプソンは苦笑しながら立ち上がった。

「探偵ごっこはやはり私の柄ではないな。素直に顧客から話を引き出すとしようか」

「彼が身の上話をする気になるように頑張ってくださいよ」

 秘策がある、とウィプソンは軽やかに歩き出した。


   ◯


 アサヒの部屋に入ると、彼はリハビリの自主トレーニングをしていた。ベッドの上で長時間座れるようになり、今は歩行のための筋力をつけているところだ。

 ウィプソンは最早彼の定位置となった椅子に腰掛ける。ギレーがアサヒのワイヤーを確認して頷いた。

「アサヒ様、本日のご気分はいかがですか?」

「問題ない」

 彼は共通語で答えて、母国語で続けた。

「絵や文字を書く道具が欲しいのだが用意を頼めるか。なるべく技量や筋力を必要としないものがよい。まだ手が上手く動かないのだ」

「それでしたら、イメージ生成機をお勧めします。頭に浮かべた言葉や映像を小さな機器で信号化してデジタル上で出力するので、使用者の書く技術に左右されません。こちらは弊社で無料貸出を行っております」

「ではそれを。なるべく早く用意してほしい」

「かしこまりました」

 ウィプソンが目配せする前にギレーは手配を始めていた。手元の端末を見たまま彼の口が『在庫あり』と無音で動く。今すぐに貸出手続きをした場合の所要時間をウィプソンの頭は素早く導き出した。

「十五分ほどでお渡しできます」

「感謝する」

「もしかして記憶が揃ったのですか?」

「ああ、昨日全てが繋がった。ようやく自分自身に戻った気がする」

 安堵の表情を浮かべるアサヒに、ウィプソンは姿勢を正して話を切り出した。

「では、本日はアサヒ様のことを教えていただけないでしょうか。実は、我々はアサヒ様のことを何も存じておりません。教えていただいたお名前以外、何も」

「何故だ? データがあるだろう」

「弊社はアサヒ様の顧客管理データを保有しておりません」

 驚愕した顔で固まった彼をウィプソンは真正面から見つめた。

「半年前、別会社から引き継ぐかたちで弊社がアサヒ様の担当になりました。その際に管理データがなく問い合わせたところ、その会社もカプセルだけを他社から引き継いでいたことが判明したのです。アサヒ様がここまでの年月を凍眠することになった理由はそれでしょう。管理データのない、安全な期間を過ぎたカプセルを解眠するのはとても覚悟が必要なことなのです」

「……そうか。結果としては良かったのだな。おかげで随分と遠くまで来ることができた」

 アサヒが納得したように頷いたので、ウィプソンは肩の力を抜いた。

「さて、私は何を話せば良いだろうか」

「アサヒ様にお任せします。個人的には色々と伺いたいことがありますが」

 正直なウィプソンに彼は小さく笑うと「では昔話をしようか」と穏やかな声で語り出した。


「私の先祖は地球のとある国の民だった。人口が少なく国際的な影響力もなかったその国は、最後は内戦で荒廃して滅んだ。残った国民は別の国に移り住んだという。しかし私の先祖は故郷を捨てられずに、密かに地下へ潜った。廃棄状態だった地下シェルターを利用したのだ。集団のまとめ役を王として、吹けば飛ぶような王国ができた。地上の者は誰も知らないその国で、失われた故郷の文化を守りながら静かに暮らしていた」

 御伽話を読み上げるような彼の語り口が一転して低くなる。

「だがほとんど光を浴びることのない生活に人体は適応出来ず、人口は減る一方だった。環境を踏まえると国としては長く持った方なのかもしれない。しかし終わりはすぐ近くまで来ていた。そんな時に王族として私は生まれたのだ。先代は若くして亡くなり、私は十五歳で王位を継承した。衰退の一途を辿る国で何においても私は優先された。食べる物も、与えられる知識も、医療も、全てだ。何故か? 理由は一つだ。私には、未来で我が国の存在を公表するという役目があった。先々代の頃からの計画だったそうだ。地下へ潜る前からあった凍眠技術の研究を、国のプロジェクトとして推し進めていた」


 おそらく参考言語の国がアサヒの先祖の故郷だろう。現在その国の記録はないに等しい。何も残せずに滅べばいずれ人類史から消える。アサヒの国はそれに抗おうとしたのだ。


「私が眠りについたあと長期保管可能な凍眠会社に管理を頼む手筈も整えられた。だが、その為に外の情報を集めていた者たちは地上の気候で身体を壊して何人も死んでいった。彼らのためにも計画を成功させるのだと残った者たちは励まし合っていたが、私が凍眠する少し前から民の間で疫病が流行り始めたのだ。隔離された私は結局そのまま眠りについた。彼らの状況を知ることもできずに」

 彼は祈るような仕草をすると何かを短く呟いた。翻訳機は無言で彼に寄り添っている。

「凍眠とは不思議ものだ。眠っていたはずなのに過ぎた年月を感じる。私の国はあの後にひっそりと滅んだのだろう。それでも確かに国として存在した。私はその生きた証人としてここにいる」

 かつて地球で暮らした人類の最後の一人が目の前に存在する。予想していたとはいえ、その事実にウィプソンの身体が小さく震えた。

 不意に高い電子音が部屋の外で響き渡った。運搬ロボットの到着音だ。ウィプソンは詰めていた息を吐き出す。「早かったな」と呟いたギレーが足早に向かった。

「部長、これを」

「ああ、そうだな」

 ライルから渡された小箱をウィプソンはアサヒに差し出した。

「こちらをお返しします。アサヒ様のカプセル内に入っていたものです」

 アサヒは思い当たる節がないのか不思議そうに受け取った。蓋を開けた途端、彼がわずかに息を呑む。

「……ツユか? イブキ、ああお前もか」

 小箱に詰められた布の切れ端をそっと取り出しながら、アサヒは短い単語をぽつぽつと呟いた。翻訳されてもその意味はわからなかったが、布を見る彼の慈愛に満ちた眼差しから人名であることは容易に推測できた。

 箱の底には二つ折りの紙があった。手に取って開いたアサヒが硬直する。しばらくして、彼は堪えるように息を震わせた。

 ギレーが手配していたイメージ生成機を持って戻ると、アサヒは彼に話しかけた。

「それで文字も書けるのだったな。今すぐに使うことはできるか?」

 脳の状態を確認したギレーは「いいでしょう」と頷いて彼の頭のワイヤーを外した。代わりに機材を彼の頭につけて固定する。

「出力先はここにしましょうか。見えやすいわ」

 ライルが仕切りのガラスに触れて操作すると、透明だったガラスが一面真っ白になる。それはウィプソンにこの星の短くて厳しい冬を想起させた。どこまでも広がる美しく静かな朝の光景だ。

「私の人生は私の国の存在を絶やさないためにある。どうか我が国民が遺したメッセージを見てほしい。せっかくだから君たちに教わった言語で伝えよう」

 アサヒはそう言って紙に視線を落とした。

 ウィプソンたちが見守る中、雪原に黒い文字が浮かび出した。


 陛下。

 わたしたちの陛下。

 貴方を愛しています。

 貴方が目覚めるとき、わたしたちも目覚めます。

 貴方が永遠に眠るとき、わたしたちも眠ります。

 わたしたちは貴方と共にいます。

 わたしたちの希望。

 わたしたちの光。

 貴方が目覚めますように。

 貴方が夜明けを目にできますように。

 陛下。

 わたしたちは祈っています。

 貴方の朝がどうか美しくあらんことを。


 国際共通語で書かれたその文章を見上げたまま、しばらく誰も動かなかった。

 棺のようだと言われたカプセルをウィプソンは思い出していた。

 彼らにとってアサヒが凍眠することは希望であると同時に、王との別れを意味していた。計画の成否に関係なく、王と国民が再会することはない。衣服の切れ端と手紙をカプセルに詰めた時、彼らは何を思っていたのか。あのカプセルには本当に葬送の意味も含まれていたのかもしれなかった。

 アサヒは黄ばんだ紙を見つめたまま俯いている。長い沈黙の後ぽつりと彼は言った。 

「彼らの言葉を覚えていてほしい」

「はい」

 ウィプソンは静かに、だが強く頷いた。


「彼らは確かに私と生きていたのだ」


 アサヒの目から涙が一粒だけこぼれ落ちた。その一滴を拭って微笑んだ彼は、王ではないただの青年の姿をしていた。一人の人間として、もういない者たちに思いを馳せている。

 それからの七分間、アサヒが再び王に戻るまでウィプソンは遠い星のために祈っていた。


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