604号室
「どうして604号室に泊まれないんですか?」
支配人は口ごもった。
「部屋は埋まっているのか」と聞いた。「空いている」と支配人は言った。
「じゃあ、なぜダメなんだ」とすごんだ。
相手がためらえばためらうほど、意地でも604号室に泊まってやろうという気持ちが高まった。
強引に宿泊することにした。
支配人は「自己責任でお願いします」と呟いた。
自己責任?
部屋に入ってくつろぐ。懐かしい。俺は10年前、この部屋に泊まった。
当時は恋人と一緒だった。今はいないが。
缶ビールを開け、飲みながら思う。今は亡き恋人のことを。
結局今になって思えば、彼女は俺にとって唯一の特別な存在だった。
彼女の代わりはいなかった。
ベッドで眠りについていると、妙な気配がして目が覚めた。
気が付いたら、なぜか窓が開いていた。冷たい空気が入り込んでくる。
窓辺に女が立っている。
「嬉しい」と女が言った。
「私は寂しくてどうしようもなくなると、たまにこの部屋に泊まっている人に話しかけるの」
その声は紛れもなく、彼の嘗ての恋人であった。
「まさか、あなただなんて。私に会いに来たの?」
彼が昔、この部屋で窓から突き落とし殺した女だ。
「嬉しい。いつもは話しかけるぐらいしかしないけど、あなただったらいいよね?」
手首を掴まれた。窓辺に向かって引き寄せられていく。
すごい力だ。抗うことができない。
「一緒に行きましょう」
彼女は微笑んで言う。
「聞いてくれ。僕は」
ホテルの支配人は、604号室の下に墜落した男の死体が転がっていると聞いても驚かなかった。
自分は何度も止めた。どうしても泊まりたいと言ったのは彼だ。
こうなると、どこかで予見していた気がする。
人の顔を覚えるのが仕事だ。たとえそれが、10年前の人間の顔であっても覚えている。
彼女は彼が来るのをずっと待っていたのかもしれない。
それ以降、604号室では深夜にいるはずのない女性の声を聞いたりすることはなくなった。




