止まったままの時計が動き出す日〜泉水紗英との出会い〜
2026年1月21日、水曜日。冬の朝。日和見凡太17歳は、築40年のアパートの冷え切った空気の中で目を覚ました。
「……また、今日が始まるのか」
独り言は白く濁り、虚しく消える。壁に飾られた色褪せた写真には、若き日の両親が自分を抱いて笑っている姿が写っている。だが、その笑顔は凡太が幼い頃、突如押し入ってきた強盗の手によって永遠に奪われた。鼻を突く鉄錆の臭いと、母の震える手。それが凡太の持つ最後の「家族の記憶」だ。
「ごめん、父さん、母さん。僕は今日も……ただの無能なままだ」
凡太は鏡の中の自分を睨む。自分では何も決められず、周囲の顔色を伺うだけの卑屈な瞳。スポーツも勉強もできず、誰からも期待されない。それが自分の人生だと、彼は諦めていた。
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いつもと変わり映えのない授業が終わり放課後の教室。凡太は逃げるように帰ろうとしたが、扉の前で巨躯の影に遮られた。
「おい、凡太。どこ行くんだよ。お前の『掃除の時間』はこれからだろ?」
同じクラスでいわゆる一軍男子の獅子王凱が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて凡太の胸ぐらを掴み上げた。
「……獅子王くん、今日は、その、用事があって……」
「用事? お前の用事は、俺たちの気分を良くすることだけだ。なあ、みんな!」
取り巻きたちが下品な笑い声を上げる。獅子王は凡太を床に突き飛ばし、ローファーの先を突き出した。
「ほら、床に散らばった消しゴムのカスを拾えよ。這いつくばって、一つ残らず、だ。それがお前にお似合いの姿だろ?」
「や、やめてよ……そんなこと……」
「『やめて』? 相変わらず声が小せえな! ほら、早くしろよ!」
その時、窓際にいたクラスの高嶺の花、瀬戸遥が冷ややかに言い放った。
「ちょっと、獅子王くん。それくらいにしたら? 見てるこっちが不快になるわ」
「……ちっ、瀬戸か。おい、凡太。女に同情されて嬉しいか? 本当、救いようのねえ雑魚だな」
獅子王は凡太の背中を強く蹴り、去っていった。遥が凡太に近づき、視線を向けた。
「……日和見くん。あなた、いつまでそうやって言われるがままなの?」
「……ごめん、瀬戸さん。僕が、僕が弱いから……」
「謝ってほしいわけじゃないの。……自分で自分を諦めているあなたの姿が、見ていて一番腹立たしいのよ」
遥の言葉は、獅子王の暴力よりも鋭く、凡太の心を切り裂いた。
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別日、下駄箱の前で、またもや獅子王たちに待ち伏せされていた時だった。凡太の視界に、一人の少女が入ってきた。艶やかな黒髪に、射抜くような知性を湛えた瞳。その整った容姿に凡太は息を呑んだ。見たことのない制服。転校生だろうか。
「そこまでよ。見苦しいわね」
凛とした声が響き渡り、凡太と獅子王たちの間に割って入る。
「あ? なんだお前、新顔か?」
獅子王が睨みつけるが、少女は一歩も引かない。彼女は迷いのない足取りで凡太の隣に立ち、彼の肩を軽く叩いた。
「私の名前は、泉水紗英。今日からこのクラスでお世話になります。そして、私は彼の…まあ、後見人、といったところかしら」
「どこの誰だか知らねぇが調子乗ってんじゃねえぞ、転校生!」
獅子王が掴みかかろうと腕を伸ばした瞬間、紗英の動きが霞む。
「——暴力は、知性の欠如を証明するだけよ」
紗英は獅子王の手首を掴み、驚くべき速さで体勢を崩した。
「痛ッ! な、なんだこいつ!」
「あなたの骨格構造と重心、すべて把握済みよ。次に凡太さんに手を出すなら、次はもう少し痛い目にあう覚悟をした方がいいわよ」
獅子王は恐怖に顔を歪め、取り巻きを連れて逃げ去った。静寂が戻った校門前で、紗英は凡太に向き直り、どこか安心感を自然と感じさせるような温かな微笑みを浮かべた。
「お待たせ、凡太くん。……もう、大丈夫よ。私が来たからには」
「なぜ……なぜ、僕なんかのために、こんなことを?」
凡太の問いに、紗英は彼の瞳を真っ直ぐに見つめて答えた。
「理由はきっと追々わかるわ。今ただ一つ言えるのは、あなたはもっと自分を大切にして、自分を信じ、自分を愛すべきということ。……さあ、行きましょう。あなたの人生、これから劇的に変えてあげるわよ」
その凛とした声に、凡太は久方ぶりに思い出した「希望」という名の眩しさを感じ、彼女の差し出した手を取った。2026年1月21日。彼の中の止まっていた時計が、静かに、しかし力強く動き出した。




