第8話 「余の熱を冷ますのは、そなただけだ」
宴の熱狂が去り、夜が更けた。康寧殿の寝室は、蝋燭の火だけが揺れる静寂に包まれていた。
「……ふぅ」
俺、蓮は、豪奢な寝台の縁に腰掛け、大きく息を吐いた。今日は疲れた。ヒビンの呪いを解き、何百人もの視線に晒され、その間ずっと炎の隣で「理想の寵姫」を演じ続けたのだ。精神的なカロリー消費が半端ない。
「……何をため息などついている」
背後から声がした。振り返ると、炎が寝間着の前をはだけさせ、けだるげに寝台に横たわっていた。宴の時の覇気ある王の顔ではない。今はただの、疲れ切った一人の男の顔だ。
「申し訳ございません。……少々、緊張の糸が切れまして」
「ふん。……こっちへ来い」
いつもの命令。俺は慣れた手つきで靴を脱ぎ、炎の隣へ潜り込んだ。すかさず伸びてくる太い腕。俺は抱き枕として、彼の高熱を受け止める定位置に収まる。
「……ああ、やはりお前だ」
炎が俺の髪に顔を埋め、深呼吸した。
「宴の間、多くの者が余に媚び、酒を注ぎに来た。……だが、どいつもこいつも熱苦しい」
炎の声が、胸の振動を通して俺に伝わる。
「欲にまみれた視線。計算高い笑顔。……それらが余の『熱』をさらに煽る。……お前以外は、全て雑音だ」
(……買い被りすぎだっつの)
俺は心の中で苦笑した。俺だって計算高い。自分が生き残るために、お前の熱を利用しているだけだ。そして何より、俺は「男」だ。この国で最も重い罪を隠し持っている、最大の詐欺師だ。
「……殿下。私はただ、体が冷たいだけの女官ですよ」
俺はあえて、突き放すように言った。
「私の代わりなど、探せば他にも……」
「おらぬ」
炎が俺の言葉を遮り、抱きしめる力を強めた。痛いほどに。
「氷の魔力を持つ者は、いるかもしれん。……だが、余の呪いを恐れず、余の目を真っ直ぐに見返し、あまつさえ余の敵(大臣たち)を煽るような図太い女は、お前だけだ」
「……え、バレてました?」
「ククッ……」
炎が喉の奥で笑った。初めて聞く、穏やかで人間味のある笑い声だった。
「お前は面白い。……そして、涼しい」
炎の手が、俺の頬に触れた。熱い指先が、俺の輪郭を愛おしげになぞる。
「余の熱を冷まし、余の心を鎮められるのは、そなただけだ。……蓮」
(……ッ)
心臓が、嫌な音を立てた。「機能」として褒められるなら、まだよかった。だが、今の言葉は違う。彼は、俺という「個」を見ている。俺の嘘も、図太さもひっそりと受け入れた上で、必要だと言っている。
それは、とてつもなく重く、そして……少しだけ嬉しかった。
「……ずっと、そばにおれ」
炎の寝息が聞こえ始めた。命令口調だったが、それは懇願のようにも響いた。
俺は眠れなかった。天井の梁を見つめながら、ズキズキと痛む胸を押さえる。
(……逃げられなくなった)
最初は、ほとぼりが冷めたら逃げるつもりだった。でも今は?もし今、俺がいなくなったら、こいつはどうなる?またあの孤独な熱地獄に戻り、狂った暴君として誰かを焼き殺すのか?
「……馬鹿な王様」
俺はそっと、炎の背中に手を回した。火傷しそうなほどの熱が、俺の手のひらを通じて静められていく。
「騙されてますよ、あんた」
俺の呟きは、夜の闇に吸い込まれて消えた。
いつかバレる日が来るだろう。その時、この腕は俺を抱きしめるのか、それとも首を絞めるのか。今はまだ、分からない。
ただ一つ確かなのは、俺はこの「熱」を、もう突き放せないということだけだ。
(第8話完)




