第7話 呪いの絹衣
「……やっぱり来たな、ヒビン様」
宴の当日。 俺、蓮の部屋に届けられた衣装箱を開けた瞬間、俺はこめかみを指で押さえた。
今夜は、炎の体調回復を祝う盛大な宴が開かれる。 俺にとっても、正式に「淑媛」として社交界デビューする重要な晴れ舞台だ。 その衣装として、針房(実質、ヒビンの息がかかった部署)からあつらえられたのが、この礼服だ。
箱の中には、目の覚めるような深紅の絹衣が収められている。 身体のラインに沿う短めの上着と、胸の高い位置から足元まで広がる、ボリュームのある裳。 一見すれば、王の寵姫にふさわしい最高級品だ。
「……だが、中身は真っ黒だ」
俺は布地に触れずに、恐る恐る手をかざした。 上着の胸元に施された、銀糸と深紅の絹糸による牡丹の刺繍。 そこから、肌を焼くようなピリピリとした熱気と、「着用者を害する呪い」の気配が立ち昇っている。
これを着れば、宴の最中に俺は激痛でのたうち回り、全身火傷で醜態を晒すことになるだろう。 かといって着なければ、「王家からの賜り物を拒否した」として不敬罪だ。
(逃げ道なしの二択かよ……。性格悪いなぁ)
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。 俺の本来の魔力は、微弱な【氷】と、そこから派生した中和力
ーちょっとした毒気や呪いを無効化する力ーしかない。 こんな強力な呪いが込められた代物を、俺ごときがどうにかできるのか?
(……いや、やるしかない)
最近、毎晩のように炎という「巨大すぎる熱源」に触れているせいか、俺の中の魔力回路が少しずつ拡張されている感覚はある。 あの暴君の、溶岩のような熱を冷ますことに比べれば、この程度の呪い、中和できないはずがない。
「……たぶん」
俺は震える手を、ゆっくりと刺繍の上に置いた。
「……氷らせて、中和しろ...!」
ジュワッ……!
「っ……つぅ!?」
触れた瞬間、指先から手首にかけて激痛が走った。 呪いの熱が、俺の侵入を拒んで逆流してくる。 まるで、真っ赤に焼けた鉄板を素手で押さえつけているようだ。
(熱い、重い……! 弾かれる……!)
脂汗が額から噴き出す。 意識が遠のきそうになるのを、歯を食いしばって耐える。
(負けるな。思い出せ。あの暴君の熱に比べれば、こんなもの……!)
俺は体内の全魔力をかき集め、必死に冷気を送り込んだ。 呪いの熱を、俺の氷で包み込み、殺す。 相殺しろ!凍らせろ!
ハァ、ハァ、ハァ……。
どれくらいの時間が経っただろうか。 俺は膝から崩れ落ちそうになりながら、衣装から手を離した。 肩で息をする俺の視界の中で、赤かった衣装が変貌を遂げていた。
「……はは、なんだこれ」
熱を帯びていた金糸は、俺の冷気によって完全に凍結し、銀色に変色していた。 それだけではない。 必死に冷気を叩き込みすぎたせいで、深紅の布地全体に微細な氷の結晶がこびりつき、光を反射してキラキラと輝いてしまっている。
「……派手になっちまったな」
でも、呪いの気配は消えた。 俺はふらつく足で立ち上がり、その冷たい衣装に袖を通した。
(なんとか、なった……か?)
宴会場である交泰殿は、着飾った貴族たちで埋め尽くされていた。 誰もが、今日の主役である炎の回復を祝い、そして「噂の田舎娘」がどんな無様な姿を見せるかを楽しみにしている。
「淑媛、ミン氏の入場でーーす!」
女官の声が響く。 ヒビンが扇子の陰で「さあ、悲鳴を上げなさい」と口角を吊り上げた、その時。
ザッ……。
俺が会場に足を踏み入れると、ざわめきが一瞬で消えた。 静寂。 そして、誰かの溜息が漏れた。
「……なんと……」
「あれが、ミン氏か……?」
俺が歩くたびに、衣装に張り付いた氷の微粒子が光を浴びて乱反射し、まるで星屑を撒き散らしているように輝く。 歩くイルミネーション。あるいは、地上に降りた天女。 中身は男で、しかも今は魔力欠乏でフラフラなのだが、それが逆に「儚げな美しさ」に見えているらしい。
「な……っ!?」
ヒビンが立ち上がり、扇子を取り落とした。 焼けるはずの肌は雪のように白く、呪いの赤色は高貴な輝きに変わっている。 彼女の顔は、悔しさと驚愕でひどく歪んでいた。
(……勝った)
俺が内心で安堵のため息をつき、ヒビンに会釈をすると、玉座に座っていた炎が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「……蓮」
炎は俺の目の前で止まった。 その金色の瞳が、俺をじっと見つめている。
「……少し顔色が悪いな」
小声で、鋭い指摘が飛んできた。 さすがは魔力の持ち主だ。俺が消耗していることを見抜いている。
「……少々、着付けに手間取りまして」
「ふん。……美しいな」
炎は、わざと周囲に聞こえるように声を張り上げた。
「余は、そのような輝く布など見たことがない。……まるで、冬の夜空のようだ」
会場がどよめく。 炎は俺の手を取ると、強く握りしめた。 彼の体から、膨大な魔力が俺の中へ流れ込んでくる。
(あ、回復する……)
俺が奪った彼の熱が、今の俺にはエネルギーとして心地よい。 俺たちは互いに、熱と冷気を交換し合っていた。
「……行くぞ」
炎は俺の手を引いて、玉座の隣——本来なら王妃が座るべき席へと俺をエスコートした。 その手は、俺が倒れないように支えてくれているようにも感じられた。
ヒビンたちの「ざまぁ」な顔。 そして、俺の手を離そうとしない炎の大きな手。 俺は安堵と疲労の中で、ぼんやりと考えていた。
(……綱渡りもいいところだ)
だが、この手から伝わる熱がある限り、俺はまだこの宮廷で生きていける。 輝く衣装は、俺を縛る鎖であると同時に、俺を守る鎧でもあった。
(第7話 完)




