第18話 疑惑の「吐き気」騒動
「——淑媛様が、ご懐妊であらせられますーーッ!!」
昨晩、一人の女官が夜の王宮に向けて放ったその絶叫は、文字通り「爆発」のような速度で宮廷中を駆け巡った。
一夜明けた現在。俺、蓮の部屋は、信じられないほどのカオスと化していた。
「淑媛様! 安産祈願の御札でございます!」
「殿下の初子! ああ、なんという慶事!」
「すぐにお身体を冷やさぬよう、最高級の貂の毛皮を敷き詰めて!!」
次から次へと運び込まれる、山のような祝いの品々。目に涙を浮かべて拝み倒してくる女官たち。そして、部屋の隅には「つわり」に効くという酸っぱい果物や、栄養満点の薬膳料理がずらりと並べられている。
俺の意思など完全に置き去りにされたまま、王宮は「世継ぎ誕生の予兆」という最高のお祭り騒ぎに突入していた。
その中心で、俺はふかふかの布団にくるまりながら、完全に虚無の表情で天井を見つめていた。
(……どうして、こうなった)
俺は19歳の、骨も筋肉もしっかりした、武官になるべく育てられた男だ。
妊娠? するわけがない。医学的に、生物学的に、絶対に不可能だ。昨晩の吐き気は、大妃に強引に飲まされた「極陽の薬」と、俺の「氷の魔力」が胃の中で大喧嘩した結果引き起こされた、ただの「急性・魔法ストレス性胃炎」である。
ただ胃が荒れて吐き気を催しただけだ。
だが、あの最悪のタイミング、そして俺が「王の寵愛を一身に受ける側室(と誰もが思っている)」であるという事実が、周囲の脳内で『吐き気=つわり=ご懐妊』という黄金の勘違い方程式を完成させてしまったのだ。
「……淑媛。起きているか」
ガラリと障子が開き、静かな足音と共に炎が入ってきた。
今日の彼は、いつもの不機嫌そうな暴君オーラが完全に消え失せている。それどころか、足音すら忍ばせ、まるで壊れ物を扱うような、いや、国宝級の神聖な宝具を扱うような恐る恐るした態度で俺の枕元に座った。
「ち、殿下……」
俺が身を起こそうとすると、炎は慌てて両手を出して俺の肩をふわりと押さえた。
「動くな! 動いてはならん! ……その、腹に障るだろう」
炎の金色の瞳が、俺の(超絶平坦な)腹部をじっと見つめている。その顔は、困惑と、そして隠しきれない「凶悪なほどの独占欲と歓喜」に満ちていた。
「……あの、殿下。一つ、よろしいでしょうか」
俺は周囲の女官たちを下がらせ、二人きりになったのを見計らって、極めて冷静な声で切り出した。
「お言葉ですが、私は懐妊などしておりません」
「……何?」
「よく考えてみてください。私と殿下は、毎晩同じ寝台で休んではおりますが……その、いかにも『子ができるような行為』は、一度もしておりませんよね?」
そうだ。俺たちは毎晩、ただ密着して寝ているだけだ。俺が氷枕になり、炎が抱きつく。それ以上の「生々しい行為」は一切ない。服すらまともに脱がされていない。だから、炎なら分かってくれるはずだ。「俺の子であるはずがない」と。そして、この騒動を「ただの胃もたれだ、騒ぐな」と一蹴してくれるはず——。
だが、炎の反応は俺の予想を完全に裏切るものだった。
彼は痛ましげに眉を寄せ、俺の頬をそっと撫でた。
「……すまぬ、淑媛。余を気遣って、無かったことにしてくれようとしているのだな」
「は?」
「余は……知っての通り、あの『呪いの熱』に浮かされる夜は、正気を失っている。自分の中に渦巻く熱と暴力的な衝動を抑えきれず、記憶がひどく曖昧になるのだ」
炎の指先が、俺の首筋から鎖骨へと滑り落ちる。その手が微かに震えていた。
「だが……お前の肌の感触だけは、鮮明に覚えている。余の炎を鎮める、あの極上の冷たさ。熱に狂った余がお前を力任せに組み敷き、もがき、喘ぐお前を……貪るように抱き潰した感触だけは、この手に、この身体に、確かな熱として刻み込まれている」
(……はあああああああっ!?)
俺の口から、ポロリと魂が抜け出た気がした。
待て待て待て。それは違う! 組み敷かれてもがいたのは、「重いし熱いからどけ!」と抵抗していただけだし、喘いだのは「あっつい! 酸欠になる!」とハァハァ息を切らしていただけだ!
だが、炎の脳内では違った。
彼は熱で理性を失っていた夜の、断片的な「密着した記憶」「柔らかな(冷たい)肌の感触」「乱れた息遣い」をつなぎ合わせ……。
『自分は熱に狂って理性を失い、このか弱き淑媛を強引に抱いてしまったのだ』と、完全に誤認(確信)してしまったのだ!
「獣のように振る舞った余を、お前は責めず、黙って耐えてくれていたのだな……」
炎は酷く愛おしげに、俺の平らな腹部にそっと耳を押し当てた。
「そして、この冷え切った身体に、余の熱が根付いた。……ああ、なんという愛おしさだ。お前はもう、余の血肉を宿した、真に余だけのものだ」
炎の金色の瞳が、暗く、ねっとりとした執着の色を帯びて俺を見上げる。
ただの「冷却器」としての依存ではない。「自分の子を宿した女」に対する、逃げ場のない完全な囲い込みの眼差しだった。
「違います殿下! 本当に、ただの胃炎で……!」
俺が必死に誤解を解こうとした、まさにその時だった。
「——内医院の首医が、大妃様の命により推参いたしました」
部屋の外から、冷や水を浴びせるような、重々しい声が響いた。
内医院の首医。つまり、王宮のトップ・オブ・トップの医者だ。
「……大妃の使いだと?」
炎の顔が、一瞬で険しいものに変わった。さきほどの甘い執着の表情から、子と女を守る猛獣の顔へ。
「はい。『本当に王家の血を引く御子か、この首医の確かな脈診をもって証明せよ』との仰せにございます」
障子の向こうに、白髪の厳格そうな老医が控えているのがシルエットで分かった。
(……来た!! 最強の刺客が!!)
俺は血の気が引いた。大妃は信じていないのだ。
「あの冷え切った得体の知れない女が、ぽっと出で妊娠などするわけがない。何か裏があるはずだ」
だからこそ、最高レベルの医者を送り込んできた。
医者に脈を診られれば、一発で終わる。
妊娠していないことなど一瞬でバレるし、何より「19歳の健康な武人(男)の脈」だとバレてしまう。魔力の質も、血の巡りも、か弱き妊婦とは全く違うのだ。
「……帰れ。淑媛は今、絶対安静だ。誰にも触れさせる気はない」
炎が低い声で追い払おうとするが、首医は動じなかった。
「殿下。これは大妃様からの、そして王室の未来のための『絶対の命令』でございます。もしここで診察を拒まれれば、大妃様は『淑媛様は偽りの懐妊で王室を欺いた』として、直ちに後宮の規律に則り、捕縛の命を下されるでしょう」
(……詰んだ)
拒否すれば、即座に大妃の親衛隊が突入してきて、俺は地下牢行きだ。嘘をついた罪、王をたぶらかした罪で、一族郎党皆殺しである。
「……殿下」
俺は震える声で、炎の袖を引いた。
「……診察を、受けます」
「淑媛!? だが、お前は無理をしているのだろう! それに、もし荒っぽい真似をされて身体に障ったら……」
「大丈夫です。……ここで逃げれば、殿下のお立場も、この子の立場も悪くなりますから」
俺は「この子」という存在しない概念を利用して、炎をなだめた。
どうせバレるなら、最後まで抗ってやる。俺には【氷】の魔力がある。そして、武門の長男として極限まで鍛え上げられた「肉体の完全コントロール」の技術がある。
妊婦の脈、それは滑脈だ……!
昔、閔家が伝承する儀式の最中、姉上の手首で、幾度も触れさせられたものだ。お盆の上で真珠を転がすような、滑らかで、それでいて内側から弾け出すような力強い奔流!
それを、この腕一本で偽装できないか?
血管の周囲の筋肉を魔力で微細に凍らせ、血流を意図的に圧迫し、リズムを強制的に狂わせる。心臓の鼓動とは別の、人工的な「珠を転がすような脈」を、手首にだけピンポイントで作り出すのだ。
「……入れ」
炎の許可が下り、障子が開かれた。
首医が、恭しく頭を下げながら入室してくる。その手には、直接肌に触れないための診察用の薄い絹の布が握られていた。
「では、淑媛様。……失礼いたします」
首医が、俺の右腕に絹の布をふわりとかぶせ、その上から三本の指をそっと置いた。
触れられた瞬間、俺は全神経を手首の数センチの空間に集中させた。
(凍れ……いや、凍らせすぎるな! 血管を縛れ! 緩めろ! リズムだ……珠が転がるリズムを刻め……!!)
俺の脳内で、生存を賭けた超精密な魔力コントロールの幕が切って落とされた。
少しでも気を抜けば、ただの「元気な男の脈」。
やりすぎれば、血流が止まって「死人の脈」。
首医の眉が、ピクリと動いた。
沈黙が、部屋を支配する。炎が息を飲んで見守り、そして首医の厳しい目が俺の手首へと注がれる中、俺は額に(魔力で凍らせた)冷や汗を浮かべながら、ひたすらに手首の血管と格闘し続けていた。
沈黙がどれほど続いただろうか。首医の指先が、俺の腕の脈を探る。
俺は極限の集中力で、血管の収縮をコントロールしていた。ドクン、ドクンという男の力強い脈を、氷の魔力で薄く覆い隠し、代わりにトクトクと、まるで盆の上で玉が転がるようなリズミカルな振動を人工的に作り出す。
(どうだ……! これが滑脈だろ! 騙されてくれ!)
首医の眉間に、深いシワが刻まれる。
「……ふむ」
老医の喉の奥から、低く唸るような声が漏れた。その三本の指が、さらに深く俺の脈を押し込んでくる。
(ヤバい、深く探られたら氷の偽装を突き破られて、元の太い脈がバレる!)
俺は慌てて、さらに冷気を手首に集中させた。血管を冷やし、脈そのものを細く、か弱く偽装する。
「……妙ですな」
首医が顔を上げ、怪訝そうな目で俺を見た。
「確かに、これは滑脈。……玉を転がすような、新たな命を宿した『喜脈』の兆候が見られます」
「おおっ!」
炎が歓喜の声を上げ、周囲に控えていた女官たちが再び「おめでとうございます!」とざわめき立った。
だが、首医の顔は晴れない。
「しかし……殿下。淑媛様の脈は、あまりにも冷たく、そして細すぎます。まるで、氷の底を流れる細い小川のよう。極度の『陰』の気が全身を支配しており、お腹の御子も、かろうじてしがみついているような……極めて危うい状態です」
(そりゃそうだ、俺は男だし、氷の魔力持ちだし、そもそも子供なんていないんだから!)
俺が内心でツッコミを入れていると、炎の顔色が一瞬にして蒼白になった。
「危うい、だと? ……どういうことだ。余の子が、そして淑媛が危険だと言うのか!」
「はい。母体がこれほど冷え切っていては、いつ流れてもおかしくありません。大妃様が懸念されていた通り、淑媛様のお身体は御子を育むにはあまりにも……」
「黙れッ!!」
ドォォォォン!!
炎の全身から、爆発的な熱波が放たれた。部屋の障子がガタガタと震え、空気中の水分が一瞬で蒸発して息苦しくなる。
「ひぃっ!?」
首医と女官たちが、床に平伏して震え上がった。
「余の女と子に向かって、不吉な口を叩くか! 淑媛が冷え切っているのは、毎晩余の『呪いの熱』をその身に引き受けてくれているからだ! 余の命を繋ぐために、我が身を削ってくれているのだぞ!」
炎の金色の瞳が、怒りで赤く染まる。
「それを……労うどころか、危ういなどと抜かすか! 余の炎で、貴様のその舌を焼き尽くしてやろうか!」
「で、殿下、お待ちください!」
俺は慌てて炎の腕にすがりついた。これ以上熱を出されたら、俺の氷の偽装が溶けて、顔の白粉までドロドロになってしまう!
「私は大丈夫です……! 殿下の御子をお守りするためなら、この程度の冷えなど……」
俺はか弱き妊婦(大嘘)を演じ切り、わざとらしくゴホゴホと咳き込んだ。
炎は俺の震える手を見ると、ハッと我に返り、殺気を収めた。
「……すまぬ、淑媛。お前を怖がらせるつもりはなかった」
炎は首医を冷酷に見下ろした。
「聞いたな。淑媛は絶対安静だ。これ以上、この部屋に得体の知れない薬や、ストレスを持ち込むことは余が許さん」
だが、首医も大妃の命を帯びている以上、簡単には引き下がれない。
「で、ですが殿下! 脈だけでは不十分です。大妃様は『腹部の張りや、お身体の状態を直接この目で確認せよ』と……。どうか、淑媛様のお召し物を解き、直接お腹の触診を……!」
(触診!? 服を脱ぐ!? 絶対にダメだ!!)
俺の心臓が、今度こそ本物の絶望で跳ね上がった。平らな胸板、割れた腹筋、そして男のシンボル。そんなものを見られたら、即座に打ち首だ!
俺が恐怖で身を強張らせた瞬間、炎が俺を庇うように立ち塞がった。
「……貴様、余の妃の裸身を拝むと言うのか?」
「滅相もございません! これは医療行為であり、純粋な診察で……」
「ならぬ」
炎の声は、俺の魔力より冷たいかもしれない絶対零度の響きを持っていた。
「淑媛の身体に触れてよいのは、余だけだ。……これ以上、余の女にその薄汚い手を伸ばすなら、貴様の腕を肩から切り落として灰にする」
「ひっ……!!」
炎の手から、チラチリと赤い火の粉が舞い落ちる。それは単なる脅しではなく、暴君の確かな殺意だった。
「わ、分かりました……! 本日は、これで退散いたします! 脈診の結果は、間違いなく大妃様にお伝えいたしますゆえ……!」
首医は逃げるように部屋から転がり出ていった。女官たちも、炎の殺気に当てられてそそくさと退室していく。
部屋に、俺と炎の二人だけが残された。
「……ふぅ。去ったか」
炎は大きく息を吐き出すと、先ほどの暴君ぶりが嘘のように、俺に向かって甘く、そして壊れ物を扱うような優しい眼差しを向けた。
「すまなかったな、淑媛。……余がもっと早く追い払っていれば、お前にこんな怖い思いをさせずに済んだのに」
炎は俺の隣に座り、俺の手を両手で包み込んだ。
「……しかし、安心した。余の子が、確かにお前の中にいるのだな」
炎の大きな手が、俺の(魔力で冷え切った平らな)お腹にそっと添えられる。
「冷たいな……。首医の言う通りだ。お前は余のために、無理をしすぎている。これからは、余が自分の熱で、この子とお前を温めてやらねばな」
炎は酷く愛おしげに微笑み、俺のお腹に頬を擦り寄せた。
「愛しているぞ、余のただ一人の女よ。……余のすべてを懸けて、お前とこの子を守り抜いてみせる」
(…………あぁ、神様)
俺は、炎のその真剣で、あまりにも純粋な愛情を目の当たりにして、激しい罪悪感と絶望に襲われていた。
彼は本気だ。本気で俺を愛し、本気で存在しない「我が子」を愛している。
俺のついた「ただの胃炎」という嘘(というか周囲の勘違い)は、炎の心に決定的な楔を打ち込んでしまった。
(どうするんだよ、これ。……十ヶ月後、俺はどうやって『産む』んだよ!?)
腹にクッションでも入れて誤魔化すか? いや、出産になれば絶対にバレる。それまでに逃げるしかない。だが、こんなにも俺に執着し、「命を懸けて守る」と誓うこの暴君から、どうやって逃げ出せばいいというのか。
俺が青ざめている間にも、炎は「お腹の子供」にむかって楽しげに語りかけている。
(逃げなきゃ……でも、今逃げたら、こいつは完全に狂っちまうぞ……)
一方その頃、大妃殿。
命からがら逃げ帰ってきた首医の報告を聞き、大妃は玉座の肘掛けをギリッと音を立てて握りしめていた。
「……触診を拒んだと?」
「は、はい。殿下が激怒なされ、お召し物を解くことまかりならんと……。脈は確かに喜脈でしたが、あまりに冷たく、不自然な気を感じました」
大妃の切れ長の目が、底冷えするような光を放つ。
「……やはり、怪しいですね。王をたぶらかし、触診すらさせない。あれは、何か途方もない『偽り』を隠しているに違いありません」
大妃は扇子をゆっくりと開き、口元を隠した。
「殿下が力で守ろうとするなら、こちらは『後宮の法』と『女の園の掟』で絡め取るまで。……チェ尚宮」
「はっ」
「明日の夜、『身清めの儀』と称して、淑媛を王宮の大浴場へ連行しなさい。……私が直々に、その女の皮をひん剥いてやります」
最大の危機を乗り越えたと思った俺の前に、さらなる地獄の釜の蓋が開こうとしていた。
俺の「男バレ回避」のカウントダウンは、ついに最終局面へと突入しようとしていたのだ。




