第1話 『英雄』の死んだ日に
分娩室が泣いている。
生まれたばかりの僕を抱きながら、母は悲嘆に暮れて慟哭していた。
いや、母だけではない。父も、駆けつけた祖父も祖母も、それどころかその場に居合わせた助産師までもが涙していた。
そんな中でただ一人、状況を理解できない僕だけが、あっちこっちに目を泳がせて咽び泣く大人達を静かに眺めていた。
──二〇〇六年八月二十三日。
僕が生まれたその日は、日本で最も愛された男──『英雄』が死んだ日だった。
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──『英雄』生誕六十年。
そんなことが書かれている黄色い幟と、初々しい色をした若葉を心地のよい風が小さく揺らす。
いつもより活気付いている商店街を歩いて、僕は少し小走りでバ先へと向かう。
まだバイト時間までには余裕があったけど、今日の街は落ち着かない。
『英雄』の誕生日を祝う今日という日は、いつまで経っても苦手意識があった。大学生になって祝日の有難味が無くなってからは尚更だ。
想定より5分も早くバ先に到着した僕は早めに準備を済ませ、控室で業務開始までの間スマホを見ていると店長から声をかけられる。その声の方を見ると、そこにはいつもの馬面をした店長と、見知らぬ白い髪の女性が立っていた。
「ねぇちょっと。今日から新しくバイトとしてこの子が入ってくれたんだけど、業務の内容を説明してくれない?頼んだからね」
僕に有無を言わせぬようまくし立てて面倒ごとを押し付けた店長は、そう言い終えるとそのまま控室から姿を消す。
一人残された髪を白く染めた女性は、少し気まずそうな顔を浮かべながら「よ、よろしくお願いします」と口にする。
そこに立っている新入りの彼女は、随分と可愛らしい見た目をしていた。
白いワイシャツの上に抹茶色のエプロンと、僕の働いてる100均──「コインワン」の制服でさえ着こなせる彼女は、きっと何を着ても似合うのだろう。髪を白く染めているのも、オシャレに見えるポイントなのかもしれない。
薄く淡い色をした唇を柔く噛み、丸く大きな目を小さく揺らしている彼女は、大学2年の僕と同い年か年下のように見えた。髪を染めてるってことは、高校生ではないだろう。
「よろしく。えぇと、100均で働くのは初めて?」
先に名前を訊いてもよかったのではないか、と思うが僕は彼女の「研修中」と太い字で書かれた名札の下に小さく書かれていた彼女の名前を把握する。
「はい。居酒屋で働いてはいたんですけど、100均は初めてで。──あ、です」
彼女は白いポニーテールを揺らしながらそう答える。最近になって、髪色自由な職場が増えてきているが、それでもやっぱりまだ実情はあまり伴ってないのかもしれない。
「そう。店長──さっきの人から何しろとか説明受けた?」
「はい。品出しとレジ打ちって言われました。具体的に何しろとかは……」
「わかった、ありがとう。じゃあ詳しく説明するね」
僕は、壁の方を一瞥して時間を確認する。業務開始までは後2分くらいあったけど、彼女を待たせるわけにもいかない。僕はパイプ椅子から立ち上がり、彼女の立つ店へ繋がる扉の方へと歩む。
すると、彼女の大きな瞳が僕の付けている左胸の名札の方へ注がれていることに気が付く。パッと彼女が僕と目を合わせると、彼女は一瞬目を伏せてもう一度ゆっくりと視線を上げる。
「あの、なんて呼べば……」
「あー、そうだな。僕は自分の苗字で呼ばれるのが好きじゃなくて」
名前を呼ばれたくないのは僕の小さなこだわりだったが、それに代替する呼び方は考えていなかった。
僕以外にもバイトは1人いるが、基本2人体制のこの店でバイトの時間は被ることはそう多くないし、毎日出勤している唯一の正社員である店長は誰のことも名前で呼ぼうとしない。
どう呼んでもらおうか、と頭の中で思考を逡巡させていると、僕ではなく彼女が先に答えを出す。
「わかりました。じゃあ、先輩って呼ばせていただきますね」
彼女はそう口にして、可愛らしい笑みを浮かべたのだった。
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「──と、こんな感じ。大体わかった?」
「はい、ありがとうございます。先輩」
新人アルバイトの仕事はそう多くない。僕達に任されているのは、品出しやレジ打ち業務がほとんどだった。ものの15分で業務内容を説明し終えた僕達はレジの方へと戻ってくる。
「それじゃ、必要な品出しは特にないしレジ打ちをしよっか」
「はい!」
僕の提案に威勢のいい返事をした彼女。まだ居酒屋の雰囲気が抜けてないのだろうか、と思いつつ2人は2つあるレジに並ぶ。と言っても、元より客足はそれほど多くない。
駅の近くに大手の100均が出来てから、こっちに来る客が減ってしまったのだ。
僕と彼女は、レジの裏に置いてある小さな丸椅子に座って退屈な時間を過ごす。
「それにしても、どうしてレジ打ちが必要なんですか?どこでもセルフレジが流通してるっていうのに」
彼女は、視線をレジスターの方へ向けながらそんな疑問を僕にぶつける。そんな彼女の横顔を見ながら、僕はこう答えた。
「『英雄』が死んじゃったからね。セルフレジだと万引きされることが増えちゃって」
「100均なのに?」
「そう、100均なのに。『英雄』がいた時は100均でも宝石店でも万引きは起こらなかったのにね。人って単純だ」
「……私、『英雄』のこと嫌いです」
彼女が、少し俯きながら可愛らしい顔を歪ませてそんな言葉を口にする。『英雄』のことが嫌い、そんな人がいたなんて。
「──僕も、一緒だ」
腹の底から飛び出た僕の本音。
──『英雄』が生まれて丁度60年目の今日、初めて僕は僕以外に『英雄』のことが嫌いな彼女と出会ったのだった。




