月華街の謎二つの恋の鼓動
月華街の夜は、提灯の灯りが揺れ、桜の花びらが石畳に散る。芸妓たちの笑い声と三味線の音が、路地に響き合い、どこか遠くで水の流れる音がする。葵は薬屋の暖簾をくぐり、店の奥で薬草を調合していた。棚に並ぶ乾いた葉や根の匂いが、彼女の鼻をくすぐる。二十歳の薬師の娘は、髪を簡素に結い、藍色の着物に袖を通していた。彼女の目は、薬草の微妙な色合いを見分けるように鋭く、だがどこか柔らかい光を宿していた。
「葵、遅くまでやってるな」
店の戸を引いて入ってきたのは、怜だった。貴族の次男、二十二歳。月光に照らされた彼の顔は、整った輪郭に涼やかな笑みを浮かべている。黒の袴に白い羽織、扇子を手に軽く叩く仕草が、彼の余裕を物語っていた。
「怜様、夜遊びのついでに薬でも買いですか?」葵はすり鉢を置かず、ちらりと彼を見た。「それとも、私に会いたくて我慢できなかった?」
怜は扇子を開き、口元を隠して笑う。「葵殿の毒舌は、まるで薬草のように効くね。だが、残念ながら今日は遊びじゃない。彩花殿が倒れた、話は聞いたか?」
葵の手が止まった。彩花は月華街随一の芸妓、二十五歳。その美貌と舞は、貴族から商人までを魅了する。彼女が倒れたとなれば、ただ事ではない。「詳しく話してください」と葵はすり鉢を置き、怜をまっすぐ見つめた。
怜は扇子を閉じ、声を低くした。「昨夜の宴で、彩花殿が突然ふらつき、意識を失った。医者は過労だと言ったが…どうも腑に落ちない。彼女の脈や顔色に、妙な兆候があったと、噂がある」
葵の眉が寄る。「妙な兆候? 例えば?」
「唇が紫がかり、目が充血していたらしい。医者は酒のせいだと言ったが、彩花殿は酒に強い。僕も宴にいたが、彼女はあまり飲んでいなかった」
葵は唇を噛んだ。「毒…あるいは薬物の可能性ですね。怜様、私を彩花さんのところに連れて行ってください」
同じ夜、月華街の裏路地では、凛が颯をからかっていた。十九歳の芸妓見習いは、桜色の着物を翻し、颯の前でくるりと回る。「颯さん、私の新しい舞、どうだった? 心、奪われちゃった?」
颯、二十一歳の用心棒は、木刀を腰に差したまま、顔を赤らめてそっぽを向く。「凛、からかうなよ。俺は仕事中だ」
「ふーん、仕事中でも私のことチラチラ見てたよね? 正直に言っちゃいなよ、ドキッとしたって!」凛は笑いながら颯の肩を軽く叩く。彼女の目は、いたずらっぽく光るが、どこか颯の反応を真剣に見つめていた。
颯は咳払いし、「お前の舞は…まぁ、悪くなかった」とぼそりと言う。凛は「悪くないって、それだけ? もっと褒めてよ!」と笑い、颯の腕をつかんで引き寄せる。颯は「離せって!」と抵抗するが、口元に笑みが漏れる。
その時、路地の向こうで物音がした。凛が振り返ると、彩花の屋敷の裏口から、怪しい影が走り去るのが見えた。「颯、あれ!」凛が指さすと、颯は即座に木刀を構え、追いかけようとする。「待て、凛、危ないからついてくんな!」
「危ないのは颯さんの方でしょ! 私も行く!」凛は颯の後を追い、夜の路地に消えた。
彩花の屋敷は、提灯の灯りに照らされ、静まり返っていた。葵と怜が部屋に通されると、彩花は床に横たわり、顔色は青白い。彼女の唇は確かに紫がかり、目はかすかに赤い。葵はそっと脈を取り、額に手を当てる。「熱はない…でも、脈が不自然に遅い。彩花さん、意識は?」
彩花は弱々しく目を開け、「葵…さん? 頭が…重い」と呟く。怜は部屋の隅で、彩花の化粧道具や茶器を観察していた。「葵殿、この茶碗、匂いが妙だ。嗅いでみてくれ」
葵は茶碗を手に取り、鼻を近づける。微かに苦い、薬草のような匂い。「…これは、黒蓮草の匂いに似てる。鎮静作用があるけど、量を間違えると毒になる」
怜の目が鋭くなる。「誰かが意図的に? だが、彩花殿を狙う理由は?」
葵は彩花の手を握り、「彩花さん、最近何か変わったこと、誰か怪しい人は?」と尋ねる。彩花は目を伏せ、「…わからない。でも、最近、薬草の取引の話が…」と途切れ途切れに言う。
そこへ、凛と颯が息を切らして飛び込んできた。「葵さん、怜様! 裏口で怪しいやつを見た!」凛が叫ぶ。颯は続ける。「男だった、黒い頭巾をかぶってた。追いかけたけど、路地で逃げられた」
葵は立ち上がり、「その男、彩花さんの体調不良と関係があるかもしれない。怜様、彩花さんの取引の話を調べられますか?」
怜は頷き、「僕の家の情報網を使えば、薬草の取引の裏がわかるかもしれない。ただし、葵殿、僕の調査に口出しするなら、覚悟してね」と笑う。
葵はにやりと返す。「怜様、私の薬学知識を試してみたいなら、いつでもどうぞ。負けませんよ」
翌日、葵は薬屋に戻り、黒蓮草の分析を始めた。博士、六十歳の葵の師匠が、棚から古い書物を持ち出し、「黒蓮草はな、月華街じゃ滅多に手に入らん。貴族か、特別な商人にしか扱えんよ」と言う。博士の目はいたずらっぽく、「それより、葵、怜の坊ちゃんと仲良くやってるか? あやつの目、昨日お前を見てたぞ」
葵は顔を赤らめ、「博士、余計なこと言わないでください! 怜様はただの…協力者です」と言い返すが、心臓が少し速くなる。
一方、凛は颯を連れて花街の市場へ向かった。「颯さん、怪しい男の手がかり、市場で探そうよ! ついでに、私とデート気分も味わって?」凛は颯の手を握り、笑顔で引っ張る。颯は「デートじゃねえ! 調査だ!」と叫ぶが、凛の手の温もりに動揺を隠せない。「凛、お前、ほんとに大胆だな…」と呟くと、凛は「それが私の魅力でしょ? 颯さん、落ちるのも時間の問題だよ!」とウィンクする。
市場で、凛は薬草売りの老婆から情報を聞き出す。「黒蓮草? あれは最近、裏で高値で取引されてるよ。彩花の屋敷に届けた商人もいたらしい」と老婆が言う。凛と颯は顔を見合わせ、「彩花さんの体調不良、絶対これだ!」と確信する。
怜は貴族の屋敷に戻り、家臣に命じて薬草取引の記録を調べさせた。夜、葵の薬屋に現れると、「葵殿、面白いことがわかった。黒蓮草は、月華街の有力者、商人頭の玄蔵が買い占めている。彼、彩花殿と過去に取引の揉め事があったらしい」と告げる。
葵は目を細める。「玄蔵…彩花さんの体調不良、そいつの仕業かもしれない。怜様、玄蔵の屋敷に潜入できます?」
怜は扇子で口元を隠し、「葵殿、一緒に来るなら考えてやってもいい。ただし、僕のペースに巻き込まれるよ?」
葵は笑い、「怜様、私のペースに巻き込まれるのはそっちですよ。心の準備、できてます?」
二人の視線が交錯し、互いの心を読むような沈黙が流れる。
その夜、凛と颯は玄蔵の屋敷の裏に忍び込んだ。凛は「颯さん、私が囮になるから、倉庫を調べて!」と囁き、颯は「危ねえって! 俺が…」と言いかけるが、凛はすでに走り出していた。彼女は屋敷の庭でわざと物音を立て、衛兵を引きつける。颯は倉庫に潜り込み、黒蓮草の入った木箱を見つける。「これだ…!」と呟くが、背後で足音が。振り返ると、黒い頭巾の男が立っていた。
同時刻、葵と怜は玄蔵の屋敷の表から潜入。書斎で取引の帳簿を見つけ、彩花が過去に玄蔵の不正な薬草取引を拒んだ記録を発見する。「彩花さんが玄蔵の商売を邪魔した…だから彼女を黙らせようとした?」葵が呟く。怜は頷き、「だが、証拠がいる。黒蓮草の出所を突き止めよう」
突然、屋敷の外で叫び声。凛の声だ。「颯、逃げて!」
葵と怜が駆けつけると、颯が黒い頭巾の男と揉み合っている。凛は衛兵に囲まれながらも、颯を助けようと石を投げる。「凛、危ねえ!」颯が叫び、男を突き飛ばして凛の手を握る。「一緒に逃げるぞ!」
四人は屋敷を脱出し、葵の薬屋に逃げ込む。
薬屋で、葵は黒蓮草の箱を分析。「この量…彩花さんの体調不良を引き起こすには十分。玄蔵が黒蓮草を彼女の茶に混ぜた可能性が高い」と結論づける。怜は帳簿を手に、「玄蔵は黒蓮草を高値で売り、月華街の薬草市場を独占しようとした。彩花さんがその計画を邪魔したんだ」と補足する。
凛は息を整え、「あの頭巾の男、玄蔵の手下だよね? 私、顔見た! 絶対捕まえてやる!」と拳を握る。颯は彼女の肩に手を置き、「凛、無茶すんな。俺が守るから」と言う。凛は顔を赤らめ、「颯さん、かっこいいとこ見せようとしてる? 落ちちゃうよ、私」と笑う。
葵は怜をちらりと見て、「怜様、凛と颯の勢い、負けてますよ? 私にも何かかっこいいとこ、見せてくださいね」とからかう。怜は扇子を手に笑い、「葵殿、僕のかっこよさは、頭脳で見せるよ。玄蔵を追い詰める策、任せてくれ」
翌朝、四人は彩花を連れて玄蔵の屋敷へ。怜が帳簿を突きつけ、「玄蔵殿、黒蓮草の取引と彩花殿の体調不良、すべて繋がった。観念しなさい」と言う。玄蔵はしらを切るが、葵が黒蓮草の分析結果を説明し、凛が頭巾の男の特徴を証言。颯が「その男、俺が捕まえた。裏の蔵にいる」と言うと、玄蔵は顔を青ざめる。
彩花が立ち上がり、「玄蔵さん、私があなたの取引を断ったから、こんなことに…でも、月華街を汚すのは許せません」と言う。玄蔵は観念し、すべてを白状。頭巾の男は彼の手下で、彩花の茶に黒蓮草を混ぜたことを認めた。
事件は解決し、月華街に平穏が戻る。彩花は葵に礼を言い、「葵さん、怜様と良い雰囲気でしたね」と微笑む。葵は「そんな…ただの協力です!」と否定するが、怜は「葵殿、協力以上の何か、感じなかった?」と囁く。葵は顔を赤らめ、「怜様、調子に乗らないでくださいね」と返すが、目が笑っていた。
一方、凛は颯の手を握り、「颯さん、今回の件でわかったよ。私、颯さんのこと、ほんとに…ね!」と大胆に言う。颯は目を丸くし、「凛、お前…急すぎるだろ!」と叫ぶが、彼女の手を握り返す。「でも、俺も…お前と一緒にいたい」と呟く。凛は「やった! 颯さん、落ちた!」と笑い、颯は照れながらも笑顔を見せる。
夜、月華街の桜が再び散る中、葵と怜、凛と颯はそれぞれの道を歩き出す。恋はまだ始まったばかり、誰も告白には至らないが、心は確かに近づいていた。
END