2.エンゲージ・エンカウンター〈2〉
「……」
「お邪魔しまーす。と、ただいま〜……」
何も言わずに帰宅する少女の代わりに、彼女は二つの挨拶をしておいた。
玄関と廊下を通って行った彼女は、少女に案内されるがまま、まずはリビングへと足を踏み入れる。
そこは、凄くちゃんとしたリビングだった。失礼ながら、想像の何倍も普通で、ちゃんとしていた。
食卓、台所、ソファ、絨毯。他にも、無いと不自然に思うような家具は、一通りちゃんと揃っている。さらに加えて、本棚に並ぶ雑誌、テレビなどのような、極々普通の娯楽もある。なんの変哲もない、普通のリビングだった。
ちゃんとした光景を意外に思うと同時に、千夏は少し安心した。この少女だって同じ日々を過ごす人間なんだと、そう思った。
なのに、少女はリビングの電気もつけずに、台所の奥へと進んで行く。この場に興味はない、とでもいうように、スタスタと歩いている。
「え、ええっと〜……?」
着いてきて、と目配せをしてくる少女を、彼女は追うしか無かった。
「お〜い……?」
安心はすぐに困惑に変わって、呼びかけながら追って行く。
やはり普通の内装であるリビングを、意外そうな表情で見回しながらも、彼女は台所へと向かって行った。
▽
リビングの廊下側の端っこに、この家の台所は鎮座しているようだ。それ自体は、普通のよくある内装である。
だが、それ以外が普通ではなかった。
やってきた台所は、彼女からすれば殺風景に見えた。ろくに食材がなくて、生活感の欠片もなかった。
上にある棚には、何も入っていなかった。食器とかそういうものすらない、空っぽの棚だった。
そこでやっと彼女は、『普通じゃない』を超えた不自然さに気がつく。『ちゃんとしたリビング』だったものが、『見た目だけ整ったリビング』へと、一気に形を変えていくようだった。
不気味な疑問が生まれてしまった彼女は、ゴクリと唾を飲む。そして、勇気を出すつもりで、その疑問を問いかける。
「あなたは……本当にここで暮らしてるの?」
「……鋭い問いだね」
そう答えた少女は、台所の奥の、床下の扉を開けた。
そこに見えるのは、見事なまでに『それっぽい』地下への階段。
地下室など入った記憶もない彼女だが、こういう部屋は映画などで見た覚えがある。確か、名称は──
「……セーフハウス?」
「──その通り」
彼女の問いに、少女はこくりと頷いた。
そこで彼女は、やっと事情を理解した。
▽
地下の部屋は、散らかっていた。地面が見えないくらい、ゴミに溢れていた。
そんでもって、家具の数も少なかった。カップ麺の箱や空のペットボトルなどのゴミたちが、大量かつ無造作に捨てられている、そんな、酷い有り様だった。
けれども、先ほどよりはるかに、生活感に溢れていた。
テーブルの側の椅子に腰掛けながら、少女は立ったままの彼女を見やる。
「……とりあえず、座って」
「そう言われても、どこに……」
「椅子が四つあって、三つ残ってるから……適当に、その中のどれかに」
少女の言葉で、彼女は散らかった周りを見渡した。すると、確かに椅子は、食卓の側に四つある。といっても残りの三つは、ゴミ山に埋もれていたのだが。
「……よし」
彼女は覚悟を決めると、そのゴミ山をどかしていくことにした。
「よいしょ……っと!」
座ると決めた、一つの椅子。その上や周りに散らばったゴミを、とりあえず遠くに避けていく。
それが終わった後で、彼女はその椅子に腰掛けた。少女に向かい合う位置にある椅子であり、少女の無表情がよく見える。
「へへ……」
「……──」
何となくで彼女が笑いかけてみても、少女が返すのは無言と無表情だった。
「……──」
「……──」
しばらく、シーンとした沈黙が続く。どちらも、言葉を発さない状態だ。
気まずいと、彼女の方だけが感じた。
故に、それに耐えきれなくなったのは、勿論彼女の方であり、
「えっと……ありがとう。私のこと、助けてくれて」
「……どうも」
「名前は……なんていうのかなっ?」
「──白無」
意を決した質問で、やっとこさ少女の名が判明した。
「白無ね、ふむふむ」
などと相槌を打ちながら、今度の彼女は自身を指差す。
「あ、ちなみに私の名前はね──」
「──月崎千夏」
「……へ?」
割り込むような白無の声に、彼女──千夏は、素っ頓狂な声を上げた。その発声の原因は、当然のような疑問である。
「なんで……私の名前知ってるの?」
訝しげに千夏は問うが、白無の方に動揺は見られない。透き通った瞳で、ただ千夏を見ている。
「護衛対象だから……ずっと知っている」
「……ずっと、って……」
「そう、ずっと。昔から、貴方が東京に来る前から、ずっと貴方が護衛対象だった。そして、ずっと護衛していた」
「東京に来る前って……それも知ってるの?」
「そう。神奈川にいたのも、知っている」
困惑している千夏に対して、白無は淡々と答えを告げていく。
一見すれば、怪しすぎるモノでしかない、ストーカーとも思えそうな、行動を把握し過ぎているそれらの言葉。
けれど、全く敵意はないように見えて、実際に先程守ってもくれたのだから、何もわからなくなってしまう。なんとか整理しようと思っても、情報が不足していた。
しばらくの沈黙が続いて、やっと千夏は決める。とりあえずは事情を聞こうと、そう決めたのだ。
「……なんで、私を守ってくれてたの?」
「ずっと、色んな奴らに狙われてたから」
「それは、今日みたいに……っていうこと?」
「そう。……けれど、今までの任務は今日とは違って、貴方に気が付かれる前に事を終えられた。今日までは、それが普通だった」
「……」
何も言えないでいる千夏に、白無は告げる。
「今日は──相手が少し、強かった。貴方のことが広まることによって、段々と相手が強くなってきている。そう、感じる」
「……」
真っ直ぐと言ってくる白無の言葉は、千夏にとっては遠い世界の話にも思えて。けれど決して他人事ではないのだと、そう実感するしかない体験をしてしまっていた。
だから千夏は怯まずに、問いを続けていく。
「なんで、私は狙われているの?」
「貴方の持つ、特異すぎるPSIが原因」
「……なるほど」
白無の答えは、予め考えていた中でも一番納得できるモノで、千夏は取り乱すことなく頷いた。
「自身が念じて触れた者のPSIを無効化するPSI、だよね。すっごい珍しいらしいっていうのは、理解してるよ。周りの知人とか健康診断の医者とか、特に大人には、散々口酸っぱく言われたもん」
昔を思い返しながら、しみじみと呟く千夏。なんだか落ち着いてきたようで、ついつい背伸びまでしてしまう。
白無はそれをじっと見て、諭すような目線を向ける。
「それを理解しているのなら……身を隠した方が良い」
「流石にそこまで言われたことはないけども……狙われているって言うのなら、確かにそうなのかも?」
千夏は唇に人差し指を当て、少し考えるように首を傾げた。その光景に、焦りのようなものは見られない。本当に、落ち着いてきていた。
そんな千夏を眺めるように、白無は静かに顔を上げる。
「……貴方、案外図太い。もう少し、取り乱すと思っていた」
「いや、十分取り乱してるけどっ! 殺されたくないけどっ?」
「……そう?」
明るく意義を唱える千夏に、懐疑的な台詞を返す白無。もう少し静かに怯えてもいいだろうと、つまり白無はそう言いたいのだろう。
「普通の人はこういう時に怖がるものだと、そう記憶している」
「……うーん、まあ、確かにねえ」
それもそうだと千夏は呟き、そして続ける。
「なんていうか……多分私は、『怖い』が行き過ぎると通常になるんだよ。殺されたくはないけれど、隠れたくもないなあって思ってる。後は、このPSIのせいなのか〜……って、ちょっと納得しちゃってる」
「それは……危機感がない、と同じこと。災害で避難せず、そのまま死ぬ。そういうタイプの末路を迎える」
そう語る白無の目は、強い否定を示しているようだった。
その意見もよくわかると、千夏はそうも思うのだけれど、
「身を隠すってつまり、逃げ隠れるってことじゃないのかな? なら私、それは嫌なんだよ。ずっと、日常を過ごしていたい」
「……」
続けて言った千夏なりの意見に、白無はその目を僅かに開いた。
「別に、殺されたい訳じゃないよ。迎え撃とうとか思ってもいるし、そのせいで非日常に入るだろうっていうのも漠然とわかってる。──けれど、日常を完全に無くしたくはないんだ」
「……どうして、そう思う?」
さらに続いた千夏の意見に、白無は問いかけの声を発する。
それに対する千夏の表情は、かなり落ち着いた微笑みだった。
「さっき追われてたとき、すっごい怖くて……白無のおかげで助かった今は、すっごい安堵してるから、かな」
「……もう少し、要約が欲しい」
「うーん……つまり、日常にいると安心するから、かなあ?」
少し考えながらも、自身の感情を明かしていく千夏。
「……それだと、私とのこの状況が、日常判定になるけれど」
彼女の意見が理解できない様子の白無は、目を細めて指摘を告げる。
けれども、千夏は落ち着いたままで、白無に向かって笑ってみせた。
「うん? そうだよ。これもあくまで日常っ。同年代に見える人と話してるんだし、そういうことでいいかなって」
「……よく、わからないけれど……まあ、呑み込んだ」
結果、白無は理解を諦めた様子。意見をただの言葉として、記憶に入れることとしたようだ。
けれども、考慮してくれるのならそれで良いと、千夏はそう思った。
▽
話に一区切りがつけば、千夏は「ふう〜」と息を吐く。そうして、向かい側にいる白無を見る。
「これから……私はどうすればいいのかな? このまま帰るっていうのは、ちょっと不安なんだけれども」
「……隠れる意思がないのなら、私が護衛するしかない」
白無は先ほどの意見を汲んだ上で、冷静にそう告げた。
一方の千夏は、その言葉を聞いて、少し疑問に思ったことがある。
「さっきから護衛って言うけれど……白無って、普段何をしている人なの?」
「それは、仕事のこと?」
「まあ、そうかな。普段、何の仕事をしているの?」
「……──」
千夏の問いに、白無は少し黙ってしまって、答えるべきか考えているようだ。そしてしばらくすれば、彼女はゆっくりと口を開く。
「──『生かし屋』。……と、言われている仕事」
「……はい?」
白無の答えを耳に入れると、千夏はついつい聞き返してしまった。そして「うーん」と唸りながら、ちょっと考えだしてもみて、
「生かし屋……あ、殺し屋の反対ってこと!?」
千夏は手をポンと鳴らし、思いついたように声を上げた。殺し屋っぽい者に狙われていたからこそ思いつけた、そういう閃きである。
白無はその思いつきを聞いて、少し考えるように目を伏せる。
「反対かどうかは知らないけれど……人を生かす仕事と言う意味でなら、反対なのかもしれない」
「人を生かす仕事……ああ、だから護衛なの?」
千夏はやっと合点が入って、すっきりとした思考で問いかける。
「いや。護衛も仕事の一部、と言うだけ」
「なら、本来の任務は──」
返ってきた白無の否定に、千夏はもう一度問いかけようとして、
「──あらゆる殺し屋の任務を『失敗』で終わらせること。『殺されない、殺させない』こと。それが、私の仕事」
問うより先に当の本人が、白無が、透き通った瞳で淡々と告げた。
仕事に対しての誇りなど、そういった感情は見られない。やはり、どこまでも無表情をしていた。
白無はその瞳で千夏を見て、確認のように続ける。
「貴方を殺す任務を失敗させるため、私は貴方の護衛を続けている。……つまりは、そういう事情」
「……なるほど」
千夏が返した相槌は、あまり中身が伴っていないものだった。その仕事に対し、何も事前知識がない、それ故の反応である。
けれども、相槌とは概ね肯定であり、白無はそのまま話を続けていく。
「まずは……今回の敵、凛々を退ける」
「何その、パンダみたいな名前は」
「今日貴方を狙ってきた敵の、所謂コードネームと呼ばれるもの」
「……なるほど」
今度の千夏の相槌は、割と中身を伴った、理解した上でのものだった。コードネームという単語を、多少は理解していたからだ。
「コードネームがわかってるってことは、殺し屋の正体自体は判明してるんだ」
「うん。外見も戦法も、既にわかっている」
「……おお」
頼もしく聞こえる白無の言葉に、千夏は感嘆の声を上げる。勿論、問いを繰り出すことも忘れずに、
「それで、どんな外見なの?」
「……二十歳くらいの、銀髪のロングヘアに碧眼の女性」
「……おお」
かなり詳しい情報を告げた白無に、千夏は再び感嘆の声を上げた。
「……戦法は、主に二丁拳銃のぶっ放し。『放った弾丸の軌道を一度だけ変える』空間操作タイプのPSIを扱う」
「……そこまでわかってるんだ」
さらに詳しく続けた白無に、千夏はぽろっと感想をこぼす。見かければわかるくらいの情報は揃っていないか? とまで思う。
それでも白無は油断せず、冷静に続ける。
「かなり有名で活動期間も長い、所謂ベテランの殺し屋だから。あっちの情報は、色々と持ってる」
「……ちなみに、相手の方はこっちの情報は?」
「持っていない……と思いたいけれど、決して油断はしない」
次に白無は、抑揚なく答えた。それが逆に、冷静で迷いなく見えて、ある種の頼もしさに繋がっているかのようだった。
そんな少女にちょっとだけ頼ってみようかと思い始めながら、千夏は問いを投げかけてみる。
「私……これからどうすればいいかな?」
「……隠れる気がないのなら、いつも通りにしてもらうしかない」
対する白無の答えは、やはり抑揚もなく、淡々としたものだ。けれどもやはり、少し頼もしくも思えてくるものであり、
「わかった。いつも通りね」
理解した、と言うように、千夏は白無へと頷いた。
いつも通りにする。何も変わらずに、平穏を保つ。
それこそが、今の千夏がするべきこと。──と、いうわけなのだろう。