1.エンゲージ・エンカウンター〈1〉
貴方は、『殺し屋』なるものをご存知だろうか?
勿論誰だって、その単語くらいは知っているだろう。それはきっと、大多数に当てはまることだ。
けれども、実際に会ったことはないのであろう。それもきっと、大多数に当てはまることだ。
狙われたことだって勿論ないだろう。それこそきっと、大多数に当てはまることだ。
彼女だってずっとずっと、その大多数に所属していた。平穏無事に、日常と呼べるものを過ごしてきた。
だけれども、今の彼女はもう、その大多数に属してはいなかった。
彼女は恐らく──今まさに、『それ』に狙われていたのだから。
▽
西暦二〇三X年。七月十九日。
東京都、某区。
午後、下校時刻。
彼女は──『殺し屋』から逃げていた。
正確に言えば殺し屋かどうかなんてわからないが、少なくとも彼女はそう仮定して、それから逃げていた。こんなことをしてくるなんて殺し屋くらいしか思いつかないと、回らない頭を使い、勝手に決定させていた。
長い茶髪を靡かせて、丸めの瞳に焦りや恐怖を宿して、黒いセーラー服を靡かせて、鞄なんてモノは置き去って、逃げるうちに迷い込んでしまった狭い路地裏の道を、全速力で走っていた。
タッタッタッと、足音が響いた。
迷いを一瞬で消して、十字路の曲がり角を右に曲がった。迷っている暇など、有りはしないと思ったからだ。
「はっ……はっ……!」
息を吐いて走りながら、彼女は嘆くように思う。
──ああ、なんでこうなったんだろう! と。
初めは、こんな路地裏なんかにはいなかった。学校が終わって、いつも通りに友達と別れて、のんびりと帰路についていた。見知った住宅街を、ゆっくり歩いていた。
息を吐き続け、走り続けている彼女は、少し思考の端で考え始める。どこからこうなったんだろう、と。
ろくに銃の音がしなかったのに、ふと気づいた瞬間、自分のスカートの端が焼け焦げていたこと。多分、それが最初の気づき。
二発目も音がしなかった。けれど今度は確実に、目の前を銃弾が通っていった。そうして、路地裏の床が焼け焦げた。そこで、ようやく足は動き出した。
──逃げようと、そう思った。
やがていつの間にか、路地裏に辿り着いていた。
──この銃弾がPSIによるモノだったら、簡単に防ぐことができるのに!
そう、心の中で嘆いても、結局逃げるしか道はない。運動が特別得意なわけではないので、マラソン大会以上に疲れがくる。
「はっ……はっ……!」
そのまま走って走って、走り続けて。けれど、疲れはどんどん増していって。
それ故にふと思ってしまう、一つのこと。
──どこまで逃げればいいのだろう? そんな、考えだすとキリがない不安。
そのどうしようもない不安は、目に見える形となって現れて──ついに彼女は、足を止めてしまった。
そのまま腰が抜けたように、へな……とその場にしゃがみ込んでしまう。
だから、自分目掛けて真っ直ぐ飛んでくる銃弾に対しても、もうどうすることもできなかった。
──痛みと死を覚悟して、彼女はしゃがんだまま目を瞑った。
──ダンッ! ダンッ! と、着弾の音が二つ響いた。
けれども──彼女自身に痛みはなかった。死は、訪れなかった。
「……あれ?」
呆気に取られた彼女は、恐る恐るで目を開けた。
まずは、場所。目を閉じる前と変わりのない、路地裏の曲がり角だ。
次に、放たれた銃弾。二つとも彼女から逸れてくれていたようで、後ろの壁に焦げ跡を作っている。
最後に、一番彼女が驚いたこと。
──目の前に立っている、一人の少女の存在。
透き通った白い長髪、透き通った白い肌、透き通った白い目。フード付きの真っ白なオンボロマントを羽織っている、十五歳くらいの見た目をしたスレンダーな少女。片手に手にしている包丁が、きらりと白く光っている。
こちらへと振り向いたその少女は、それはそれは美しい、神秘的な顔立ちで、無の表情を表現していた。
「……安心して。後、できれば動かないで」
小さな唇を動かしながら、少女は小声で呟く。
「……──」
こちらは声も出せなくて、それ故に返事もできなくて。それでも、その要求に逆らおうと思う元気すら、あまり残っていなかった。
そうしてまた──三発、どこかから放たれた。
なのに彼女は、動かなかった。まだ力が抜けていたのもあるけれど、少女の要求に気を取られていたのだ。
対して、少女は動いた。それはそれは素早く、包丁を弾丸に当てた。
キン、キン、キン、と、三連続で音がして、ダンッ! ダンッ! ダンッ!と、また三連続で音がした。
前者は、包丁を当てることで、弾丸の軌道を変えた音。後者は、軌道を変えられた弾丸が、壁や床へと当たった音だ。
つまり弾丸は、少女の手によって軌道を変えたというわけだ。
同時に四発の弾が来ても、結果は同じだった。
五発でも、六発でも同じだった。
そんな少女を、彼女は見ているだけだった。
「……──」
やはり動かなくて良かったのだと、彼女はぼうっとしたままで安心する。
安心したままで、やはりまだ動けないでいる。
そうして次に──彼女の体はヒョイっと浮いた。
「──っへ?」
素っ頓狂な声を上げた少し後で、彼女自身はやっと気がつく。──自分はあの少女に、抱えられているのだと。
路地裏を飛び上がって、青空の下。少女は人間一人を抱えて、身軽に屋根の上を走っているのだ、と。
「……? ……?」
頭に疑問がいっぱいで、それを言葉にすらできない。それほどまでに、彼女は混乱していた。
けれども、そんな標的の混乱など、相手は知る由もない。遠慮も無しに、またまた六発の弾が、彼女目掛けて飛んでくる。
今度も、彼女は動かない。そもそも、少女に抱えられたままでは動けない。何も対処ができず、彼女は目を背けるしかない。
だから、それを避けるのは──少女の方。少女は単純に上へと飛び上がって、全ての弾を避ける。その弾たちは屋根の上に落ちて、今度は屋根に跡を作った。
「──……な」
彼女は、背けた顔を正面に向けた。
何も、わからなかった。
この状況のことも、少女のことも、意味不明だった。
抱えられたままで、そんな短い声を上げることしかできなかった。
そんな彼女に、少女は無表情のままで目配せをする。
「……一先ず、逃げよう」
「……へ?」
そして少女は返事も待たずに、困惑した人間を一人抱えたままで、再び屋根の上を走っていく。
「……──っへ!? っちょ!?」
戸惑い続ける彼女の声に、答える者は誰もいない。少女はあれから、ずっとずっと無言だった。
「っちょ、ちょっとおおおおっ!?」
謎の浮遊感に、叫び声を発してしまう。遊園地の絶叫マシンより、もっとずっとスリルを感じる体験だった。
──どうなるんだろうなあ、私。
彼女はもはや声を上げることもやめ、悟りの境地でそう思った。
▽
数分ほど、彼女は凄い勢いで、すごい速さで揺られていた。フワッ、ビュン、と繰り返される浮遊感を感じながらも、ずっと少女の手に抱えられていた。決して落ちないだろうと思わせるくらいに、少女の手は力強かった。
そうして、なんの変哲もない、一戸建てかつ一階建ての家の前で、やっと少女の腕から解放された。
「…………はあ」
彼女は足を地につけ、久しぶりの感覚を堪能して──
「──っ」
そこで、思い出したようにハッとする。
追われていた理由。自分を狙い続けてきた、あの銃弾たち。それを思い返して、彼女は周囲を鋭く見回す。
そんな彼女を見つめてきたのは、相変わらず無表情な少女であった。
「……敵は振り解けた。から、安心して」
少女は淡々とした口調で、彼女へと告げる。心配させないように、といったものでも、断言してみせる、といったものでもない。
少女の真意が掴めない彼女としては、少女に対してのものも含め、ありとあらゆる警戒を解けるはずもなかった。
少女はそんな彼女の内心を知って知らずか、一人でにスタスタと、前にある家の入り口まで歩き出す。
その扉の取っ手を掴んで、少女は言った。
「とりあえず……入って」
「……入っていいの?」
困惑している彼女が返した台詞は、馬鹿みたいなおうむ返しだ。
それに少女は、また淡々と続けた。
「いい。変なことはしないから……安心して入って」
「……──」
彼女は、息を呑んだ。やがて、「……わかった」と頷いた。
助けてくれた少女の家にお邪魔する。単純に考えれば別に危険などないだろうと、そう思ってのことだった。単純に考えれば、である。
複雑に考えるのは、今はやめておくことにした。
いまだに訳のわからないあれやこれやも、とりあえず置いておくことにした。
わけがわからない、それ故に、置いておくしかないとも言えた。