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『老後の不安 - 社会の変化を見つめて』

作者: 小川敦人

『老後の不安 - 社会の変化を見つめて』


-昔は笑い話だったのにな-


田中修一(68歳)は、スーパーのレジ横で袋詰めをしながらつぶやいた。顔には疲労の色が濃く出ていたが、それでも丁寧に商品を袋に入れていく手は確かだった。週3日、一日5時間のパートタイム。わずかな年金に加えるための貴重な収入源だった。

「修ちゃん、今日もご苦労さん」

仕事を終えて帰り支度をしていると、同じくパートタイマーの木村(72歳)が声をかけてきた。

「おう、木村さんも今日は長かったな」

「まあな。でも働かなきゃ食っていけないからな」

二人は並んで歩き始めた。春の夕暮れ、まだ少し肌寒い風が吹いていた。

「お前さ、覚えてるか?昔、あの有名なコメディアンが『老人が将来のために貯金している』ってネタやってたの」

修一は懐かしそうに笑った。

「ああ、覚えてるよ。『なんで70過ぎたジジイが将来のために貯金してんだよ!』って。みんな大爆笑してたな」

「今じゃ笑い話じゃなくなっちまったな」木村は苦笑いを浮かべた。「俺たちがその立場だ」

二人は駅前の小さな居酒屋に入った。年金暮らしの彼らには贅沢だったが、月に一度の楽しみにしていた。

「いらっしゃいませー」

「いつもの」修一は店主に声をかけた。

「了解。お通じはいつものキャベツでいい?」

「ああ、頼む」

テーブルに着くと、木村が続きを話し始めた。

「昔はさ、高度経済成長だ、終身雇用だって言ってたじゃないか。俺らが若い頃は『日本は一億総中流』なんて言われてたもんだ」

「そうだったな。会社に入れば定年まで働けて、退職金と年金で余生を送れるって信じてた」

「それが今じゃ...」木村は言葉を切った。

焼酎のお湯割りが運ばれてきた。二人は黙ってグラスを傾けた。

「ねえ、修ちゃん、お前の息子さんは?」

「あいつか...東京で頑張ってるよ。でも非正規だから、月給は俺たちの若い頃より低いんじゃないかな。孫の教育費も大変らしい」

「そうか...」

「木村さんの娘さんは?」

「シングルマザーでな。俺が少しでも援助してやりたいんだが...」木村は苦笑した。「自分の生活で精一杯だ」

居酒屋の奥のテレビからは、経済ニュースが流れていた。「日本の高齢化が加速...社会保障制度の見直しが急務...」というアナウンサーの声が聞こえてくる。

「見直しってのは、要するに削減のことだろ」木村がぼやいた。

「政治家は何してたんだろうな、この30年」修一は真顔で言った。「いや、何もしてなかったわけじゃない。でも、結果的に俺たちは...」

同じ頃、東京のとあるテレビ局のスタジオでは、政治討論番組の収録が行われていた。

「高齢者の貧困問題については、どうお考えですか?」

司会者の質問に、ベテラン政治家の村田(65歳)が答える。

「我が国の高齢者福祉は世界でもトップクラスです。もちろん課題はありますが、政府としても様々な対策を講じてきました」

対する野党議員の佐藤(48歳)が反論する。

「村田さん、現実を見てください。年金だけでは生活できない高齢者が増えています。70代、80代になっても働かざるを得ない方々が大勢いるんです」

「佐藤さん、それは個人の生活設計の問題もあるでしょう。若いうちからの貯蓄や」

「それは違います!」佐藤は声を荒げた。「30年前と比べて実質賃金は上がっていない。非正規雇用が増え、貯蓄する余裕すらない若者も増えています。これは構造的な問題です」

「しかし財政状況を考えれば...」

議論は平行線をたどっていた。カメラの向こう側で、若手ディレクターの山田(28歳)は溜息をついた。

収録後、スタッフルームで山田は先輩ディレクターの中島(45歳)に声をかけた。

「中島さん、今日の収録、なんだか虚しくなりませんでした?」

「どういう意味?」

「あの議論、10年前も20年前も同じことやってませんでした?なのに状況は良くなるどころか、悪化してるじゃないですか」

中島はコーヒーを飲みながら言った。

「山田くん、政治の世界はそんなもんだよ。すぐには変わらない」

「でも、僕の祖父母も年金だけじゃ生活できないって言ってます。祖父は75歳ですが、まだ警備員のバイトをしてるんです」

「うちの親父もだよ。でも、これは日本だけの問題じゃない。高齢化は世界的な...」

「でも!」山田は声を上げた後、周りの目を気にして声を落とした。「昔は『老人が将来のために貯金している』なんてコメディアンのネタだったんですよ。笑い話だったものが、今や現実になってる。これって異常じゃないですか?」

中島は黙って山田を見つめた。

「山田くん、年いくつ?」

「28です」

「結婚は?」

「まだです。というか、今の給料じゃ家族を養える気がしなくて...」

「そうか...」中島は深いため息をついた。「俺も45だけど、老後のことを考えると不安で仕方ないよ。年金だけじゃ足りないのは明らかだし」

「中島さんは貯金とかされてるんですか?」

「してるよ、できる範囲で。でも子どもの教育費もあるしな...」

「僕らの世代は、老後なんて考える余裕すらないですよ」山田は苦笑した。「今の生活で精一杯です」

「そうだな...」中島は窓の外を見た。「昔は未来に希望があったんだけどな」

翌日、修一は近所の公園のベンチに座っていた。春の陽気が心地よい。

「あら、田中さん。お散歩ですか?」

声をかけてきたのは、近所に住む高橋洋子(65歳)だった。元小学校教師で、今は週に2日、学童保育の指導員をしている。

「ああ、高橋さん。天気がいいからね」

高橋はベンチに腰掛けた。

「昨日テレビで政治討論見たんですけど、またいつもの水掛け論でしたね」

「見てないよ。どうせ何も変わらないしな」

「そうなんですよね...」高橋は遠くを見つめた。「私、教師してた頃は『子どもたちの未来のために』って本気で思ってたんです。でも今の子たちの未来って...」

「厳しいだろうな」

「ねえ、田中さん覚えてます?あのコメディアンのネタ。『老人が将来のために貯金してる』っていう」

修一は笑った。「昨日も木村さんとそんな話をしてたよ。みんな覚えてるんだな、あのネタ」

「面白かったですもんね。でも今じゃ...」

「現実になっちまった」

二人は黙り込んだ。公園では子どもたちが遊んでいる。その親たちは若く見えた。

「あの若いお母さんたち、将来どうなるんでしょうね」高橋がつぶやいた。

「俺たちより厳しいかもな」

「政治は何をしてたんでしょうね、この30年」

「選挙の度に約束はするけどな...」修一は首を振った。

「田中さんって、若い頃は政治に関心ありました?」

「あったよ。学生運動までは行かなかったけど、デモにも参加したこともある。でもな、働き始めると忙しくて...」

「私もです」高橋は懐かしそうに微笑んだ。「でも、もう少し関心を持ち続けるべきだったのかなって、今になって思うんです」

「そうかもな...」

その夜、山田は実家に電話をかけていた。

「お母さん、おじいちゃんはまだ働いてるの?」

「ええ、週に2回、スーパーでね。お父さんも心配してるんだけど、本人が『暇だから』って言って聞かないのよ」

山田は祖父の顔を思い浮かべた。元気な人だが、さすがに75歳だ。

「年金だけじゃ足りないんじゃないの?」

電話の向こうで、母親が少し黙った。

「...そうなのよ。足りないから働いてるんだけど、プライドがあるから『暇だから』って言ってるの」

「そっか...」

「あなたは?ちゃんと貯金してる?」

「してるよ、少しずつ」嘘をついた。実際は毎月カツカツだった。

「良かった。今の若い人は大変よね。私たちの頃と違って...」

電話を切った後、山田はソファに深く腰掛けた。テレビから流れるニュースはいつも通りだった。景気回復の兆し、新たな社会保障改革、外交問題...

「30年前も同じこと言ってたんじゃないのか?」

山田はふと思った。祖父の世代は高度経済成長期を生き、バブル崩壊を経験した。父の世代は「失われた20年」を生きてきた。そして自分の世代は...

彼はスマホを手に取り、SNSをチェックした。友人たちは皆、将来への不安を抱えていた。結婚できない、子どもを持てない、家を買えない..

一週間後、修一と木村は再び居酒屋で飲んでいた。

「修ちゃん、見たか?あの政治討論番組」

「見てないよ。最近はニュースも見る気しないんだ」

「若い議員がさ、『30年前はコメディアンのネタだったことが今や現実になっている』って言ってたぞ」

修一は驚いた。「へえ、そんなこと言ってたのか」

「ああ。『老人が将来のために貯金している』っていうネタをそのまま引用してな。『これはおかしい』って」

「誰だ、その議員は?」

「佐藤っていう人だ。若いけど、なかなか筋が通ってる話をしてたよ」

修一は黙ってお湯割りを飲んだ。

「世の中、変わるかな?」木村が訊いた。

「わからないよ...」修一は首を振った。「でも、若い人たちが少しでも関心を持ってくれれば...」

「そうだな。俺たちももっと関心持っとけばよかったのかも」

「今からでも遅くないさ」

「どういう意味だ?」

修一は微笑んだ。「来月の区議会議員選、投票に行こうと思ってるんだ。久しぶりにな」

「おお...」木村は少し驚いた顔をした。「そうだな、俺も行くか。どうせ暇だしな」

「それから...」修一は少し恥ずかしそうに言った。「町内会で高齢者の問題について話し合う集まりがあるらしい。参加してみようと思ってるんだ」

「へえ、修ちゃんが社会活動家か」木村は冗談めかして言った。

「いや、そんな大それたものじゃないさ。ただ...」修一は真剣な顔になった。「このまま諦めて終わるのも悔しいじゃないか」

「...そうだな」木村もうなずいた。「俺も行くよ、その集まり」

翌週、山田は佐藤議員にインタビューする機会を得ていた。

「佐藤さん、先日の発言が話題になっていますね。『老人が将来のために貯金しているというコメディアンのネタが現実になった』という」

佐藤は真剣な表情で答えた。「はい。この30年間、政治は何をしてきたのか。その問いに真摯に向き合う必要があると思っています」

「具体的にはどういった政策が...」

「まず、年金制度の抜本的改革です。それから非正規雇用の問題、若者の雇用安定化...」

カメラの外で、中島はうなずいていた。

インタビュー後、山田は佐藤に近づいた。

「佐藤さん、あの発言はどこから?」

「どういう意味ですか?」

「『老人が将来のために貯金している』というネタ。あれを引用しようと思ったきっかけは?」

佐藤は少し微笑んだ。「実は祖父との会話からです。祖父は今77歳ですが、まだパートで働いている。『昔は笑い話だったのにな』と言っていて...」

「そうだったんですね」

「山田さん、あなたの世代こそが変化を起こせると思います。諦めないでください」

帰り道、山田は考えていた。自分に何ができるだろうか。ディレクターとして、こういった問題を掘り下げた番組を作れないだろうか。

一ヶ月後、修一たちの町内会での集まりは予想以上に盛況だった。高齢者だけでなく、中年世代、若い親たちも参加していた。

「思った以上に人が集まったな」木村が言った。

「みんな、同じように悩んでるんだろう」

区役所の職員や地元の議員も来ていた。様々な世代からの意見が飛び交った。

若い母親が発言した。「私たちの世代は、今の生活も大変ですが、老後のことを考えるとさらに不安です。どうか高齢者の方々の知恵を貸してください」

高橋が答えた。「私たちの経験が少しでも役に立つなら...。でも、私たちの時代とは違う難しさがあるのも理解しています」

修一も勇気を出して発言した。「30年前、老人が将来のために貯金するなんて笑い話でした。それが今や現実になっている。これはおかしい。でも、ただ文句を言うだけでなく、私たち自身も変わらなければならないと思うんです」

会場にはうなずく人が多かった。

その集会の様子は地域ニュースで取り上げられ、さらには山田がディレクターを務める全国ネットの特集番組にもつながった。

『笑えなくなった冗談 - 高齢者の今と未来』というタイトルの番組では、修一や木村のような実際に働く高齢者たちのインタビュー、専門家による分析、そして政治家たちへの鋭い質問が含まれていた。

番組は反響を呼び、SNSでも若い世代を中心に話題になった。

修一は自宅のテレビでその番組を見ていた。

「まさか俺が全国ネットに出るとはな」修一は少し照れながらも誇らしげだった。

画面には「社会を変えるのは、諦めないこと」というテロップが流れていた。

一年後、修一は相変わらずスーパーで働いていたが、週に一度、町内会の高齢者支援グループの活動にも参加するようになっていた。状況が劇的に変わったわけではないが、少しずつ変化の兆しは見えていた。

区議会では高齢者の就労支援と若者の雇用安定化を結びつけた新しい条例が可決され、地域の企業との連携も始まっていた。

「まだまだ先は長いな」修一は木村に言った。

「そうだな。俺たちが生きてる間に大きく変わることはないかもしれない」

「でも、諦めずに声を上げ続けることが大事なんだと思う」

「孫の世代のためにな」

修一はうなずいた。「そうだ、孫の世代のために」

コメディアンのネタは現実になってしまった。それはおかしいことだった。でも、そのおかしさに気づき、声を上げることから変化は始まる。修一たちはそう信じて、小さな一歩を踏み出し続けていた。

「ねえ、修ちゃん」木村が言った。「あのコメディアン、今何してるんだろうな」

「さあ...」修一は空を見上げた。「もしかしたら、また新しいネタを考えているのかもしれないな」

「どんなネタだろう?」

「『おじいちゃんが社会を変えようとしている』とか?」

二人は顔を見合わせて笑った。かつての笑い話が現実になってしまった世界で、新たな笑い話が希望になるかもしれない。そんな未来を、二人は静かに願っていた。


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