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短編

俺は悪くない〜全部戦争が悪いんだ〜

作者: 八百板典所


 あの日夜は北風と共に訪れた。鳴り響く警報。警報が出されるよりも先に投下された焼夷弾。空から火垂る数多の鉄は、たった一晩で俺の故郷を焼け野原に変えてしまった。


「……」


 早朝。

 空になった缶ドロップが俺に『前を見ろ』と促す。

 促されるかのように前を見ると、焼け野原が広がっていた。

 焼け野原を満たすかのように漂う炭の匂いと焼いた生イワシの臭い。

 煙を発している黒焦げの電柱。

 焦げた土。

 そして、異様に青い空。

 それらから目を逸らしながら、俺は逸れた家族を探し続ける。

 道の上には焼けたトタン、溶けて一塊になった食器、そして、人の形をした炭──無数の焼死体が、地面を覆っているかのように転がっていた。

 焼死体と化した成れの果てを見る。

 焼け焦げた死体の多くは原形をとどめておらず、性別さえもわからない程、黒焦げになっていた。


「……っ!」


 道の上に転がっている黒い塊から目を逸らす。

 目を逸らした先も地獄だった。

 黒焦げの死体の山が視界に飛び込む。

 目を逸らす。

 焼死体。

 目を逸らす。

 焼死体、焼死体。

 目を逸らす。

焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、

 目を逸らす。

焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体、焼死体。


「……」

 

 空を仰ぐ。

 雲一つない快晴が目に染み込む。

 大空に向かって羽ばたこうとした俺の視線は、眩い朝陽の熱に耐え切れず、呆気なく地に落とされてしまった。

 足下を見る。

 弟や妹と同じくらいの背丈の死骸が目に入った。

 つい数時間前まで命だったモノを見て、俺は思い出してしまう。

 つい数時間前の出来事を。

 俺は、思い出して、しまう。

 

 数時間前、日付が変わって間もない頃。

 兄妹達と一緒に居間で寝ていた俺は、母親に叩き起こされた。


『空襲だよ!早く逃げないと死んでしまうよ!』

 

 切羽詰まった母の声により起こされた俺達は、家から転がり落ちるかのように外に出る。

 家の外に出た俺が先ず目にしたのは、赤い空だった。 

 死の気配を漂わせる濃厚な赤色。

 赤く染まり過ぎた空は徐々に夜空を侵食し、空全体を赤一色に染め上げようとする。

 まだ火の手は俺達の下に辿り着けていないんだろう。

 ホッとするのも束の間。

 何の予兆を見せる事なく、冷たくて強い風が火の粉を運ぶ。

 夜空を舞う火種を見た瞬間、俺は数刻先に待ち受ける未来──火の海に沈む地元の姿を幻視した。

 訓練通りに動く母。母は呆然と立ち尽くしていた俺達の手を引くと、庭に掘っていた防空壕の中に連れて行こうとする。

 だが、姉弟達と違い、俺だけは反射的に母の手を振り払った。

 振り払ってしまった。

 なぜ母の手を振り払ったのか分からない。

 なぜ母を困らせるような事をやったのか分からない。

 なぜ母や兄妹達の反対の声を押し切ったのか分からない。

 分からないまま、俺は走り始める。

 深い闇の中に向かって走り始める。

 

 迫り来る光から逃げる。

 ただ、それだけのためだけに。

 

 そこから先の事はよく覚えていない。

 けど、火の衣を被った死神が俺の後を執拗につけ回していた事、喉の渇き、そして、息がし辛かった事だけはよく覚えている。

 俺はそいつらから逃げる事だけを考えた。

 だから、俺は空襲の時の事をよく覚えていない。

 本当に覚えていないのだ。

 周囲から聞こえる怨嗟の声も、鼻腔を擽る灰の匂いも、肌を焦す熱も、目や口に飛び込んできた火の粉の痛みも。

 不燃性の講堂の中に隠れた人々の絶叫も。

 火から逃れようとして川の中に飛び込んだ人達が、防空頭巾や外套を身に纏っている所為で溺死していく様子も。

 俺は何も覚えていない。

 何も見ていない。

 勿論、低い水温の所為で凍死していく人達の姿も。

 両岸から吹き付ける熱風と火炎の所為で息絶える人々の絶望した顔も。

 火だるまになった子どもの姿も。

 燃え落ちた屋根と天井に押し潰されながら死んでいく老婆の姿も。

 この世に生まれ落ちた事を後悔しながら火焔の中に飛び込む女性の背後姿も。

 周囲の熱に炙られながら俺に助けを求める友人の姿も。

 俺は覚えていない。

 何一つ覚えていない。 

 でも、どうしようもなかったのだ。

 戦争という大きな力の前では。

 忘れ(こうす)るしかなかったんだ。

 俺の所為じゃない。

 全部、戦争が悪いんだ。



 空になった缶ドロップを右手で強く握り締めながら、俺は数時間前の事を全て忘れようとする。

 だが、幾ら必死になって忘れようとしても、俺が死神から逃れた事、家族を見捨てた事だけは忘れたくても忘れる事はできなかった。


「う、おぇっ……」

 

 罪悪感の所為で吐き気を催す。

 だが、胃の中に食べ物が詰まってない所為で、嘔吐する事さえできなかった。

 少しでも楽になるために、俺は自宅に向かおうと決意する。

 もし母や姉弟達が生きていたら、俺の行為を正当化してくれる筈だ。

 『よく生き残った』と褒めてくれる筈だ。

 そんな淡い期待を抱きながら、俺は弟達に似た黒焦げの死体の山から目を逸らす。

 そして、再び鉛のように重い体を引きずり始める。

 俺は焼け屑と溶けた硝子、そして、焼死体が散乱している道を延々と歩き続けた。

 でも、幾ら歩いても、景色は変わらなかった。

 未だ燃え続ける瓦礫と子どもを庇って焼かれた母親の焼死体、そして、薄い雲に覆われた空が、俺の中で燻っている罪悪感を執拗に刺激し続ける。


「……ちがう」

 地面に転がっている黒い炭が自分のために動いた俺を詰っているような気がした。


「ちがう……」

 木の根みたいに焼き爛れた焼死体を見て、俺は情けなく言い訳を披露してしまう。


「ちがう……違う……違うんだ、! 俺は、……俺は、何も悪くない……! だって、ただの子どもがどうこうできるものじゃないだろ!?」


 涙が出てきそうなくらい情けない言葉が、俺の舌を突き動かす。

 まだ瓦礫の下に生きている人がいるかもしれない。

 今の俺でも助けられる命があるかもしれない。

 にも関わらず、俺は泣きそうな声で情けない言葉を紡ぐ事しかできなかった。


「仕方なかったんだ……!だって、みんな逃げていたから……、あの時は逃げる事が最善だったと思ったから。……分かるだろ、大きな理不尽(ちから)の前では、みんな無力なんだ……!」

 

 黒い炭を大事そうに抱きしめる大きな黒い炭に赦しを乞う。

 だが、幾ら待ち続けても、墨と化した見知らぬ焼死体は俺を赦さなかった。耐え切れなくなった俺は、この場から逃げるように走り始める。


 ──ほら、また逃げた。


 そんな幻聴が俺の脳髄を激しく揺さぶった。


  

 力尽きる寸前まで走り続ける。

 気がつくと、自宅近くにある石橋の上で息を切らしていた。

 焦げた空気を肺の中に詰め込みながら、石橋の様子を窺う。

 案の定、他の道と同じように石橋は脂と血痕に塗れていた。

 橋の上に落ちている無数のがま口の金具が、否応なしに死者数を認識させる。

 昨日までの容貌と違う石橋を見た俺は、慌てて目を逸らす。

 橋の下に視線を移す。

 視線を移した先も地獄だった。

 川に浮かぶ夥しい量の死体。

 溺死した人、凍死した人、焼け死んだ人。様々な要因で死んだ人達が、昨日まで色艶やかに澄んでいた川面を埋め尽くしていた。

 川に浮いている死体の顔を見る。

 それの多くは、見覚えのある肉塊だった。

 魚屋さん、タケルのおじちゃん、雷ジジイ、学校の先生。

 昨日まで俺と言葉を交わしてくれた命が、身動き一つできない肉塊になっていた。


「……おぇ」


 見ていられなくなった俺は水面に浮いている死体から目を逸らす。

 川面を目撃した瞬間、喉を焦がすような渇きが耐え難い苦痛を俺に与え始めた。

 それに耐えきれなくなった俺は、鉛のように重い足を動かすと、川の水が掬える位置まで移動する。

 移動している間、焦げた臭いと嫌いな臭いが俺の脳を延々と掻き乱していた。

 川面の目と鼻の先まで接近する。

 喉の渇きを癒すため、川面に浮いていた死体の山の掻き分け、持っていた缶ドロップで川の水を掬う。

「……なんだ、これ」

 だが、川の水は摂取可能な代物じゃ無かった。

 理由は単純。

 水面に正体不明の脂が浮いていたからだ。


「なんで脂が川に浮いて、……ひぃ」


 脂の正体を理解する。

 その瞬間、俺は缶ドロップを衝動的に投げ捨てようとした。

 だが、俺の手は震えるだけで、缶ドロップを捨てようとせず。

 缶ドロップは俺の手に絡みついたまま、川面に浮かぶ幾多の死体を一瞥し続けた。


「……」


 川面に浮いた脂と缶ドロップ。

 それを交互に見た後、俺は喉の渇きを忘れると、再び家に向かって歩き始める。

 歩いていると、缶ドロップがデカい独り言を呟いた。

 でも、それを理解できる程の気力も体力も今の俺に残っていなかった。


 暫く歩いていると、焼け焦げた電柱に体重を預けている焼死体を発見した。

 性別が分からないくらい黒焦げになっている。

 にも関わらず、俺はその焼死体の正体を一発で看破してしまう。


「田中……なのか?」


 同じ小学校に通う級友──田中の成れの果てを見て、俺は思わず彼の下に駆け寄る。

 俺と彼は友達じゃない。

 かと言って、赤の他人という訳でもない。

 俺と彼の関係を一言で言い表わすと、『正義の味方と妖怪』だ。

 俺は仲の良い友人達(せいぎのみかた)と一緒に田中(ようかい)を『成敗』していた。理由は至って簡単。

 彼は鼠の妖怪みたいな顔をしていたからだ。


 『アメ公が中々負けを認めないのは、妖怪である田中の所為だ』という言い分で俺達は妖怪である彼を『成敗』した。

 殴る蹴るは当たり前。彼の持ち物を隠した事もある。彼の配給券を盗んだ事もある。彼が『止めて』と叫んでも、『妖怪』だからという言い分で俺達は彼を『成敗』した。

 休み時間も放課後も休む事なく。

 田中という妖怪を『成敗』すれば、この国は勝利する。

 俺はそれを信じて疑わなかった。


「田中……」


 知り合いが死んだ。

 それを知った瞬間、俺の心は少しだけ軽くなる。 

 ここに残っていたら死んでいた。

 生きるためには仕方なかったのだ。

 だから、俺は悪くない。

 逃げた俺は悪くない。

 何も悪くない。

 全部、戦争が悪いんだ。

 自分に言い聞かせるように心の中で、何度も『俺は悪くない』と呟く。

 それを否定するかのように、田中の指が微かに動いた。

 田中の口から息が漏れる。

 それと同時に胸が締めつけられる。俺が言葉を発するよりも先に、田中は『水』と呟いた。

 缶ドロップを持った手が震える。

 手が震える度に、缶ドロップの中に入っている水は『ちゃぷん、ちゃぷん』と独り言を発し続けていた。


「…………」


 缶ドロップの中に入った水を彼の口に流し込む。喉を潤した田中は、満足げに息を吐くと、今度は呟いた。


「……か、えして」

 

 ──その一言の所為で、とうとう俺は缶ドロップを手放してしまう。

 地面に落ちた缶ドロップは、中に入っていた川の水を口から吐き出す。 

 小さい水溜りが足下にできる。

 その瞬間、田中は息を引き取った。

 缶ドロップの姿と死んでしまった田中。

 それを交互に見ながら、俺は思い出す。

 今まで忘れていた事を。


 今から数ヶ月前。

 赤紙を貰った田中の父は、出兵前、田中にあるものを手渡した。

 手渡したものは『サクマ式ドロップス』という商品名の缶ドロップ。

 保存性の高いキャンディーとして名高いそれは、砂糖の供給が止まった今現在、生産されておらず、贅沢を敵視している今の日本には相応しくない代物。

 そんな贅沢の象徴であり、戦争に必要のない缶ドロップを田中はいつも懐に忍ばせていたのだ。

 俺の父は俺達家族に何も与える事なく戦争に行ってしまった。

 田中の父の話を聞いた時、俺は父に愛されていないと思った。

 行き場のない怒りを抱いた。

 だから、俺は田中から缶ドロップを奪った。

 行き場のない怒りを解消するために。

 父に愛されていた事を証明するために。

 田中から缶ドロップを強奪した後、俺は先生に奪ったものを手渡した。


 『田中はこんなのを隠し持っていた。贅沢は敵なのに』

 

 俺の顔と缶ドロップを交互に見ると、先生は田中にそれを返すように言った。


 『どうして。これは戦争に必要のないものなのに』と言った。


 『でも、それは田中君にとって必要なものなんだよ』と先生は悲しそうな顔をしながら言った。


 俺には理解できなかった。

 だから、俺は先生の言う事を聞かなかったし、田中に缶ドロップを返さなかった。

 田中は何度も『俺に返して』と言った。その度に俺は何度も彼を『成敗』した。

 田中を諦めさせるため、俺は友達と一緒に彼の目の前で缶ドロップの中身を平らげた。

 それでも、彼『返せ』と言い続けた。

 中身がないにも関わらず。

 彼は俺に『返せ』と言い続けた。


 ──空襲が始まった直後も。


 数時間前。

 母親の手を振り払って駆け出した俺の前に立ちはだかったのは、田中だった。

 田中は俺を止めると、缶ドロップを返すように言った。

 『今はそれどころじゃない』と言って、俺は彼を押し倒した。

 比較的真新しい電柱に背中を打つけた彼を見届けた後、俺は闇の中に向かって再び駆け出す。

 それを俺は思い出してしまった。

 全て、思い出して、しまった。



「あ、…、あ、……」


 突き飛ばした直後の田中と今の田中の姿が重なる。

 なぜ黒焦げになった彼を一瞬で理解できたのか。

 その答えを完璧に理解してしまった。

 田中はここにいたのだ。空襲が終わるまでずっと。

 当たりどころが悪かったんだろう。

 熱風に炙られても、火の粉が覆い被さっても、ここに留まっていたのだろう。気絶したのか、それとも頭や背中に何らかの損傷を受けたのか分からない。

 どちらにしろ、田中が死んだ原因を作ったのは俺だ。

 もしあの時、突き飛ばさなければ。

 もしあの時、母の言う通りにしていたら。

 缶ドロップを返していたら。

 缶ドロップを奪っていなかったら。

 俺が田中と関わっていなかったら。


 ──俺は田中を殺さずに済んだ。


 田中が死んだのは俺の所為だ。

 子どもだから仕方ない。

 生きるためには仕方なかった。

 そんな幼稚で稚拙で無垢な言い訳は通用しない。

 

 ──俺は俺のために田中を死に追いやったのだ。


「お、……、お母、さん……お母さん! お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん!!」


 言い逃れのできない罪に直面した俺は、半ば発狂しながら、自宅に向かって駆け出す。

 俺の家があった場所は、他の家同様、瓦礫と化していた。

 転がり込むように防空壕がある庭に向かう。

 防空壕だった穴の中には黒焦げになった肉塊が沢山入っていた。

 急いで俺は穴の中に入っていた肉塊を引き摺り出す。

 中から見覚えのある服を着た肉塊が出てきた。

 弟や妹の成れの果てだ。

 弟や妹の死骸から目を逸らす。

 そして、思い知らされた。

 最初に取り出した黒い肉塊が、母と姉の成れの果てである事を理解した。


「あ、あ、ああああ!!」


 逃げ場がなくなった俺は、家族を弔う事なく、その場から逃げ出す。


 ──ほら、また逃げた。


 また俺を詰る幻聴が聞こえて来た。 

 

「違うっ!これは……戦争の所為だ!!全部、戦争が悪いんだよ!!」


 戦争という人間の力ではどうしようもない大きな力の所為にして、俺は田中の死から──現実から逃れようとする。

 だが、幾ら走り続けても、幾ら戦争の所為にしたとしても、彼を間接的に殺した事実だけは変わってくれなかった。


 

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