6.善意
紫水家に新しい電子レンジが届いた。数日前、コウジが母親に頼まれて購入していたものだ。
「コウジ、ありがとね。すごい綺麗だけど、これ、もしかして結構高いやつ?」
母親が興味深そうに話しかけた。
「そうそう。何か結構売れてる最新のやつ。ちょうど在庫切れてたから届くまで時間かかっちゃったんだ。焼いたり蒸したりもできるらしいよ。店員さんにお願いして、良いやつ紹介してもらったんだ」
「よかったじゃん。早速試しに使ってみよっか」
キッチンに入った母は冷蔵庫を開けるや否や、少し残念そうな顔をこちらに向けた。
「あぁ。最近買い物行ってなくてお弁当とか全然ない。あれ、食べたくなってきた。あのほら、メエプルで売ってる、チキン南蛮弁当。あれすっごい美味しいんだよね。食べたことある?」
「あれね。あるよ。美味しいよね。タルタルソースだけで飲んでもいいくらい」
「あはは。流石にそれはないけど。ちょっとコウジ、買ってきてくれない? 晩ご飯にしよっか。お金は出すから。お父さんの分もお願い」
「ん、おっけー」
パジャマのまま上着だけを羽織り、コウジは家を出た。
メエプルは家から目と鼻の先。すぐ店に着いたコウジは、果物、お菓子、パンコーナーと何気なくウロウロとしたあと、奥にある惣菜コーナーへと向かった。
美味しそうなお弁当が並んでいる。まだ半額シールが貼られる時間帯ではないから、品揃えも良い。母はチキン南蛮弁当と言っていたが、自分の分は今変えることもできる。
唐揚げ弁当、焼肉弁当、ロースカツ丼。選び放題だ。こういうのは、見ているだけでワクワクしてくる。どれも美味しそう。よだれが出てきそうだ。
ドカッ。
そのとき、近くにいた5歳くらいの男の子が、コウジの脚にぶつかってきた。どうやら元気にはしゃいでいて、よく周りを見ていなかったらしい。小さな子どもにはありがちな行動特性だ。
「す、すみませんっ。もう、コウジ。暴れないでって言ってるでしょ。言うこと聞いて」
気の弱そうな母親が子どもを叱った。
「ごめんなさい」
上目遣いの男の子が、小さな声で謝る。
「コウジ? ねぇ今、コウジって言った? たしかにそう言いましたよね。実は俺もコウジって言うんです。偶然ですね」
思わずコウジが話しかけた。
「あ、そうなんですか。もう本当にすみません。ちゃんと叱っておきます」
「あはは。だからぶつかってきたのかな。もしかしたら偶然じゃなくって、運命かもしれませんね」
「そ、そうかもしれませんね。ほらコウジ。優しい人で良かったね。では」
「ばいばい」
男の子が小さく手を振る。親子は背中を向け、去ろうとしていた。
「ねぇ、ちょっと待ってください」
コウジが母親を引き止めた。
「どうかしましたか?」
驚いた様子で母親が振り返る。
「お弁当、選んでもらえないかなって。今、すごく迷ってるんです。どれにしようかなぁって。ここにあるチキン南蛮弁当と、唐揚げ弁当、ロースカツ丼。全部すごく美味しそうですよね。とても自分では決められなくって。でも誰かに言われたら決められる気がするんです」
「え、ええ。でも、私でいいんですか?」
母親が戸惑う。
「はい。あなたに決めてもらいたいんです。そうしてもらえたら、すごく助かります。良い気分で帰れると思うんです」
「そう、言われましても、うーん。どれが良いんでしょう。ねぇ。何かその、いきなりすぎるっていうか、初対面じゃないですか。そんな人にお弁当決めてって言われたことが、1度もないものでして……」
「早くしてくれませんか?」
コウジが威圧的になった。
「えっ」
母親の顔が引き攣る。
「あなた、人に迷惑掛けてますよね。直接じゃなくてもです。その子ども、さっき俺にぶつかってきました。あなたも見てたはずです」
「えっ。はっ、はい。すみません」
「俺、まだ許すなんて言ってなかったんですけど。まだ話の途中でしたよ。あなた立ち去ろうとしてましたよね。どういうつもりですか。頭、おかしいんですか。あなたがそんなんだから、周りも見ず人にぶつかるような子どもに育つんじゃないんですか。普段からいい加減な教育しかしてないんじゃないんですか。しかもその子、俺の右膝にぶつかってきたんです。凄い勢いでした。そのちょうど肘辺りの、硬いところ。クリティカルヒットしました。実は最近、右膝をタンスにぶつけちゃって軽く痛んでたんです。もう結構回復してたのに。今、また痛んできてるような気がします。責任、取れるんですか」
焦り、目を泳がせる母親に、コウジは淡々と畳み掛けた。
「すっ、すみません。本当に、ごめんなさい。どうかお許しください」
「だから、早く弁当を選べって言ってるんです。人に迷惑を掛ける上に役にも立てないなんて、そんな人間に、価値があると思いますか? だったらせめて俺の役に立ってください。それで許すと言ってるんです。俺があなたに役割を与えてるんです。世の中の邪魔になるような迷惑野郎に、貢献できる機会を与えてるんです。今回はそれでチャラにしてあげようって言ってるんです。せっかくのこの優しさにまだ気付けないんですか? あなたの頭はどこまで鈍いんですか?」
「カツ丼!」
男の子が涙ぐみながら叫んだ。周りの人々は皆こちらを向いていた。気付けば3人は大勢に注目されていた。
「ありがとう。コウジくん。今日はカツ丼にするよ。もう人前で暴れたりしちゃあだめだよ」
コウジはしゃがみ、男の子の頭を優しく撫でながらゆっくりとそう言った。
カツ丼1つと、チキン南蛮弁当2つを手に取ったコウジは、落ち着いた顔つきでレジに向かった。親子は抱き合い、震えながらコウジの後ろ姿を見ていた。
また人の役に立ってしまった。店を出たコウジは優越感に浸っていた。
自分はどれだけ世のためになれば気が済むのだろう。自分がいる限り、どれだけ世間は改善されていくのだろう。いつかこの優秀さに人々が気付いたとき、俺はきっと聖人のように崇められ、周囲は常に俺に向けた感謝の言葉で溢れかえるだろう。彼はそんなことを考え、ニヤついていた。
上機嫌で歩いていると、数メートル先に財布が落ちているのを見つけた。薄茶色の、上品な長財布だった。
コウジは迷わず手に取り、中身を見た。数万円の現金と、カード類が入っていた。1時間ほど前にメエプルで買い物をしたレシートもある。まだ落とされてからあまり時間は経っていないようだ。入っていた免許証の写真には、3〜40代くらいの女性が写っていた。
コウジが人の財布を拾ったのは初めてのことだった。札だけ抜いてやろうだとか、カードの番号を控えてやろうだとか、そんな気持ちはもっぱらなかった。
コウジはすぐに交番に向かった。彼は最近、人の役に立つことに快感を覚えていたのだ。
「これを届ければ、暇そうな警察官に少しでも仕事を与えてやることができる」
財布を手に取った瞬間から、彼はそう考えていた。
一般的に考えて警察官は決して楽な仕事ではない。しかし彼には暇そうに見えていた。
いつも交番でぼけーっと座っているだけ。たまにパトロールをしてはまた交番に戻ってくる。事件や事故がなければ、特にやることのない暇な職業。社会を知らない彼には、そう映っていたのだ。
彼はそんな警察官に仕事を与えてあげるため、人の役に立つために、財布を届けにいくことにしたのだ。
交番に着いた。
「すみません」
コウジが中に入る。
「あぃ?」
力の抜けた、だるそうな男性の返事が聞こえた。奥に座り、細い目でこちらを見ている。
「財布、届けにきました」
「あいー。そこ置いといてー」
イラッとした。なんだコイツの態度は。こっちは財布を拾ってわざわざここまで歩き、お前のために善意で行動してやっているというのに。こんなやつを放っておいていいわけがない。
「あいはい。じゃあここに名前と住所と電話番号よろしくー」
雑に紙を渡された。面倒くせぇんだよと言わんばかりの態度だ。
「謝礼とかいります? いらなかったら大丈夫だけど」
警察官の鬱陶しい話し方は終わらない。
「なにをぼーっとしてんの。ここに名前書いてって。わかる?」
イライラが爆発寸前のところまできていたコウジは、静かに話し始めた。
「お巡りさん」
「お、やっと喋った。声聞けないのかと思ったよ」
「人生、楽しいですか?」
「ん、なにいきなり。まあぼちぼちやってるよ。生活も安定してるし」
「へー。ぼちぼちやってるんだ。そんなんで? ぼちぼち? そのレベルにすら達してないんじゃないの。質が悪すぎないですか? ここ、やる気のないアルバイトか何かで回ってるのかと思いました」
「それどういう意味よ。兄ちゃんあんま変なこと言わない方がいいよ。僕らはね、味方につけたら心強いけど、敵に回したら勝ち目ないんだから」
「ふーん。心強い? お巡りさんと一緒にいたら、むしろ敵が増えちゃう気がするなぁ。足手まといだよ。いらないいらない。最近人と話しててどう? 上手く話せてる? 嫌な顔されない? それとも、人との話し方とか、知らない?」
「何がいいたいのよ。あのさー、おちょくってるつもりなら相手しないよ。早く紙に書いて。ほらっ。ここ」
「技術の進歩って素晴らしいですよね。今や世界はとても便利になった。暮らしやすい豊かな世界になった。それって、技術が進歩したからだって。そう思いませんか?」
「よく喋るねぇ君。暇なの? こんなとこに来てまですることじゃないでしょ」
「例えばほら、あそこにある監視カメラ。あれもすごい技術ですよね。誰が発明したんだろう。あれがなかったらお巡りさん、今頃どうなってたんでしょうかね。俺、やっちゃってたかもしれないです。あー危ない危ない」
「君なんなの? 名前教えてよ。別の意味でも」
「ところでお巡りさん、コバンザメって知ってますか?」
「え、あぁ。なんか、魚?」
「そうそう。あのエイとかにくっついてるやつ。大きい魚にくっついて身を守りつつ、餌のおこぼれをもらって生きてるんです。厳しい自然界を生きるための素晴らしい戦略ですよね。俺、お巡りさんみたいな人見て思うんです。コバンザメみたいだなぁって。大きいものにしがみついて、生活安泰。自分が頑張る気はないから、いつまで経っても組織の下っ端。ちょこっと働いて帰って寝る。毎日同じことの繰り返し。最後にちゃんと人捕まえたのなんて、いつですか? そういう気持ち、もうなくなっちゃいましたか? 努力することなんて忘れて、安定に依存。仕事中の嫌なことはひたすら我慢。ストレスが溜まっても、生きるために職は手離せない。転職する勇気なんてない。結局ずーっとぼーっと過ごすだけ。挙げ句人に無礼な態度を取る始末。きっとストレスの捌け口がそこしかないんでしょうね。結果、質も悪い、やる気もない、誰からも尊敬されない可哀想なお巡りさんの出来上がり。終わってますね。だから最初聞いたんです。人生、楽しいのかなぁって」
警察官は眉間に深いシワを寄せた。
「なっ、ちょ。一体なんなんだ。わけのわからんことをベラベラと。やることないんならもう帰って。なんなんだ君は。変だぞ」
明らかに警察官の様子が変わった。痛いところを突かれて、弱ってしまったようだった。
「うふふ。否定しないんですね。大体わかった気がします。お巡りさんの現状。もっと幸せになれたらいいですね。なれたら、ですけど」
紙に必要事項を書き、コウジは交番から出ていった。
警察官はモヤモヤしていた。あいつは一体なんなんだ、とか、なぜ自分がこんな目に遭わないといけないんだ、とか、そんなことでモヤモヤしていたのではない。
何かずっと目を背けていたものを、無理矢理認識させられたような気がしたのだ。そしてそれを認めざるを得ない自分にモヤモヤしていたのだ。
「ただいまー」
コウジは帰宅した。
「おかえりコウジ。ちょっと遅かったね。もうお父さん帰ってきてるよ。早くみんなで食べましょ」
母が笑顔を見せた。
「おお、コウジ。お腹空いてるんだ。早く食べよう。メエプルの弁当なんて久々だよ。カツ丼も買ってきたのか。それも美味そうだな」
「お仕事お疲れ様、父さん。いつもありがとう。カツとチキン、1切れずつ交換しようよ」
3人は仲良く、温かい弁当を食べた。