5.錯誤
今日はコウジとヒヨリの初デート。2人で遊園地に行くことになった。
あまり積極的でないコウジの代わりに、ヒヨリが全ての予定を立てた。彼女はコウジに夢中だった。とても愛が強かった。
集合時間。ヒヨリは10分前には到着していた。午前9時、駅に集合だった。しかし時間になっても、コウジは来なかった。朝から連絡がつかないため心配はしていたが、やはりそのまま遅刻した。
ヒヨリは怒っていなかった。昨日の夜、少し遅い時間まで2人で電話をしていたので、寝坊してしまったのかもしれない。「早めに会話を終わらせなかった自分にも少しは非があるかもしれないな」と、そう考えていた。
集合時間から30分が経過した。コウジはまだ姿を現さない。連絡もつかない。
コウジより集合場所から家が遠いヒヨリは、朝6時に起きていた。コウジのために早起きし、いつもより丁寧に化粧をし、今日のために買った服を着て、数日前から考えていた予定も再確認した。バスと電車を使い、45分かけてやってきた。
初デート。コウジに満足してもらうためにできる限りの努力をし、完璧に近い準備をしてきた。充実した1日にするため、自分にできることは全てしてきていた。ヒヨリにとって、それほど今日は大切な日だった。
時刻は午前10時。集合時間から1時間が経過していた。まだコウジは来ない。電話も10回は掛けていた。
大好きな人との、楽しみにしていたはずの時間が、始まる前から不安と不満で埋め尽くされていく。
遊園地は駅から電車で約40分。2人で観ようと思っていた10時半からのピエロのショーも、もう観れなくなってしまった。楽しみにしていた100食限定の園内名物ビッグホットドッグも、もう売り切れているかもしれない。
時間が過ぎていく。予定が潰れていく。ヒヨリの広い心にも、だんだんとシワが寄ってきていた。不安は怒りに変わりつつあった。
集合時間から2時間が経過した。コウジはまだ来ない。
ヒヨリは怒りを感じていた。既に2時間遅刻しているコウジに対して、明らかな気持ちの差を感じていたからだ。
恋愛経験の浅い彼女が、自分から告白して人と付き合うなど初めてのことだった。こんなに人のことを好きだと思ったことはなかったし、「自ら行動してまで手に入れた人」という事実が、さらにコウジに対する愛を大きくしていた。それなのに、彼は私の気持ちに応えてくれない。大きな温度差を感じていた。
私はこんなに頑張っているのに。あなたのための私になろうとしているのに。これじゃあ私の努力が無駄になっているみたいじゃないか。彼女はこの状況に、ようやくストレスを感じ始めていた。
集合時間から3時間が経過した。ヒヨリの感情は怒りを通り越し、心配に変わっていった。
3時間も連絡がつかない。もしかしたらコウジは寝ているのではなく、何かトラブルに巻き込まれているのではないか。そう思い始めていた。
だとすればどうすればいいのだろうか。電話も繋がらないこの状況で、自分にできることは何なのか。考えたヒヨリは、コウジの家に行くことにした。
駅から電車で10分。3駅先で下車した。改札を出てさらに5分真っ直ぐ歩くと、スーパーマーケットのメエプルが見えてきた。彼の家はこの裏。以前、本人がそう話していた。
あった。表札に紫水の文字。この家で間違いないだろう。ベージュの外壁に、手入れされた庭。2階建ての綺麗な家だった。ヒヨリは一呼吸置き、ゆっくりとインターホンを押した。
ポ、チッ。ピンポーン。
彼が出てきたら、焦らず、まずは相手の言い分を聞いてみよう。怒りのピークから少し時間が経ったヒヨリの心は、だんだんと冷静を取り戻してきていた。
何か特別な理由があって、どうしても連絡ができない状態で、今に至ってしまったのかもしれない。もしそれで納得ができたのなら、真っ当な理由だったのなら、怒る必要はない。それは仕方のないことだ。可能ならば、今からでも遊園地に行こう。閉園まであと7時間ほどある。まだ十分楽しめる。
ただ遅れた理由が寝坊などで、明らかに彼が悪いのだとしたら、それはしっかりと注意しよう。まだ付き合ったばかりだが、甘やかしていてはお互いのためにならない。伝えるべきことは、はっきりと伝える。真面目になって、2人で話し合う時間も必要だ。それができたならば、1歩、2人で前進できる。カップルというのは、そうやって共に成長し、長続きしていくものなのだ。
大好きな彼に説教じみたことをするのは少し心が痛むが、今はそうしなければならないときだ。大好きな彼だからこそ、関係性は太く強いものにしたい。そのために必要なことは、していかなければならないのだ。彼女はそんなことを考えていた。
インターホンを押して1分ほど経ったが、誰も出てこない。彼女は不安げに、もう1度押した。
ピンポーン。
もしや、留守なのだろうか。家から出なければならないほどの急用でも入ったのだろうか。もどかしさが大きくなっていく。ふとスマートフォンを見たが、まだ連絡は来ていない。
さらに1分ほど経ったが、彼は出てこない。またインターホンを押した。3度目だ。
ピンポーン。
するとスピーカーから人の声が聞こえてきた。
「……何。うるさいんだけど。どういうつもり」
コウジだ。ついにインターホンに出たようだ。しかし、その言葉がとても気になった。
ヒヨリはてっきり、寝坊したコウジが慌てて謝りながら出てくるか、何か急用が入っていて留守にしているかの、どちらかだと思っていた。普通に想像できることが、普通に起こると思っていた。
ところが、何だ今のは。うるさい? どういうつもり? ……聞き間違いだろうか。思いもしなかった言葉が、確かにこのインターホンから聞こえてきた。確実に、コウジの声で。
玄関のドアが開いた。不安と疑問で顔を歪めたヒヨリの目の前に、ついにコウジが現れた。片目を瞑っていて、明らかに寝起きだとわかった。
「ヒヨリ? 何でいるの。てかうるさかったんだけど。せっかく気持ちよく寝てたのに。起きたときまだ寝ぼけてたから、タンスに右膝ぶつけちゃったじゃん。無意識だったから結構痛むよ。今も痛い。こんなつもりじゃなかったのに。今日はアラームもセットせずに、寝られるだけ寝るつもりだったんだ」
あまりに筋違いなコウジの発言にヒヨリは一瞬戸惑いつつも、とりあえず話を進めようと冷静に言葉を返した。
「コウジくん、寝てたの? 寝坊してること、わかってる? 今日は2人で遊園地に行こうって。朝9時に駅に集合って、約束してたじゃん」
眠たそうなコウジが、首をボリボリと掻きながら聞き返す。
「え? ああ。予定変更になったんじゃなかったの? それ今日じゃなくて、明日の話でしょ」
「え?」
「いやいや、しっかりしてよ。ヒヨリがそう言ってたから俺、明日だと思って今日は気持ちよく寝てたんだ。それを邪魔しておいて、無神経すぎるでしょ。インターホンの音で起こされたとき、すごく不快だったよ」
「え、ちょっと待って。予定変更なんてしてないよ。私そんなこと言ってない。大体1週間以上前から、今日行くって決めてたじゃん。カレンダーにも、予定入れといてくれてたんじゃないの?」
「うん。入れてたよ。昨日の夜までは。寝る前、電話したよね? あのときヒヨリ、明日が楽しみだかなんだか言ってたじゃん。覚えてない? 俺は覚えてる。急なことだったから、ちょっとびっくりはしたけど」
「え、ああ。そうだね。やっぱりわかってるじゃん。昨日、電話もした。コウジくん、寝坊しておいてその態度って。私の身にもなってよ。まずはちゃんと謝ってほしい。私、駅で3時間待っても来なかったから、ここまで来たの」
「はい? だからあの電話、予定変更の連絡も兼ねてたんじゃないの?」
「どういうこと?」
「だからヒヨリが確か『明日、駅に9時集合ね。よろしく。楽しみ』って言ってたじゃん。あのとき、結構遅かったよね。0時10分くらいだったかな。『明日』って言ってたから、てっきり予定の日付変更になったんだなって。俺、そう思ってたんだけど。間違ってるの、ヒヨリの方じゃない?」
2〜3秒の沈黙が流れたあと、ヒヨリが息の混じった小さな声を出した。
「え、もしかして」
「ん」
「もしかして、私が『明日』って言ったときが0時を回って今日だったから、その日付から見て明日になったって。その一言で予定変更されたって。そう言いたいの?」
「え、うん。駅で3時間待ってただなんて。30時間くらい寝て起きたと思ったの? 面白いね」
ヒヨリは頭の中で、必死に状況を整理した。コウジは何を言っているのか。この会話に何かおかしな点はないか。話をどのように持っていけばいいのか。間違っているのはどちらなのか。
彼はきっと、遅刻したことを責められないように屁理屈を言い、自分を正当化しようとしているのだろう。何故かはわからないが、何とか言い逃れようとしているのだろう。考えた結果、彼女は彼の発言の意図をそのように解釈した。
ヒヨリはこの状況を、できるだけ平和に解決したいと思っていた。感情的になっても遠回りをするだけだ。ならばまずはこちらから、落ち着いて話を進めていけばいい。段階を踏んでゆっくり伝えれば、きっと彼もわかってくれるはずだ。私ならできる。
「コウジくん、もういいから。ちゃんと冷静になって。変に抵抗されるより、素直に謝ってくれた方がいい。コウジくんがどんな人かはまだまだ私にはわからないけど、このことを通して、少しでもお互いの理解を深めたい。今はそういうチャンスなんだって、私は思いたい。そのためにできることはたくさんあるけど、少なくともこれは、1番良い方法じゃないと思う」
ヒヨリは自分の意見をはっきりと伝えた。これでコウジが我に返って、ただ一言謝ってくれれば、そのあとは何とかなる。こちらさえ許してしまえば、きっと喧嘩にはならない。無理をしているわけではないが、今この状況を安全に抜け出すためには、それが最善策だと思った。話し合いは、そのあとすればいい。
そう思っていると、コウジが口を開いた。
「冷静になるべきなのは、ヒヨリの方なんじゃないの。急な予定変更。睡眠の妨害。おまけに俺を悪者扱い。正気の沙汰じゃないって。何が起こってるんだよ。じゃあそもそも明日って言ったのは何。それが間違いだったってこと?」
ヒヨリはコウジの発言に違和感を覚えた。そして怒りと呆れが混ざる感情の中、震える声で呟いた。
「……本気で言ってるの」
コウジは本気だった。遅刻したから言い訳をしているだとか、言い逃れようとしているだとか、そんなつもりは一切なかった。会話の中で出てきた「明日」という言葉に対して、ただそのときの彼女と、「認識」が異なっていただけだった。そのことがキッカケで、起こるべくして起こったことだった。
彼は自分が思っていることを、当たり前だと思っていることを、そのまま伝えただけだった。当然、正しいのは自分だと思っていた。それどころか、ヒヨリのことを変な子だと思い始めていた。こいつはどんなつもりでここにいるんだ。結局何が言いたいんだ。そんなことを思いながら、彼は続けた。
「こっちは明日って言われたから、今日は気持ち良く寝てたんだ。それを今になってどういうことだよ。おかしいのはヒヨリなんじゃないのか。謝るべきはヒヨリなんじゃないのか」
ヒヨリの違和感は確信に変わった。どうやら彼は本気で言っているようだ。
彼は少し変わっているのか? 私とは感覚がズレているのか? それとも私がおかしいのか?
話を進めるためには、根本を指摘しなければならない。彼女はそう思い、力強い声で話し始めた。
「常識の範囲ってものがあるでしょ」
「常識の範囲?」
微かに首を傾げながら、コウジが聞き返した。
「そうだよ。普通に考えてわからない? 何日も前から約束してて、前日の夜になって電話で『明日』って言ったら、もうわかるじゃん。いくら日付が変わってたからって、そんな正確に捉える必要ないよ。常識の範囲だよ。その辺はもう、お互いの共通認識としてわからない?」
コウジがあまりにも言い分を譲らないので、ヒヨリはつい感情的になってしまった。
すると無表情のまま少し考えたコウジは、淡々と話し始めた。
「もしかして視野、狭い? 主観でしか考えられないタイプ?」
「え?」
「だから、それじゃあ自分と同じ価値観の人としかコミュニケーションが取れないよって話になるじゃん。常識や普通ってものの感じ方は、人それぞれ違うものなんだよ。自分では常識だと思っていたことが、他人にとっては非常識だったりすることもある。俺の常識とヒヨリの常識が同じだって、誰かが証明でもしてくれたの? そうでもなければ、その話は破綻してるよ。そもそも『明日』って言葉を使うなら、一般的な意味で捉えられても仕方ないじゃないか。辞書で明日って調べてみなよ。小学生のときに使ってた国語辞典ならあるけど、あとで持ってこようか? もし自分の常識の範囲で明日って言葉を使うのなら、もしそのときに言葉の意味が曖昧になってしまうのなら、それはお互いにとってトラブルの元になるかもしれないじゃないか。今みたいに。だったら正しく伝わるように言葉を変えるか、その前に2人の中での『明日』の定義を決めておく必要がある。コミュニケーションっていうのは、お互いが同じ認識をして初めて成立するものなんだ。1人で完結させることはできない」
ヒヨリはただ真っ直ぐに、コウジの目を見ていた。彼の言ったことも、しっかりと聞いていた。だがそのまま、何も言わなかった。
ヒヨリはコウジに対して、もう怒ってはいなかった。不快だとか、幻滅だとか、そういう気持ちも一切なかった。一瞬、全ての感情を忘れてしまったように感じた。
無言のヒヨリをよそにコウジが家に戻ろうとしたとき、我に返った彼女は彼を引き止めるように声を出した。
「起こしちゃってごめんね。明日、学校だから遊園地行けないや。また今度」
彼女はそう言ってその場を去った。
帰り道、ヒヨリは考えていた。コウジの言うことは完全に肯定はしないが、完全に否定もできない。自分が完全に悪いとは思わないが、彼が完全に悪いとも言い切れない。たしかに、それもそうかもしれないと思った。
一旦帰ろう。今日のところはお互い1人になって、また今度しっかり話し合おう。それが最適だと、彼女は思った。
初デートの日に起こったことではあったが、大きな喧嘩にもならなかったため、2人の関係は維持された。ヒヨリの、コウジに対する好きという気持ちが変わることはなかったし、ヒヨリからの謝罪を受け、コウジの怒りも和らいでいた。
2人が解散して数分、それぞれの心はすでに落ち着きつつあった。