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3.恋心

 最近、コウジに彼女ができた。


 現在大人になったコウジは、週2〜3日ほどのアルバイトをしながら、実家暮らしを続けていた。数年前から姉は1人暮らしを始めたため、コウジは両親との3人暮らしだった。

 住む家にも、食べ物にも、健康にも困らず、今の生活に不満はほとんどなかった。強いて言えば、暇を持て余しているのに、娯楽や旅行などの楽しみが少ないことに悩むくらいだった。

「お金があれば、もっと人生楽しめるのになぁ」

 彼はたまに、そんなことを考えていた。


 特に志しなどなかったコウジは、中学を卒業してから現在までの約5年間、ずっとフリーターであった。だが一般的な社会において、彼の特性が問題なく受け入れられる場所はなかった。労働の中で迷惑行為を繰り返しては、いくつかのアルバイトを転々としていた。

 あるコンビニでは、「敬う相手ではないから」と不良の客に対して敬語を使わず、挙げ句殴り合いのトラブルになった。またあるファミリーレストランでは、「店内の秩序を守るため」と泣き喚く子どもの口内にティッシュを詰めた。

 どこの雇用者も皆、コウジの言動に疑問を抱いた。そして当然、良好な商売の邪魔になるからと解雇した。

 「変な奴がいる」そんな噂が、コウジの住む街に少しずつ広まっていった。


 コウジは最近、新しくラーメン屋で働き始めた。今日は5度目の出勤日。周りの人間はまだ、彼の本性に気付いていなかった。

 その日のアルバイト中の出来事。1人で来店していたガタイの良い中年男性の客が声を荒げた。

「ラーメン、いつ食えるんじゃい!」

 どうやら注文した商品が店側のミスで通されず、そのまま長時間待たされていたようだ。近くにいた若い女性スタッフが咄嗟に対応した。

「申し訳ありません。今すぐお作りしますので、もう少々お待ちください」

「もう時間ギリギリやねん! 俺が急いで食べなあかんのかぇ! ラーメンええから、待った時間返せ!」

 怒られていたのは、アルバイトの丈中(たけなか)ヒヨリだった。その客の注文を取ったのも彼女だった。

「すみません。す、すみません。ごめんなさい」

 ヒヨリは震えていた。恐怖と緊張で顔は真っ赤になり、すでに涙目にもなっていた。

 大学生になったばかりの彼女は、3ヶ月前まではアルバイト未経験だった。徐々にこの環境にも慣れてきて、働きがいも感じていた。

 客からの感謝の言葉、日々成長していく実感、自力で稼ぐお金。働くということ、社会貢献をするということに対して充実感を覚え、向上心も持ち始めていたところだった。彼女にとって、そんな時期に起こったことだった。

 大きなミスをしてしまった。自分のせいで客を激怒させてしまった。男の怒りは収まらない。店内に響き渡る声でヒヨリを怒鳴り続けていた。他の客にも迷惑が掛かっている。ヒヨリは苦しんでいた。

 もうどうすればいいのかわからない。体は固まって動かない。助けを呼ぼうにも、萎縮して声が出ない。心臓の鼓動が大きくなってくる。熱くなった胸は破裂してしまいそうだ。悔しいのか、悲しいのか、よくわからない。後悔、反省。そんなことを感じる余裕すらない。彼女は追い込まれていた。

 

 この店に入ったばかりのコウジにとって、ヒヨリは頼りになる先輩だった。年齢的に、コウジはヒヨリの2つ上だったが、年下とは思えないほどしっかりしていて、責任感もある子だった。

 丁寧な教育、明るい笑顔、真面目な仕事ぶり。とても感心して、信頼もしていた。働き始めてまだ5日目だが、ヒヨリにはとてもお世話になっていた。まさに「良い人」であった。

 そんな彼女が今、窮地に立たされている。いつも明るく、熱心に働いていた彼女が、今は別人のように見える。責め立てられ、精神は参り、ひどく怯え、呼吸も荒くなっている。

 男が最初に大声を出してから、コウジはずっと2人を見ていた。何が起きているのかは理解していた。時間が経つにつれ、状況は悪化していく。誰かがどうにかしなければならない。収まらない男の怒鳴り声が、店内の緊張を高め続けていた。

 そのとき、コウジは思った。

「電子レンジ、買い換えなきゃな」

 最近、紫水家の電子レンジが壊れたのだ。母親にお金を渡されたコウジは、近日中に電子レンジを買ってきてほしいとおつかいを頼まれていた。彼はそのことを思い出していた。

 その男の客は、紫水家の近所にある家電量販店で働いている社員だった。何度か店に行ったことがあるコウジは、そのことに気付いていた。

「もしこのトラブルを丁寧に丸く収めることができたら、電子レンジを買いにいったときに、良い意味で『あっ! あのときの!』ってなって、何かサービスしてくれたり、良い物を紹介してくれたりするのかなぁ。あいつ」

 コウジはそんなことを考えていた。

 注ぎかけのお冷を置き、ゆっくりと歩き出したコウジは、ヒヨリの横に立った。

「お客様、大変失礼しました。ただ、時間を返すことはできかねます。過ぎてしまった過去には戻れないことが、この世の条理ですので。しかしひとつ、伝えたいことが。実はあの時計、15分ほどズレているんです」

「え?」

「だからお客様。スマホを見てください。お仕事お疲れ様です、今はランチ休憩ですか? 何時まで? もし13時まででしたら、あと30分ほどございます。あの時計は12時50分ですが、今は12時35分ですので」


 偶然だった。時計はズレていたのではなく、ズラされていた。ズラしたのはコウジだった。動機は、自分が得をするため。それは昨夜のことだった。

 昨日も出勤していたコウジは、閉店後、店長と2人で締め作業をしていた。

「店長、22時以降の時給って、少し上がるんでしたっけ」

「ああ。深夜時給だと270円上がって、1350円になるな。もうこんな時間か。今日は忙しかったな、遅くまで残業ありがとう。あとはやっとくよ。電車、そろそろ時間だろ」

「そうですね。でしたら店長、退勤時間、そちらでお願いします。ちょっと急いで帰ります。時計、見てなかったもんで」

 コウジは高い深夜時給でズルして稼ぐため、時計の分針を15分進めていた。あとはその時計を見た店長に、店のパソコンで退勤時間を登録させ、少し多めに給料を貰う。それが彼の作戦だった。

 タイムカードではできないことを、店長に頼み、店のパソコンを使わせることで可能にした。この店は個人経営で、時給は15分毎に反映されていた。退勤時にパソコンを操作するとき、必ず店の掛け時計を見る店長の癖を見抜いたからこそできたことだった。

 作戦は成功。その場でバレることはなく、今に至った。


 ただひとつ、今日の朝に時計の針を直すつもりが、忘れてしまっていた。

 時計はズレたままになっていた。しかしコウジ以外、まだ誰もそのことに気付いていなかった。時間を気にする客に向かって、コウジが彼にしか使えない機転を利かせた瞬間だった。

「本日は申し訳ありませんでした。こちらラーメン1杯無料券と、トッピング1品無料券でございます。またのご来店お待ちしております」

 男は話し始めたコウジをじっと見つめ続けた。そして無表情のまま何も言わず、早足で店を出ていった。彼の不満が消えたのかはわからない。これで丸く収まったのかはわからない。形としては、解決できた。

 ただ男が見せたその態度は、まるでその場にいる時間をできるだけ穏やかに、最短の方法で終わらせたかのようだった。

 一方、ヒヨリは救われていた。助けられたと感じていた。

 あのとき、周りが見えなくなっていたヒヨリに、コウジが男に話している内容は聞こえていなかった。それどころではなかった。ただ、何とかこの場が収まることだけを願っていた。そうしていると、いつの間にか男は去り、自然と心も落ち着いていた。そして彼女の中には「この人に助けられた」という結果だけが残った。


 あれから2週間。ヒヨリにとってあのときの記憶は、温かい感情となって心の中に留まり続けた。次第にそれは大きくなっていき、「私にはこの人が必要」という気持ちが育っていった。そして気付くと、コウジを異性として意識していた。

 気持ちが抑えられなくなったヒヨリは、コウジに告白することに決めた。

 ある日のバイト終わり。

「コウジさん。今日駅まで一緒に帰りましょ」

「ん、おう」

 コウジはいつも電車で通勤していた。家の近くのアルバイトは辞めさせられてばかりで、雇ってもらえるところが少なくなっていたからだ。

 ヒヨリは、店の最寄駅までコウジに着いていき、別れ際に告白することに決めていた。

 歩きながら、2人は他愛もない話をした。

「そういえばコウジさんってどこに住んでるんですか?」

「えとね、3駅先のメエプルっていうスーパーわかる?」

「あ! わかります! 小さい頃に1回だけ行ったことありますよ!」

「お、そなんだ。あそこの裏にある一軒家。だからスーパーまで徒歩10歩」

「あはは。徒歩で時間じゃなくて歩数なの初めて聞いた」

 駅に着いた。

「じゃあ俺、ここから電車乗るわ」

「ありがとうございました! ここの駅、結構大きいんですね」

「うん。最近人多くなってきてる気がする」

「え! あそこの宝くじ売り場、2週間前に1000万円の当選者出てるって! すご!」

「あー。そういえば俺、前買ったけどダメだったや。いいなぁ1000万円」

「あはは。コウジさんって意外とギャンブラーなんですね」

「いやいや、普段は買わんよ。ただ、あの日はイケると思ったんだよなー」

「どこからその自信出てきてるんですか。あはは」

「えーとね。あれ、なんでだっけ。んんーとぉ。あ、」

「コウジさん」

「ん?」

「私。コウジさんのこと、好きです。付き合ってください」

 人生で初めて告白をされた。告白はしたこともないし、彼女すらできたことはない。

 未体験のことが起き、コウジは思わず驚いた。彼女が今、自分に向かって告白してきている。あの彼女が。いつも仕事熱心で明るく、尊敬もしていた、あの彼女が。明らかに今、絶対に選べる。彼女と付き合うかどうかを。選択を迫られている。

 ヒヨリは一般的に、見た目は整っている方であった。身長も平均くらいで、スタイルも良い。性格も真っ直ぐで、明るい。社会性があり、信頼もできる。彼女と付き合えば、充実した毎日が待っている。誰が見ても、そう思えるような子だ。

 そんなヒヨリを、コウジは少しの期間だが近くで見てきた。彼女の素晴らしさは、身に染みて感じていた。今自分が許可をするだけで、そんな彼女と付き合うことができる。とてつもなく大きなチャンスが、突然やってきたのだ。

 そのとき、コウジは思った。

「おいしそう。こいつの団子鼻。ぷるぷるしてて、死んだあの子によく似てる。はむはむしたい。夢なんだよなぁ。やべっ、ムラムラしてきた」

 コウジに彼女ができた。

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