事実ハ小説ヨリ奇ナリ
昨日の夜、コーヒーを淹れながら思い出した。
あの日の夜の事を。
あれは僕が確か27、8歳の頃。仕事で忙しくて、毎日終電か、終電を逃してタクシーで帰る日々。忙しくて忙しくて、その上、真夏の暑さでヘロヘロで、彼女と別れたばかりで、気持ちも身体もどうしようもないくらい疲弊していた。でも、これで仕事が暇だったら、僕は頭がおかしくなってしまうのかもしれないなと思うと、多くの仲間たちと忙しくも賑やかな毎日を過ごせることが、自分の精神を保たせてくれているのかもしれないなとも思った。
その日も仕事が遅くなり、遅めの食事を仲間ととっていたら、案の定、終電を逃した。皆は職場に泊まって明日を迎えるということだったが、着替えがなかった僕は家に帰ることにした。いつものように新宿からタクシーで帰ればよかったのだけど、なんとなく、一人で歩きたくなってトボトボ熱帯夜の甲州街道を歩いて帰った。
初台に差し掛かり、山手通りに出てゆっくりゆっくり歩いてゆく。もういい加減、タクシーに乗ろうと思って手を挙げて止まったのが、三和交通のオレンジのタクシー。でも、普段あまり見ない後ろがハッチバックになっているワゴンタイプで、夜中なのにサングラスをかけて、フィッシャーマンズベストを纏い、ベースボールキャップを被った白髪のお爺ちゃん運転手さんだった。
「ボーイは、どこまで行くの?」
え?ボーイって俺の事かな?と一瞬戸惑い、その上、奇抜な格好のお爺ちゃんのタクシー運転手さんがお姉言葉で僕をボーイと呼ぶという、あまりにも情報量が多い事態を一瞬では呑み込めず、戸惑ったのを鮮明に覚えている。
「あ、あの、高円寺までお願いします。」
「了解よ!」
2つ前に書いた「自家焙煎珈琲店テロワール5〜天使のブラジル〜」のマスターが乗ったタクシーの話は、僕自身に起きた話だった。話した内容は少し違うけど、ほとんど脚色はしていない。僕の書いているお話は、ほとんどが僕の人生で起きた話がベースになっている。大体のキャラクターには、モデルがいて、その性格はその人そのままだったりする。
とりわけあの夜の体験は、本当に夢だったのかもしれないと思うくらいだった。あれから何度も新宿からタクシーで帰宅したのだけど、あの日以来、あのお爺ちゃんのタクシーに乗ることはできなかった。
「今仕事で忙しくて、その上、彼女と別れたばかりで…。」
知らず知らずのうちに、運転手さんは僕の身の上話を話させては、
「うんうん、ええ。」
と、終始聞くことに徹していた。もしかしたら、そうやって僕の負の部分を吐き出させようとしてくれたのかもしれない。
高円寺に着き、降りる間際、
「ボーイなら大丈夫。きっと素敵な彼女ができるわ。良い恋しなさい。」
と言って笑顔を見せてくれた。
次の日、仕事場でみんなにその話をしたのだけど、最初はだれも信じてくれなかった。まあ、自分が嘘をつくような人間ではないということをみんな知っているから、最後には信じてくれたけど、本当のことを言うと、自分自身も、あれは本当の事だったのか自信がなくなってしまうほどの出来事だった。
思ってもいないところで、思ってもみない人と出会って、思いがけず心が通じて笑顔になったりする。本当に本当にそういうことはたまにしか起きないのだけど、何十年もたった今でも忘れがたい、人生の大切な思い出のような気がする。
歳を考えると、多分あの運転手さんはもう生きてはいないだろう。
でも、あの夜のときのように、うなだれながらトボトボと夜の幹線道路を歩いていると、きっとあのワゴンタイプのタクシーが停まってくれて、
「あら久しぶり、ボーイ。今日は何があったの?」
といって、僕の話をきいてくれるような、そんな予感がする。
生きていても、生きていなくても、その思い出と、その人の魂のようなものは、ずっと僕の中で生き続けて、僕もその人の事を思い続けていくような、そんな縁の深さを感じずにはいられない。
「運転手さん、お久しぶりです。あれから十年後に、別れた彼女と再会して結婚したんですよ。人生ってわからないものですね。運転手さんはお元気でしたか?」
いつ、どこで、再び出会うかはわからないし、この人生ではないかもしれない。でも、なぜかはわからないけど、きっと会える日が来るような、そんな気がする。




