温かい珈琲と加奈子さんの優しさ
「はい、コーヒー。」
そういって、加奈子さんは僕に紙コップに入ったコーヒーを渡してくれた。
「…、くっ…。」
情けなさと悔しさが思わず口から漏れてしまう。
「佐伯くん、本当に優しいね。」
思ってもなかった言葉に心を揺さぶられ、また涙がこぼれ落ちた。
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「違いますよ、ここはこういう風にやってください。」
厳しい口調で仕事のやり方を教える。今ではなんでそうなったかわからないくらい適当な人間になってしまったが、まだ二十代だった頃の僕はちょっと厳しい人間だった。
「佐伯さん、すみません。もう一度教えて下さい。」
中途採用で入社してきた加奈子さんは僕の初めての後輩だったが、新卒で入った僕より年上の女性だった。その頃の僕は自分に厳しく他人にも厳しいという、若い人間によくある融通の効かない馬鹿だった。片桐さんは前職は大手商社に勤めていたとのことだったが、なぜかそこを辞めてそれほど大きくもないうちへ転職してきたという話だった。
まあ、でもうちのやり方は覚えてもらわないといけないし、年上だからといって舐められても困る。ここは心を鬼にして、厳しくビシビシと教えなければならないなどと、当時の僕は何かを履き違えていたが、まあ、違ったものを履くのも初めてだったから、それが違っちゃっているかどうかもよくわかっていなかった。
今思えば、あまりにも肩肘に力が入りすぎていたのを加奈子さんはわかっていながら、先輩の僕を優しく見守ってくれていたに違いない。ニコリともせず、いつもブスッとした顔の僕に、真剣な顔でなんでもハイッ、ハイッと答えてくれた。切れ長の目で、ツヤツヤのロングヘアー。ものすごく綺麗なひとだったが、そんな魅力に負けないように、しっかり後輩をそだてないといけないという二重の思いが僕をどんどん融通の効かない人間にさせた。
「佐伯くん、どうしてくれるんだね。やっぱり、君には荷が重すぎたかな。」
失敗した。初めて担当になった得意先、前任者が担当を変わるときに得意先の方から佐伯くんは真面目だから彼に担当してもらいたいと言ってもらった。ちょっとしたことなのだが、得意先からそのまた得意先へと迷惑をかけるような大きな失敗をしてしまった。
「佐伯くんを買いかぶり過ぎたかな。真面目なだけじゃだめだよ。」
そう言うと得意先の社長さんは、うちの上司へ電話をして、違う担当をつけるようにと言っていた。
「まあ、気を落とさずに、また頑張って。」
「大変申し訳ありませんでした。」
夕方過ぎに向かった得意先から、帰る頃にはもう夜も更けていた。もう何も考えられなかった。恥ずかしくて、悔しくて、加奈子さんの顔を見ることもできなかった。助手席で塞ぎ込んでいる僕を乗せて、加奈子さんは営業車を運転している。
キーッ。
会社じゃないところで車が停まる。今はあまりみない幹線道路沿いのオートスナック。車から出ていくと、しばらくして加奈子さんは戻ってきた。手には白い湯気の立つ2つのホットコーヒー。
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今日はここからは私が人生の先輩ね、と一言言った加奈子さんはぽつりぽつり話を始めた。
「私ね、前の会社辞めたの上司が合わなかったからなの。」
悔し涙で何も話せない僕に言い聞かせるように話を続ける。
「プロジェクトを成功させたのに、上司が使いすぎた経費を私のせいにしたの。」
真っ赤になってしまった目のままで加奈子さんを見る。うっすら彼女も涙目になっていた。
「一生懸命頑張った部下に濡れ衣を背負わせた上司も、それを見てみぬふりをした会社も嫌だった。」
そう言うと、熱いコーヒーを冷ますためにフゥーと息を吹きかける。
「だから、佐伯くんが私をちゃんと育てたいって気持ち、本当に嬉しかった。」
そう言われたらなおさら涙が出てきてしまう。震える声を絞り出した。
「すみませんでした。一緒に謝ってもらって…。」
それから僕らは少しずつ今日の失敗点を考え直し、対処法を考えた。先輩後輩という関係というよりも、互いに補い合う良きパートナーのような存在だった。そうやって、沢山の得意先を増やし、あの失敗をしてしまった得意先もまた担当にしてもらえるようになった。
「嫌だから辞めるんじゃないわよ。本当に楽しかった。」
数年して、アメリカへ経営学を学びに行くために加奈子さんは会社を辞めた。僕もそれから転職を何度かしたが、彼女同様、自分がもっと成長するためにその会社を卒業するような転職だった。
数回転居を繰り返すうちに、加奈子さんとは音信不通となってしまった。でも、多分彼女は今でも優しくて力強い女性に違いない。
あの日飲んだ紙コップに入ったホットコーヒー。
あの暖かさと彼女の優しい横顔が今でも忘れられない。
加奈子さん、お元気ですか?今度僕の淹れた珈琲飲んでくださいね。きっと、美味しく淹れますから。