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アンと紅茶6

今日は午前中から外回りで会社に戻るのは午後になりそうだ。入社から営業職を数年経験したのち、エリアの渉外担当になり、顧客のアフターフォローと営業担当者の管理のような仕事を任されていた。何より、地域の顧客には、ある程度知られていたし、クライアントと話をするのは苦にならない方だったので、がつがつ営業を掛けるようなタイプでもなかったし、お前はみんなとおしゃべりして回っていた方がいいだろうということで、渉外担当というもっともらしい名前の役職をつけられた。



「よし、とりあえず問題は解決できそうだから、会社に戻るか。」



営業車の小さな鍵をポケットから取り出す。社長の趣味で、営業車は社長の友人が経営している輸入中古車店から購入した輸入車で、営業車一台一台違う車だった。お店が会社の近くということと、メンテナンスも全部見ること、何より車好きの社長が自分の家のガレージに入りきらないからと、自分の好きそうな車を社用車として買ってきては社員に押し付けていた。都内をメインに走る僕にあてがわれたのは、赤いフィアットパンダ。5速マニュアルで左ハンドルだったが、ボディーが小さく小回りが利いたので以外に乗りやすかった。手回し式のウインドウがズドンと落ちて上がらなくなったり、マフラーが脱落してすごい音になったりすることもあったが、車好きのお客さんも興味津々で評判は上々だった。



「前にタルト買った店にでも寄っていこうかな。」



外苑東通り沿いに来ていたから、近くにあったタルトの美味しかったお店に寄っていくことにした。平日のお昼くらい、その頃は表参道に車をちょっと停めてご飯を食べるくらい普通に出来たものだった。高級外車と高級外車の間に、小っちゃなイタリアの大衆車を停める。急いでお店に向かってみると、良かった二人くらいしかお客さんはいなさそうだ。



「このフルーツが色々乗ったやつと、ベリーが色々乗ったやつと…」



と、何種類かのタルトを見繕ってもらった。でも、ふと考えなおして、それはお土産にして、今から帰って午後の休憩に来るであろうスタッフ分の焼き菓子を買うことに。生菓子も好きだけど、焼き菓子も大好きだったから、ちょっとした休憩に食べやすいものにすることにした。



表参道から原宿を通り過ぎ、代々木公園の緑を眺めながら参宮橋を取りすぎて会社へ戻る。都内の中では静かなこのあたりの道を走るのは悪くない。仕事もとりあえず落ち着いたから、早く会社へ戻って一息つきたいところだ。



車をビルの地下駐車場に止め、オフィスへ戻る。ボスに今日の状況を伝えると、お前が大丈夫なら大丈夫だろうという感じで忙しそうに仕事をしていた。3時のお茶の時間、休憩室に向かうといつもの姿は見当たらない。



「そっか、今日は外回りかな。」



アンは海外のクライアントと商談するときは通訳をしている。もともと大学では経済を専攻していたらしいので、なおさら役に立つらしい。海外の会社と日本の会社では、取引の仕方や考え方、戦略などが違うので、海外の目線で相手がどういう風に考えているかを理解できるアンは、欧州人のものの考え方などを教えてくれる先生でもある。



自分のマグカップを棚からとると、中にいつものティーバッグが一つとアン愛用の砂時計。取っ手の部分にはポストイットが貼ってあって、



「Have a cuppa. Anne」



と書いてあった。



そのポストイットを取って、いつものように紅茶を淹れる。休憩室に来るスタッフにフィナンシェやマドレーヌを配って、皆と紅茶やコーヒーを楽しんだ。ほっと一息つける楽しい時間だったけど、やっぱりいつもの顔が見られないのはちょっとだけ寂しい。



残りの仕事を終わらせて、6時になってもアンは帰ってこない。もしかしたら、そのまま会食へ行ったのかもしれない。



「れいぞうこにタルトをかってあるよ。たべてね。With a cuppa. タク」と情けないことに英語で書けないから、なるべく易しく平仮名多めでポストイットに書いてアンのデスクに貼って帰宅することに。あとで電話でも来るかななどと思っていたら、後ろからドタバタ走る音がした。



「タク!」



どうやら、帰ってきてトイレに行っていたらしい。戻ってポストイットを見て、すぐに追いかけてきたみたいだった。



「一緒に食べよう!タクの家に行こう!」



嬉しいけど、ちょっと恥ずかしい。



「ユミに会いたい!」



嬉しい反面ちょっとがっかりだった。なんだ、妹に会いたいだけか。この春、田舎から大学生になった妹と二人暮らししていた。英文科に入った妹は、イギリス人のアンに興味津々で、英語を勉強している妹にアンも興味津々だった。二人とも電話でしか話をしていなかったので、会える機会を探していたのかもしれない。家に電話をかけてみる。



「家にいるって。ご飯作って待っているから早くおいでだって。」



案の定、妹は大喜び。丁度カレーを沢山作ったから良かったと言っていた。電車で3駅、夕暮れ時の街を歩いて家に戻る。玄関先でアンと妹は初めてあったとは思えないくらい意気投合して抱き合っていた。ちょっとスパイシーな妹のカレーを食べ、三人でいろんな話をしながら紅茶とタルトを食べる。



今思えば、あの時のタルトの味は良く覚えていない。でも、妹があんなに楽しそうに笑っているのを見たのは久しぶりだった。アンも会社とは別のもっと子供っぽい仕草で楽しそうに笑っていた。二人の会話の中にはなかなか入れなかったけど、それでも二人の笑顔を見れたのが嬉しかった。



人の笑顔が見たい。僕のやりたいこととはそういうことかもしれない。お客さんの笑顔、スタッフの笑顔、社長の笑顔、両親の笑顔、妹の笑顔、そして、アンの笑顔。



どうやったら人を笑顔に出来るのか、そのヒントをアンと紅茶に教わっているような気がした。紅茶でも、美味しいケーキでも、スパイシーなカレーでもない。本当はそれをあげて誰かに笑顔になってほしいと思う気持ちが人を笑顔にするのかもしれない。アンと妹の笑顔を見て、もっと誰かを笑顔にしたい、そして、僕も本当に心の底から笑顔になりたい、終電の駅に向かうアンの後姿を見ながらそう思った。

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