4話「眠り人」
岩壁に囲まれた谷底は太陽の光がわずかしか届かず薄暗い。地上からは見下ろすことのできない"断裂層"の底では荒れた光景が広がっていた。
3年前はどこからか迷い込んだ魔物と呼ばれる凶暴な生物が数多く跋扈していたが、今ではそんな面影はない。そこには変わり果てた魔物の骸が転がるだけだ。
そんな光景をたった一人で築き上げた魔族が佇んでいる。
冷たい風が魔族の長い髪を揺らす。静まり返った岩場に唯一残った魔族は、死神のように生者の命を奪い去った。
連日にわたり、数々の魔物を屠り続けたにも関わらず相変わらずその姿には疲労が見られない。
その魔族の正体は3年前にこの地に降り立ったフローラであった。
「これで、しばらくは安全ね」
最後の一匹の魔物を仕留めたフローラはそうつぶやいた。愛する妹の顔を思い描きながら。
辺りから魔物の気配が消えたことを確認するとフローラは岩壁に空いた小さな洞窟の中へと向かう。
洞窟の中には殺風景な外とは違い幻想的な光景が広がっていた。地面には花々が咲き誇っており、壁からはフローラ手製のランタンが薄暗い洞窟をほのかに照らし出す。
その花畑の上には一人の少女が眠っていた。ランタンから発せられる赤く淡い光が、少女の生気のない顔を儚く際立たせる。
その少女こそ愛する妹、コレットであった。
何かの儀式にの生贄にも見えるその少女は、目を離せば消えてしまいそうで、フローラは自然と少女のもとへ向かう足を速くさせる。
「ただいま、コレット。お姉ちゃんちょっと頑張ったわ」
妹に話しかけるフローラからは先ほどまでの無機質な死神のような雰囲気はすっかりなくなっていた。
しかし、コレットから返事は返ってくることはない。
コレットは眠り続けていた。この場所に運び込まれてから3年間、一度も目を覚ますことなく。そして、その様子は良好とは言えなかった。
安らかに眠っていたと思えば、突然うめき声を出し、誰かに助けを求めるように手が延ばされる。
その度にフローラは異能を用いてコレットの精神に介入し、悪夢を振り払う。そうやって崩壊寸前のコレットの心をかろうじて繋ぎとめていた。
度重なる悲劇の連続でコレットは心身ともに疲弊していた。当時10歳だった少女には人間達の指すような視線は耐えられるものではなく、3年という年月を経てもその心は未だに癒えてはいない。
身体の方の疲労はとっくに回復している。しかし、問題だったのは精神と魔力の方だった。
魔力の回復には精神の状態が大きくかかわっている。精神状態が悪いと、その分魔力の治癒の効率も格段に悪くなる。
この場所に来た時にはコレットの魔力は底をついており、精神状態も最悪と言っていい状態だった。
コレットが見ている夢が魔力の回復を阻害する。だが、目を覚まさないため、精神状態が良くならない。そんな悪循環がコレットを蝕んでいた。
フローラが完全な魔族になったことで得た、「他人の精神に介入できる」能力でもコレットを夢から完全に救うことはできなかった。
一時的に夢に介入し、コレットを助け出したとしても、脳が本能的に見てしまう夢をフローラが操作することはできない。
魔族となり、力を得たフローラも眠るコレットを見ると途方もない無力感に苛まれるのだった。
しかし、その悪循環も終わりが近づいていた。
枯渇していたコレットの魔力も長い時を経て、十分に戻ってきている。
今のコレットの睡眠は意識が戻らない状態なのではなく、一般的な睡眠状態に近い。いつ目覚めてもおかしくない状態なのだ。
フローラはコレットの頭を自身の膝の上に乗せると、愛する者の目覚めを今か今かと待った。
そうして、待ち続けてから数時間が経った頃、洞窟の外からは一日でも僅かな時間しか届かない太陽の光が差し込んでいた。
ランタンがあるとはいえ、それでも薄暗い洞窟の中も、少しだけ自然な光が姉妹を照らし出す。
その光に導かれるようにコレットの瞼が重々しく開かれる。
フローラの中では、止まっていた時計がようやく時間を刻みはじめたような気がしていた。
「おはよう、コレット」
谷底に来て3年間、初めてフローラの顔に笑顔が戻るのだった。
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