21話「穿孔を埋める愛」
「はぁ……はぁ……」
行先を決めていたわけではなかった。雨の中をただ無我夢中で走り、母から逃げることだけを考えて一つの方角に向かって突き進んでいった。
家を飛び出してから後ろなんて一度たりとも向いていない。振り向けばそこには鬼の形相をした母が傍にいるのではないか。そんな気がして、ラティファの頭は恐怖でいっぱいだったからだ。
ラティファの服は雨で体に張り付き、思うように走ることはできない。足元にもぬかるみがたくさんできており、何度も足を取られては地面に打ち付けられ、ラティファの細身の身体はボロボロになっていた。
しかし、何度転んでもラティファは直ぐに立ち上がり、また走り出す。完治したとは到底言えない右脚を庇いながら走っているため、速度は普通に歩くよりもずっと遅い。それでも歩みを止めるわけにはいかない。ただ"母から逃げる"ためだけに。
「あっ…!」
突然、身体がぐらりと傾いた。咄嵯に手を前に出してバランスを取り直そうとするも虚しく、そのまま地面へと倒れ込んでしまう。
ラティファはすぐに立ち上がろうとするものの、脚に力を入れることができない。何時間もの間、休むことなく走り続けた結果、ラティファの肉体はすでに限界を迎えていたのだ。
気づけばラティファはあの森へとたどり着いていた。数日前、コレット達に助けられた森だ。それは単なる偶然か、それとも心のどこかで助けを求めようとしていたのかもしれない。
(誘いを断った結果がこれですか…あまりにも滑稽ですね)
汚泥を被り、横になるラティファは自虐の笑みを浮かべる。
自分の事を思って一緒に生きようと言ってくれたコレットの誘いを自分勝手な我儘で断り、あまつさえ姉妹の情報を渡そうとした。母から愛されるために命の恩人を売ろうとした。あんなに母を元に戻したいと考えていたのに、結局は母と同様に自分の事しか考えていなかったのだ。
それが今になって助けてほしいなどと思っているのか。なんと浅ましい考えだろう。ラティファは"身勝手"、"醜悪"、"愚劣"と、思いつく限りの雑言を自分にぶつけていく。
降りしきる雨は汚れた心を洗い流してはくれない。全てを失い、孤独となったラティファを嘲るように地べたへ縫い付け、体温を奪っていく。
(私…このまま死ぬのでしょうか。少し怖い…。ですが、今の私にはお似合いなのかもしれないですね…)
もう何もかもどうでも良くなっていた。今生き延びたところで行くべきところも帰るべきところもない。始まるのは終わりの見えない逃亡生活だけだ。それならいっそここですべてを諦めてしまった方が幸せとまで思ってしまっていた。
一つ未練があるとすれば、フローラの魔力片を処分できなかったことだろうか。自分が死んだ後、このまま見つからなければいいのだが。もし追手に見つかってしまったら本当に自分は無駄死となってしまう。こんなところでも最後の最後まで役に立てなかったことが悔しくて、ラティファの目からは大粒の涙が落ちる。
「ごめ……なさ…」
後悔と共に沸き上がった恩人への謝罪も言葉にはならず、ラティファの意識はプツリと切れた。
***
「うぅ…」
目を覚ますとそこには木造の屋根が映っていた。ラティファの身体はベッドの上に横たえており丁寧に柔らかい毛布まで掛けられている。
ラティファの最後に残っている記憶は孤独に死を覚悟した記憶だ。豪雨によるすべてをかき消すような音が耳に残っていることから、どうやら夢だったということではないらしい。
全く力の入らなかった身体は永い眠りについていたかのように気怠く、身体を起こすのにも相当な力を要した。しかし、痛みという痛みは感じることはなかった。
「あら、起きたかしら?」
静かな空間に溶け込んでしまうような、透き通った声がラティファに掛けられる。声のする方向に視線を向けるとそこには荘厳な翼を携えたラティファも良く知る人物がこちらを眺めていた。
「フローラ…さん?」
「痛いところはない?私、治癒の魔術は少し苦手でね、ちゃんと治せているといいのだけれど…」
ラティファは混乱する頭を落ち着けてこくりと頷く。
「私…どうしてここに?」
部屋の雰囲気からしてここは彼女の家なのだろう。以前は生活区だけしか見たことはないが、質素な木造の部屋ということもあり、雰囲気は似ている。
ラティファの問いに対してフローラは微笑みながら答える。
「あの魔力片は私の一部といってもいいものでね、直接見ることはできなくても感知はできるの。もし貴女が国へ報告したとすれば解析するために一か所に保管されるのが普通でしょう?それが急にこちらへと向かってきたのだから、その理由は限られているわ。後は魔力を辿ってみたら、そこに貴女が倒れていたというわけ」
まだ頭が覚醒しきってないラティファには話を完全には理解することができなかったが、フローラが自分を再び助けてくれたということだけは明確に理解することができた。
「何度も助けていただいて、ありがとうございます」
頭を下げてフローラに感謝するラティファは、ふとラティファは下半身に重さを感じることに気づいた。視線を落とすとそこにはすやすやと寝息を立てる一人の少女がいた。
少女はラティファの下腹部に突っ伏すようにもたれかかり、絹のような空色の髪を無造作にベッドに投げ出している。
「私は眠る必要がないから、看病なら充分だと言ったのだけれど、コレットは貴女が目覚めるまでずっと傍にいると聞かなくてね」
困ったものだと、苦笑いを浮かべるフローラは言葉とは裏腹な慈愛に満ちた瞳で眠っているコレットを見つめる。
その表情はまるで我が子を見る母親のようであった。フローラは優しく頬を撫でると、それが姉の手であることを本能で理解しているのか眠っているはずの表情に薄っすらと笑みが浮かび上がる。
「んぅ…」
やがて姉の手が睡眠を阻害するものと判断したのか、コレットは一瞬身体を強張らせた後、瞼を開いた。
「おはよう、コレット」
「あれ…私…」
ベッドの上でぼんやりとした表情を浮かべるコレットは数回瞬きを繰り返すと何かに気づいたように飛び上がる。
「あっ…!ごめんなさい…!重かったよね!?」
ラティファが目覚めていることに気づくよりも先に、自分が寄りかかってしまったことに慌てるコレットを見てラティファは自然と笑みがこぼれていた。
「気にしないでください。あまり重くなかったですから」
「って…あれ?ラティファさん…気が付いてたの!?」
「はい、おかげさまで助かりました。ありがとうございます」
「コレットはラティファちゃんよりもお寝坊さんなのね」
「うぅ…せっかく頑張って起きてたのに…姉さんも起こしてくれたらよかったのに」
「ラティファちゃんと、コレット、二人の可愛らしい寝顔を見ていたら起こそうなんて思えないわよ」
頬を膨らませるコレットを軽くいなしてみせるフローラ。そんな二人の様子を見て、ラティファは再度、自分が行ったことを強く後悔していた。
「あの…本当に申し訳ありませんでした…!」
自分のとった過ちを償いたい。そう思ったラティファは二人に向き直ると深々と頭を下げた。
「私…最低なことをしました。コレットさんは私に新しい道を作ってくれたのに。私はそれを裏切って、お二人を踏み台にしようとしていたんです。自分の為だけに…!この行為は何度謝罪しても―――うわぁ…!」
ラティファは必死に謝罪の言葉を述べるが、それは最後まで続けることはできなかった。コレットが言葉を遮るようにしてラティファに抱き着いたためだ。
「コレット…さん…?」
「そんなことなんでどうでもいいよ!よかった…!生きていて…本当によかった…!!」
コレットは涙を浮かべながらラティファの胸に顔を埋める。
ラティファは戸惑うものの、コレットを抱きしめ返す。自分とは全く関係ない赤の他人であるはずのラティファに対しても本気で涙を流してくれているコレットにラティファは久しく忘れていた感覚を思い出した。
愛情を向けられているということがこれほどまでに温かく、心地よいものだったということを。
ラティファは無意識のうちに目尻に溜まっていた涙を拭い、幸せを噛み締めるようにコレットの小さな体を強く抱きしめ続けた。
長くなりそうだったので分けることにしました!
いよいよ第一章も残すところあと2話になると思います!
今月中には投稿できるように頑張ります…!
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