11話「凍てつく心」
「動かないで」
女性の声だった。
発せられた言葉は短い一言だけであったが、その一言はラティファを恐怖に陥れるのには充分なほど冷徹で、ラティファの背筋を凍らせた。
その言葉に遅れて、初めて何者かの気配がすぐ近くに迫っていたことにラティファは気づいた。声が聞こえる前までは何の違和感もなかったはずの背後には「圧倒的」という言葉すら霞んで見えるほどの重圧がラティファを押しつぶさんとしている。
「っ…!」
反射的に叫びそうになったところでラティファの口を覆うように塞がれる。
間髪入れずにラティファの首元に鋭い何かが触れた。
それがラティファに話しかける何者かの手から伸びた鋭利に伸びた爪であると気づくには大して時間はかからなかった。
「騒いだら…わかるわよね」
ラティファのか細い首筋を撫でるように爪が上下する。
その意味が分からないほどラティファは鈍感ではない。万が一にでも他の団員に気づかれるようなことをすれば、この爪はすぐにでも皮膚を突き破り、ラティファの命を奪い去るだろう。
「せっかく帰ってきた家を血で汚すのは嫌なのよ。あまり手荒な真似はさせないで頂戴ね」
その言葉にこたえるようにラティファは頭を小刻みに上下させる。
「ふふっ、偉い子ね」
言葉と共にラティファの身体は解放されたが、依然として状況は変わっていない。戦闘力など皆無なラティファなど、やろうとすれば一瞬で屠れるのだから。
ほんの数回のやり取りからでも感じる圧倒的な力量。薪のない暖炉や巨大な氷塊などの人知を超えているであろう部屋の内装。その要素の一つ一つがラティファを一つの結論へとたどり着かせる。
「あなたが…10年前の…」
「ふぅん…私の事を追う黒い髪の人間…なるほどね」
はっきりとは答えはしなかったが、それは明確な肯定だった。
今、自分の目の前にいる女性こそ長年ラティファが、否、人間が追い続けてきた魔族の正体、フローラであった。
その魔族は自分を品定めをするかのように視線を向けている。
「どうしてここに…」
いままでどこにいるのかもわからなかった魔族がどうしていまになってここにいるのか。
いまさらこんな村になんの目的があるのか。正体が分かってなお疑問が尽きない相手であったが、舐るような視線がラティファの言葉を詰まらせる。
「単なる偶然よ。ここには滅多に人が来ないと耳にしたからね、しばらく住んでいようかなと思っただけ。でも早々に貴女に見つかってしまったのは…少々想定外ではあったかもしれないわね」
束ねた藍色の髪先を指でいじるフローラの感情はラティファには感じ取ることができなかった。
見つかってしまったことに対する不機嫌か、そんなことなど気にも留めてもいない余裕か。
仕草や、表情は見られるにもかかわらず、全く変わらない彼女の無機質な声が、それらの要素とは釣り合っていない。
表現をするならば不気味という言葉が最も適した存在だった。
「…残念ですが、あなたがことにいることはすぐに人間に伝わります」
それでもラティファは精一杯の虚勢を張り付け、目の前の存在にそう告げる。このまま何もしなければ自分を待ち受ける未来は一つしかない。
「私を逃せば、当然ここで見た情報は国に報告させてもらいます。もし私を殺しても、私が国に戻らなかったことで、すぐさまこの村に本格的な調査が行われます。どちらの選択をとっても待ち受ける先は同じです」
だから、自分を殺す意味はない。ラティファの発言は見方を変えれば命乞いでしかないものだった。
ラティファはこちらを静かに見下ろす瞳をじっと見つめる。真紅の眼差しはすべてを見通すかのような鋭い圧を放っていた。しかし、ラティファは絶対にその瞳から目を逸らそうとはしなかった。
生き残るためには、なんとしてでも自分を強く見せる必要があった。せめて話を聞くに足る者であると示すために。
視線が交錯する時間は永遠にも似た長さに感じられた。
しばしの睨み合いが続いた後、フローラの発した何かを含んだ笑みによって二人の時間が動き出した。
「あら、案外威勢がいいのね、そういうのは嫌いではないわ。でも残念、貴女の思っている通りにはならないの」
相変わらずの無機質な声。その発言はラティファの命乞いを聞き届けても変化することはなかった。
ラティファに絶望という単語が浮かびそうになっていた時、続いた言葉もまた、ラティファの予想とは異なっていた。
「貴女を殺しはしないし、貴女をこのまま逃がすこともしない」
ラティファの考えていた二つの結末があっさりと否定される。
「貴女を私の、いえ…私達のものにするの」
信じていいのかはわからないが、殺されはしないと聞いてラティファは安堵していた。しかし、宣言されたもう一つの結末はラティファの心を再び不安で覆った。
「何を言って…」
何をするつもりなのか、"私達"とは誰の事を言っているのか、次々に発生する疑問にラティファの思考が一瞬止まった時、答えを見せてあげると言わんばかりにフローラの瞳が妖しく光った。
その光は真紅の瞳とは真逆な青白い光だった。得体のしれないものは見るべきではない、と脳は警告しているが、突然のことで直視してしまったラティファはその光に魅了されるようにじっと見つめてしまう。
(きれいな光…)
見ているだけで温かさを感じるそれは、自分の全てを肯定しているようにラティファのことを包み込んでいく。死と隣り合わせの状況だというのに心にはなぜか、安心感が沸々と湧きだしていた。
「でも、このまま連れて行くのはあの子の望むところではないでしょうね」
優美なフローラの手にラティファの頬が撫でられる。まるで愛玩動物に対する行為かのように、フローラは少女の麗しい肌をなぞる。
それに対してラティファは嫌悪感を示さなかった。ラティファの心にあるのは一転した安心感と、空色の光をずっと見ていたいという気持ちだけだった。
「だから、今日は一つだけ鎖を打ち込むだけにしていてあげる」
フローラの澄んだ声が今度はラティファの傍で発せられる。さっきまで小さく震えていたラティファは目の前に魔族の顔が近づいてきても気にしている様子はなかった。それどころか、虜となった光を見れることに喜びすら感じている。
「『貴方はここで起きたことを他人に伝えてはいけない。聞かれても"問題ありませんでした"と答えなさい』」
子供を教え導く母親のように、無機質だった声は慈愛に満ちたものに変化していた。
「はい…」
命令というよりも、教育に近い言葉をラティファの心は抵抗を示すこともなく受け入れていく。
「やはりいい子ね」
「あ…」
ラティファとの距離が再び離されたことに、少女は名残惜しそうな反応を示す。
「じゃあ、目覚めなさい」
空色の光が収められると、それに伴いラティファの心も平常なものへと戻ってくる。
「今…何をしたのですか」
光の魅了から解放されたラティファには何かをされたという記憶があるが、その内容はまるで覚えていない。しかし、不思議と悪い気分ではなかった。
心なしか相対する魔族の女性に対して感じていた恐怖も薄れているのを感じる。
「少し混乱して忘れているだけよ。それよりも貴女、純粋な心をしているのね。その心、あの子が気に入るのも頷けるわ」
再び姿を見せる、もう一人の存在。その影は覚醒してきたラティファの思考に再び疑問符が浮かび上がらせる。
「"あの子"とは誰なんですか?10年前の事件はあなた一人の仕業ではなかったのですか?」
「…貴女に一つ選択肢を与えてあげる。次は"貴女一人で"ここに来なさい。そうすれば教えてあげる。私の目的、あの子について。あなたの知りたいことなら私の知る限りのことを教えてあげる」
しかしラティファの疑問に答えは返ってこなかった。魔族の女性はその代わりに持ち掛けられた条件の説明を続ける。
「私を信用できないのであれば、もちろん来ないというのも選択肢の一つよ。でもそうすれば貴女の望むものは一生手に入らない」
フローラはあえてそう伝える。能力ではなく、言葉で。ラティファの心を乱すために。
「これで話は終わり。もう行きなさい。これ以上は時間の無駄よ」
魔族の女性が手をかざすと、背後から物音がした。振り返ってみると閉じていた家の扉が開いており、暗かった部屋をわずかに明るくしている。
視線を戻すともう彼女はいなかった。まだ家のどこかにいるのか、それともどこか別の場所に言っているのか。それを知るすべはラティファにはなかった。
人目が無くなったからと言っても、これ以上この家を調べる気にはならなかったラティファは先ほどの言葉に素直に従う形で民家を後にしたのだった。
大変投稿が遅れまして申し訳ございません!
しばらくは週1が目標になるかと思われます…!
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