38話 田中・イス・斬九は、ヒーローの夢を見ない。
38話 田中・イス・斬九は、ヒーローの夢を見ない。
(彼がいれば……)
頭の中で、『彼』のことを思い出すサーナ。
(……人類のメシア『ドーキガン・ザナルキア』が、この場にいてくれれば……っ)
別格の力を持つ勇者。
サーナは、自分に自信を持っているが、
しかし、ドーキガンにだけは絶対に勝てないと理解している。
ドーキガンに勝てる者は存在しないと確信している。
南大陸全土を支配している強大な魔王ゾメガ・オルゴレアムでも、
ドーキガンにだけは絶対にかなわないと心から盲信している。
この盲信は、サーナだけの特別ではない。
この場にいる全員が思っている。
人類側に立つ者の中で、ドーキガンが世界最強であることを疑う者は存在しない。
それは、『祈り』に近い盲信だった。
真実かどうかはどうでもいい。
そうでなくては困るという懇願だった。
(ドーキガンがこの場にいれば、きっと、この程度の問題は、サクっと解決してもらえるのに……)
サーナがそう思っている以上に、
メシアを渇望しているのは、やはり、最前線で殺され続けているレバーデイン。
(……たすけてくれ……メシアよ……たのむ……)
絶望の底に沈んでいる時、
人は、『奇跡のごとき救い』を求めてしまう。
この場にいない勇者にすがりつく。
その行為にいったい、何の意味があるというのか。
助けてくれる者がいないなら、自分でどうにかしないといけない――それが命の摂理。
けれど、絶望の底に沈むと、そんな当たり前を忘れて、希望的観測の救いにすがりつく。
「たすっ……助けてくれ! ドーキガン!! 金なら払う! だから、どうか!」
天に向かって、大声で、叫ぶ。
『もしかしたら、救いの声に反応してくれるのではないか』と、
そんな淡い夢をみながら。
これが、おとぎ話であったならば、
確かに、ここで、ドーキガンが華麗に登場する、という可能性もあるだろう。
しかし、現実はいつだって、哀しいぐらい無慈悲。
「たのむ……ドーキガン……人類の救世主よ……たのむぅ!」
――『勇者が颯爽と救いにきてくれる』という奇跡に、全力ですがりつく。
今の、レバーデインの頭には、もうそれしかない。
周囲にいる連中は使えない。
自分も使い物にならない。
だから、奇跡にすがる。
救世主の登場にかける。
――それしか方法がないから。
そんな、あまりにも無様なレバーデインの様子を尻目に、
ザンクは、
(ジャ○プ漫画や特撮映画やあるまいし、都合よく、ピンチにかけつけてくれるヒーローなんかおってたまるか。人生ナメんなよ、ぼけぇ)
と、持論を心の中で展開していく。
ザンクは、これまでの人生の中で、ヒーローの登場を夢見たことは一度もない。
『どうあがいても自力ではどうにも出来ない困難』を前にした時は『潔く死ねばいい』と考えているから。
『自分に出来る範囲』で精一杯、必死にもがいて、しかし『それでも死んでしまう』という状況に陥ったのであれば、それは、もはや、そういう運命だったのだと認めて死ぬ。
それが『命の在るべき姿である』という人生観。
おざなりの諦観などではなく、純粋な哲学。




