─姉の話②─
小説内では書き切れなかった補足です。
クロエは婚姻前に、運べていなかった自分の荷物(主に本)を取りに屋敷に来ました。
マチルダは客間へと通された。
心なしか、ここへ来るまで見た庭先も玄関ホールも、自分がいた頃に比べ綺麗になっているような気がする。
テーブルを挟んで自分の前に座るクロエへと目を向ける。
着ているドレスも、身につけているアクセサリーもはじめて見た。自分が屋敷を出た後に買ったのだろうか?
いや、一目見て分かる、質の良い品があるものだ。
貧乏貴族の我が家では中々買えないものだろうに。
それと同時に、マチルダは疑問に思った。
何故わたしはきらびやかなドレスを着ていないのだろう。
何故わたしはネックスのひとつも身につけていないのだろう。
何故何故何故。
自然と眉間に皺が寄るのを感じる。
いやいや、これでは淑女失格だ。マチルダは静かに息を吸い込み、自分の心を落ち着かせた。
「─ところで、お姉様?」
「なにかしら?」
「今日はこちらへ何しに来られたの?」
クロエが音を立てずにカップをソーサーに置く。
マチルダを見るその視線は心なしか鋭い。
「わたくし、思ったのよ。
わたくしが使用人と同じ仕事をしているのも、こんな地味なワンピースを着ているのも、アクセサリーのひとつも身につけていないのもおかしいと」
「………それで?」
「この家を出たとき、荷物を少ししか持って行かなったでしょう?だから、わたくしの物を取りに来たのよ。
それに、お父様お母様、そしてクロエも寂しがっているかと思って」
マチルダは「ふふっ」と微笑む。
「あら、この紅茶美味しいわね」と一言添えて。
「─お姉様は何か勘違いしてらっしゃるわ」
「え?」
「お姉様の物は何一つこの家にございません」
「クロエ、なにを…」
「それに…。
お姉様…いいえ、マチルダさん。
あなたはもう侯爵家の人間ではございません」
わたくしの物がない?
それに、わたくしが侯爵家の人間ではない?
クロエの言葉がひとつも理解ができない。
目の前のこの妹は一体何を言っているのか。
「マチルダさん、自分がしたことをお忘れですか?」
「わたくしがしたこと…?」
「ええ。
婚約者がいながら不貞をはたらき、置き手紙ひとつでこの家を駆け落ち同然に出て行ったことをお忘れですか?」
忘れてなどいない。
マチルダは自分の愛を守る為に、この家を出た。
しかし、ただそれだけではないか。
「そんなこと…」
「そんなこと?おね─マチルダさんはあの婚約がどういったものか。残された侯爵家の人間がどんなことを言われるのか。幾ら慰謝料が発生するのか。
そして、マティアス様のお心がどれだけ傷つくのか。
マチルダさんは分かっていらっしゃらないの!?」
いきなりの大声にビクッと体を動く。
クロエの剣幕に一瞬たじろぐが、すぐ反撃に出た。
「クロエは、わたくしにあの化物と結婚しろというの!?愛もないのに!?」
マチルダは以前婚約者であった男─、マティアス・デュマを思い出す。
彼の顔左半分ほどを占める赤い痣のようなものに覆われた、あの顔。
愛のない結婚は嫌であったし、何よりあの顔は何度見ても受け入れることができなかったのだ。
「それが貴族というものです!それに、マティアス様は化物ではございません!」
しかし、クロエはそれを否定する。
それにマチルダは憤激した。
クロエのくせに、自分の意見に反抗するなんて。
「あ─「そこまでだ」
一発引っ叩いてやろうと、勢いをつけて席を立ったそのとき、叫びに近いその声を、低く怒気を含んだ声が遮った。
「マティアス様!」
「クロエ、すまない。ひとりにしてしまって」
─マティアス?
怒りのあまり気が付かなかったが、扉を開けてすぐそこに、何度見ても受け入れることができなかった、婚約者であったその男が立っていた。
「いいえ、急な商談は仕方のないことですもの」
クロエは横に首を振る。
使用人が扉を閉めると、マティアスはクロエの隣に並び、顔をこちへと向けた。
「久しぶりの場で申し訳ないが、君には帰ってもらう」
「どうして?」
「…どうして?
君は先程クロエから聞かなかった?マチルダ殿、あなたはもうここの人間ではない」
「商人風情がわたくしに出て行けと…?
それにあなた…随分とクロエと親密なご様子だけれど?」
ふんっと鼻を鳴らす。
元婚約者如きのマティアスまで何を言っているのか。
「ああ、言うのを忘れていた。
─今、わたしはクロエの婚約者だ」
「こんやくしゃ…?」
「ええ。お─マチルダさんが出て行ったあの後、わたくしとマティアス様で再度婚約を結び直したのよ」
「そう。だから、今はまだ侯爵位はクロエのお父上にあるが、いつかそれをわたしが継ぐ。
分かったかい?分かったなら、もう─」
一歩もその場から動こうとしないマチルダの腕をマティアスが掴んだ。
瞬間、マチルダはパンッと音がするほどの強さでその腕を払った。
「触らないで!汚らわしい!
あなたのような男が、わたくしに触れるなんて…!」
「汚らわしい…?」
「そうよ!こんな顔の男!汚らわしいわ!」
マチルダはマティアスに掴まれた腕を、もう片方の腕で掴む。
すると、クロエの眉毛がピクッと動いた。
それに気づかず、マチルダはマティアスへの暴言を続ける。
「そう…。なら、もうあなたの手も汚れてしまったわね」
クロエの声が怒りで震える。
途端、クロエはテーブルの中央にある花瓶を掴むと勢いよく立ち上がり、差してある花ごと水をマチルダに浴びせた。
「…汚れたのなら、洗わないとね」
空になった花瓶を微笑んで抱きしめるクロエ。
そして、スッとその表情を冷たいものに変えた。
「マティアス様は綺麗なお方よ。少なくとも、あなたなんかよりはね。
さ、お帰りになって」
マチルダもマティアスも何が起こったのか理解に遅れた。
しかし、使用人の男たちだけは素早くそれに反応した。
二人がかりでマチルダの体を掴むと、抵抗するのも構わず、客間、そして屋敷から彼女を追い出した。
その間中ずっと叫び続けるマチルダの声は、段々と小さくなり、やがて聞こえなくなった。
クロエはそれを確認すると、花瓶を抱きしめたままマティアスと向かい合う。
「…ごめんなさい」
「そうだね。君のしたことは褒められたことではない。
だけど、嬉しかったよ。わたしの為に怒ってくれたんだろう?ありがとう」
「マティアス様は素敵な方だわ。お姉様と言えど、あんな風に言われてわたくし許せなかったの」
淑女としては、おかしな─花瓶を抱きしめ口を尖らす─彼女をマティアスは見つめる。
自分の為に自身の姉に怒りをぶつけたクロエを、本心から嬉しいと思う。
そして、クロエが唯一そう思ってくれているからこそ、自分のこの痣も悪いものではないと思えた。
マティアスは笑みを深めると、目の前のどうしようもなく愛しい婚約者を抱きしめた。
「お部屋を汚してごめんなさい」
「いいんです!スカッとしましたから!」
※ご両親は元々マチルダを家に入れるつもりはなかったので、門番が父親に確認したところで追い返すつもりでいました。
ただ、そのままクロエが招き入れたので、クロエの責任として対応を全て任せました。