─後日②─
───おかしい。
クロエの想像では、マティアスは温かな笑みを浮かべてくれる筈であった。
しかし、目の前の彼はしかめ面である。
封を開けるまではよかった。
渡したとき、「君から?」とマティアスは頬を染め、「ありがとう」と嬉しそうな表情をしてくれたから。今となってはクロエがそう思いたいからそう見えただけかもしれないと不安になってしまう。
封を開け、ハンカチーフの刺繍を見たマティアスに、クロエは「わたくしが刺繍をしたの」と恥ずかしそうに告げた。
お世辞にも上手だとは言えない出来になってしまったが、それでも気持ちは込めた。
マティアスから受け取るばかりで一方通行のままだと悲しいと思うほど、クロエはマティアスに感謝している。
愛とか恋とか、まだそういったものはよく分からないが、自分がリボンを貰って嬉しかったときのように、マティアスにも同じ気持ちをもってもらいたい。自分ができることで、マティアスに喜んでもらいたい。
しかし、そう告げたクロエとハンカチーフに交互に視線を移すと、マティアスは顔をしかめたのだ。
手を上げ走り回りはしゃぐマティアスは嫌だが、こんな顔を見るくらいなら、その方がマシだと思った。
クロエはマティアスに渡したことを後悔した。やはり、自分の不出来さを受け入れ、刺繍を入れることをしなければよかったと。
ジゼルの手伝いも好意も無駄にしてしまった気分で、自分が惨めで情けなくて泣きたくなる。
そんなクロエの表情を見たマティアスはハッと気付き、慌てるあまり少しばかり強い力で「違うんだ!」とクロエの両肩を掴んだ。
「っ」
「すまない!」
痛さに顔を歪めたクロエに、またも慌てて手を離す。
「誤解させてしまったのなら、申し訳ない」
「…わたくしの刺繍があまりにも不格好だから、不満を持ったのではないの?」
「いや。そうではない」
きっぱりと否定したマティアスに、クロエは少しばかり安堵するも、では何故あんなしかめ面をしたのかと疑問に思った。
「君が…クロエ嬢がわたしのためにとしてくれたことは、とても嬉しく思う」
「そうは見えなかったわ」
眉を八の字に下げ涙を溜めるクロエに、マティアスは再度「申し訳ない」と謝罪した。
「わたしのせいでクロエ嬢の綺麗な手に傷がついたと思うと、自分が許せないんだ」
クロエはそっと自分の指に目線を移す。針が出る位置が把握できず、何度も自分の指を刺したせいで軽い傷ができ、今も膏薬を貼っている状態だ。
しかし、それはクロエの不慣れさや壊滅的な不器用さのせいであって、マティアスのせいではない。
「そんなこと─「そんなことくらいではない。わたしはわたしで君を大切にしたいし、君も君を大切にしてほしいんだ」
指の傷ひとつくらいでなんて大袈裟な、と思わないでもなかったが、そのマティアスの気持ちは嬉しい。
「それは、わたくしが婚約者だから?」
それとも、何かあっては、そんな簡単に自分のような代わりはすぐ見つからないから?
「違う。勿論、君は婚約者であり妻となる人間だ。尊重し、大切にしたいと思う。しかし、それとは別に、クロエ嬢だからこそ、わたしはそんなこと関係なしに、君を大切にしたいと思っているんだ」
マティアスは婚約者となってはじめての顔合わせで言った。君でよかったと。
しかし、今はクロエじゃなきゃ駄目だと、クロエの代わりなんていないと、そう思っている。
顔左半分を覆う痣に対するコンプレックスは消えることはないし、20年近く生きようが、浴びせられる言葉の鋭さに、囁く声に痛む胸に慣れることはない。
でも、今はクロエがいる。
一緒に過ごし始めてすぐに「もう慣れたわ」とケロリとしているクロエ。
「わたくしのこの跳ねる前髪の方が憎いわ」と口を尖らせながら髪をつまむクロエ。
「みなさん勿体ないことしてるわね。この整った顔に気づかないなんて」と笑うクロエ。
そんな彼女に何度胸の棘を抜いてもらえたか。
クロエは一方通行だと思い込んでいるが、そうではない。
学校卒業後は、嫌でも仕事の手伝いをしなければいけない。それに、クロエは姉の代わりだと、無理矢理この婚約を結ばされた。元々この商会に積極的に携わる予定ではなかったのだ。
だからこそ、学生である僅かばかりの期間だけでも、クロエには何も気にしないでいてほしかったのだ。
「すまない。話が大きくなってしまった」
「いえ…その、嬉しいですわ」
マティアスの気持ちや考えを知り、クロエはまたもマティアスに贈り物を貰った気分である。
そして、自分は何もできてないと思い込んでしまっていたが、自分もマティアスに与えられていたのだ。
それが、とても嬉しい。
「改めて…。クロエ嬢、わたしの為にありがとう。こんな嬉しい贈り物を貰ったのは生まれてはじめてだ」
自身の名前が刺繍されたハンカチーフを撫でながら、マティアスはクロエの想像通り、温かな笑みを浮かべた。
「でも、刺繍をするのはもうやめるわね」
「それは駄目だ!」
〜後日、指ぬきをクロエに贈るマティアスであった〜