後
クロエとマティアスとの顔合わせは驚くほど早くやってきた。
─クロエの引っ越しと共に。
元々マティアスと姉マチルダは一ヶ月後婚姻を控えていた。その為、ふたりで住むための屋敷があり、各部屋の準備は勿論のこと、使用人たちも雇っている。
しかし、まさか婚約期間中に一緒に住むことになるとは。
そして、婚約後初の顔合わせがこんな形だとは。
クロエは馬車に揺られながら、そっとため息を飲み込んだ。
半刻ほどの短い時間揺られた頃、馬車が止まった。
クロエが馬車から降りようとしたとき、エスコートの為に差し出されている手に気づいた。
「こんにちは。クロエ嬢」
なんとなく聞き覚えのある、優しい低音。
そして、はっと手から彼の顔へと視線を向けたとき、真っ先に視界に映る、顔左半分の赤い痣。
姉マチルダの元婚約者であり、今はクロエの婚約者となったマティアスだ。
まさか、こんなにも早く迎えられるとは思わず、クロエは間抜けな顔をこれ以上晒さぬよう、慌てて取り繕った笑みを浮かべ、マティアスの手をとった。
「こんにちは。マティアス様、エスコートありがとうございます」
マティアスは頷くと、屋敷へと歩き始めた。
綺麗なお庭だわ。
目線だけをきょろきょろと動かして、屋敷までの道の両端に整えられた花々を堪能する。
身長差があるので、勿論歩幅も違う。更に、クロエは顔こそ動かしてないものの、気持ちは完全に美しい花々に持って行かれているので、気づかぬ内に普段よりも歩みが遅くなってしまっていた。
それでも、マティアスは急かすことなく、クロエに合わせて、ゆっくりとエスコートをしてくれた。
どうぞ、と開けられたドアから中に入ると、玄関ホールには数人の使用人が並んでクロエたちを待っていた。
執事、侍女、料理人、庭師。
事情を知ってるであろうに、皆ニコニコと笑顔を浮かべてクロエを歓迎をしてくれた。
クロエはその温かな雰囲気にそっと胸を撫で下ろす。
その中から一人、専属の侍女マノンがマティアスと共に屋敷を案内してくれることになった。
応接間、食堂、調理場、庭、そしてクロエの部屋、ふたりの寝室。
小さい屋敷ながらも、どの部屋も綺麗な内装で上品さを感じられる空間になっている。
しかし、クロエは自身の部屋へ案内された辺りから、眉間に皺を寄せ、少しばかり難しい顔をしていた。
そして、夕食をふたりで食べ、湯浴みを終えたクロエは自身の部屋のベッドに腰をかけ部屋を眺めていた。
どれも品のいい、センスのある調度品ばかりだけど…。
と、クロエは益々眉間に皺を寄せる。
そこへ、小さくドアをノックする音が聞こえた。クロエは素早く立ち上がると、マノンだろうと決めつけ、相手を確認することなく、部屋のドアを開けた。
「!」
予想に反し、そこに立っていたのはマティアスだった。
「こんばんは。どうしたのかしら?」
クロエは驚きを隠しながら、半年後には夫婦になるからいいのかしらね。とドアを閉めて、部屋のソファにマティアスを招いた。
飲み物だけでも用意してもらうかと、クロエがベルを手に取ったのを、マティアスが手で制す。
「すぐ終わる」
クロエが頷いたのを確認すると、マティアスはぐっとこぶしを握りしめ、話を始めた。
「君も…やはり不満なのか?」
君もというのが気になったがひとまず置いておく。父親のときにも思ったが、この状況に不満を覚えない人間がいるのなら連れて来てほしいくらいだ。
どうしようか、と少し迷ったクロエであったが、これから夫婦となる相手だ。この際、正直に話してしまおうと、口を開いた。
「不満ならあるわ」
「…そうか」
マティアスは無意識に握ったこぶしに更に力を込め、口を一文字に結ぶ。
「わたくしはわたくしとして望まれたかった!」
「…え?」
想像していた返答と違ったのか、マティアスはポカン、と口を開けて思わず間抜けな顔をする。
「お庭も、この部屋も、マチルダ姉様の好みにピッタリ合っているわ!わたくしは姉の代わりだと、もしロワイエ家に他に姉妹がいたのなら、わたくしでなくてもいいと、そう突きつけられたような思いです」
「それは…すまない」
「いえ、今回のことはこちらに非があることですので、マティアス様が謝ることではございません。ただ、わたくしを望まれなかったことが悲しいのです…」
クロエとマティアス、ふたりの婚約が決まってすぐの引っ越しだったので、部屋の内装などがそのままなのは仕方ない。余分なお金を使わせてしまうのも申し訳ない。
理解していても、乙女心は複雑なのだ。
「君は…」
「はい」
「わたし自身に不満があるわけではないのだな?」
「マティアス様に?」
クロエはきょとんとした顔で、首を傾げた。
わざわざ馬車からエスコートしてくれ、屋敷も一緒に案内し、クロエを優しくもてなしてくれたマティアスに、今のところ不満を覚える箇所なんてひとつも見当たらない。
「その…君の姉は…。いや、姉だけではなく、皆この顔を見ると目を逸らし顔をしかめる」
「あら、そんなこと」
そんなこと。またも、マティアスは想像していた返答と違う答えが返ってきたことに驚いた。
「わたくしだって人間ですもの。そりゃ、驚きはしたわ」
「…」
「マティアス様は、勿論わたくしの父にお会いしたことございますわよね?」
「…?…あ、ああ」
「わたくしの父はちょっとばかし髪が薄くて、ちょっとばかし余分なお肉がついてるけれど、あれだって見慣れたら可愛いものだわ」
その言葉にマティアスの開いた口は塞がらず、間抜けな顔をし続ける。
「わたくしたち、夫婦になるのでしょう?」
「…ああ」
そして、少し顔を赤く染める。
「毎日過ごしていく内に、それっぽっちでは驚かなくなるくらい見慣れてしまうわ」
「それっぽっち…」
「髪が薄くて余分なお肉がついてることに比べたら、それっぽっちよ」
「…くく、そうか」
内心、父親の容姿に少しばかりの不満があるのか、肩をすくめながらそう言うクロエに、マティアスはクロエの前で初めて声を上げて笑った。
クロエはマティアスの笑顔に一瞬見惚れ呆けるも、慌てて口を開いた。
「マティアス様はこの結婚に、わたくしに不満はないの?」
「ない」
マティアスの即答に、今度はクロエがポカン、と口を開けて間抜けな顔をした。
「…わたしは婚約者が、妻となる人間が、あなたでよかったと思ってる」
「……あら、そう。……でしたら、わたくしにも不満なんてないわね」
クロエが顔を赤く染めながら微笑むと、マティアスもそれに優しく温かな笑みを返した。