前
誤字脱字報告ありがとうございます。
その日、ロワイエ侯爵家の次女クロエは激怒していた。
姉、マチルダが手紙ひとつ残して失踪したからだ。
真実の愛に目覚めました。
彼と幸せになります。
そう書かれていた手紙を両手で握り潰してしまったのは仕方のないことだろう。むしろ、破り捨てなかったのだから褒めてほしいくらいだ。
二十歳を超えた、成人した女性が書いたものがこれか?と痛くなる頭を抱える。
真実の愛。恐らく、相手は今朝から姿の見えない庭師の男だろう。
この際、相手はどうでもいい。いや。よくはない。
マチルダは一ヶ月後に婚姻を控えていたのだから─。
醜聞。慰謝料。慰謝料。慰謝料。慰謝料。慰謝料。
ロワイエ家は歴史が長いだけの名ばかりの侯爵家で、はっきり言ってしまうと、貧乏だ。
マチルダの婚約者である(あった)マティアスの家は、商人上がりの男爵家と、貴族の中では位は低いものの、商才が認められ爵位が与えられたほどであり、下手な貴族たちよりもお金はあった。
お金が欲しい侯爵家と上位の貴族との繋がりが欲しい男爵家。分かりやすい政略結婚である。
そう言えば、姉のマチルダは愛のない結婚は嫌だとよくぼやいていた。
そして、何より婚約者の顔が受け入れられないと。
マティアス・デュマ。
クロエは数えるほどしか顔を合わせたことがない、姉の婚約者だった男の顔を思い浮かべる。
確か、髪は鳶色のショートレイヤー。目は羨ましいくらいのくっきり二重で、深く渋い茶色だ。鼻は高すぎず低すぎず、唇は薄く、中性的な整った顔立ちをしている。
しかし、十中八九、いやそれ以上。彼とはじめて顔を合わせた人は、髪より目より鼻より口より、彼の顔左半分ほどを占める赤い痣のようなものに目を奪われ、そしてそっと目を逸らす。
クロエもマティアスとはじめて会ったときは驚いた。そしてそれに気づいたマティアスの方が、先にクロエから目を逸らしたのだ。
それから、マティアスと目と目が合わさったことはない。
マティアスへと移った思考は、大袈裟なほどに大きな音を立ててドアを開いた父親によって引き戻された。
「お父さ─「クロエ!お前の婚約が決まった!」
抗議しようと発した言葉は父親によって遮られた。
まったく、とため息をひとつつこうとして、そこでクロエは、はたと止まる。
今、お父様は何と言った?わたくしの婚約が決まったと言ったのかしら?
いや、きっと幻聴だ。こんなときに、自分の婚約を決めるだなんて、きっとそんなことはしないはずだと、そう自分に言い聞かせる。
「相手は、マティアス・デュマだ!」
お願いだから、幻聴であってくれ。
そう願わずにはいられない父親の発言に、クロエは両手で握り潰していた紙を思わずふたつに裂いてしまった。
読めるのでセーフだ。
「冗談、ですよね?」
「いいや!自分は婿入りする身だからと─「ロワイエ家なら誰でもいいと、そう仰ったのですか?」
「ああ、そうだ」
今度はクロエが父親の発言を遮った。
ロワイエ家なら誰でもいい。マティアスも、マチルダには愛情はなかったのだろうか。
しかし─
「学校は、学校はどうなるのです?」
今、クロエは半年後に卒業を控えている学生である。
ロワイエ家はマチルダとクロエのニ人しか子供がおらず、マチルダが婿を迎え、その婿が侯爵家の跡を継ぐことが決まっていた。
家が貧乏であることを知っていたので、マティアスとマチルダの婚約が決まる前から─決まった後も─、クロエは卒業後のことを考え、勉学に励んでいるのだ。
結婚するのであれば、このまま通い続けるのは難しいのかもしれない。
折角、学ぶ楽しさもようやく知れて、気心知れる友人もできたのに。あと半年。たった半年なのに─。
そんなクロエの焦りが伝わったのか、
「落ち着きなさい。まだ婚約だ」
父親はため息をつきながら、手のひらをクロエに向けた。
その意図を理解したクロエは、その手のひらに、握り潰し、ふたつに裂いたマチルダの置き手紙を乗せた。
「まあ…。婚約、と言っても卒業後すぐに婚姻を結ぶことにはなるがな」
「………」
「先方は、この条件で慰謝料もマチルダとの婚姻準備の費用も請求しないと、お咎めなしだと言ってくださったんだ」
「………」
「なんだ。不満か?」
不満に決まっている。むしろ、この状況に不満を覚えない人間がいるのなら連れて来てほしいくらいだ。
「いいな、クロエ。これは決定事項だ」
「分かりました」
クロエは大声をあげたい気持ちをぐっと堪え、ただこぶしを握りしめた。