十章③
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マリンローズとフレースヴェルグ公爵が失踪してから、数週間が過ぎた。
ベオウルフ公国からの吉報は未だ届かない。王宮魔術師長と王国随一の魔法士の突然の失踪。しかも、両者は社交界に波乱を巻き起こしている大物カップルだ。いくら取り締まれど噂は尽きず、緘口令など意味をなさなくなっている。
今、シルヴィアが軽食と茶器を乗せたワゴンを押して宮廷内を進む間だけでも、十二組もの人間が陰言を囁いていた。
あとで一人残らず吊し上げなければと、ワゴンの取手を握り絞めて前を向く。
恨まれても良い。自分にできる最善を尽くすだけだ。こうやってレオンハルトの元に食事を運ぶのも、女官が運んで追い返されてしまっては意味がないからだ。だから、どんな陰言を叩かれようが自分が運ぶ。
(ーーそこの文官たち。公爵家はこの期に王子を毒殺する気なのかですって? 顔を覚えましたわ。今月の給与査定を楽しみにしておくことですわね!)
内心で悪い笑みを浮かべながら、シルヴィアは目的の執務室の前で足を止めた。見張りの兵が来訪を告げ、扉を開く。
レオンハルトは黙々と執務机に向かっていたが、訪れたシルヴィアに気づいて視線をあげた。
「……ありがとう。食事はそこに置いておいてください」
「駄目です。そう言って少しも口をつけないではないですか。食べなければ身体を壊しますわよ」
「そうですね……」
レオンハルトは生返事を返すだけで、また視線を手元の書類に戻してしまった。夏休みが終わり、学園の授業は代行教師を立てて始まったが、レオンハルトは執務仕事を理由に一度も出席していない。
マリンローズがいた頃とは大違いだ。彼が本気になれば、このくらいの執務はあっという間に終わるはずなのにと、シルヴィアは嘆息を落とす。
だが、今は文句を言っている場合ではないと、本題を切り出した。
「マリンローズ先生が失踪したという噂が、アンジェリカの耳に入りましたわ」
「……っ! そう、ですか。宮廷に滞在する以上、遅かれ早かれとは思っていましたが……彼女の様子はどうですか?」
「とても動揺しておりましたわ。どうしてもっと早く言ってくれなかったのかと、泣き出してしまって……今、プリシラ姫が側についてくださっています」
「……そうですか。気遣ったつもりが、裏目に出てしまいましたね」
「間違ったことはしておられませんわ。産後の女性に不安を与えるわけにはいきませんもの。それに、マリンローズ先生が拐われたのなら、弟子である彼女も狙われる可能性は充分にあります。今は宮廷内で保護するべきですわ」
「間違っていない……本当に、そうでしょうか?」
「レオンハルト様?」
「臣下たちによれば、私には合理性を求めるあまり、人心を軽んじる悪癖があるそうですよ。マリンローズ先生と公爵が失踪したのは、そんな私を見限ったから……自分たちが仕えるに相応しい王を求めて国を離れたのだと」
レオンハルトは執務机から立ち上がり、感情のこもらない瞳で窓の外を見つめる。
言葉は、不自然なほど淡々としていた。
生まれたときから次期王として育てられてきた彼は、激しい感情を他人にぶつけることを戒められてきた。だから、本当に悲しいときや、身が震えるほどの憤りを感じたときは、無理矢理に抑制することで聖獣に助けを求めるのだ。
魔力の高まりとともに、レオンハルトの周囲に可視化した炎が燃え盛るのに気がついたシルヴィアは、彼に近づき、その背中を遠慮の欠片もなくバシンッと叩いた。
「痛っったあっ!? シ、シルヴィア嬢! 突然なにをするのですかっ!?」
「姿勢が悪いっ!! わたくしがデザインした服がシワになってしまうではありませんか! しゃんと背筋をお伸ばしあそばせっ!!」
「……っ!」
「ふてくされていても事態は良くなりませんわ! 絹がないと嘆く前に、綿でも麻でもいいから服を縫って着るのです!! いくら貴方が王子でも、裸で冬は越せないのですから!!」
「シルヴィア嬢……」
「しっかりなさいませ!! 大体、マリンローズ先生もシリウスお兄様も、自らの責任を一方的に放棄するような人間ではありませんわ! なんらかの事件に巻き込まれたに決まっています!! 不敬な噂を流した輩はどこの誰ですの!? フレースヴェルグ公爵家の名において、このわたくしが一人残らずとっちめてやりますわ!!」
レオンハルトの碧い瞳がいっぱいに見開いて、シルヴィアの顔を映した。また、以前のように侮蔑されるかもしれないが、知るものかと鼻で笑い捨てる。
「生憎ですわね。わたくしは、自信を失った殿方に耳あたりの良い言葉を囁くだけの無責任な女にはなりたくありませんの。困難を乗り越えるときは寄り添うのではなく、前に立って道を切り開きますわ! それこそが、わたくしーー〝王の剣〟たる公爵家の令嬢、シルヴィア・フレースヴェルグなのですから!!」
「シルヴィア」
「え……っ?」
初めて、そう呼ばれた。
驚いた瞬間に手を引かれ、数歩離れていた彼との距離がゼロになる。図柄の細部まで拘ったネッカチーフが頬に当たっていることにーー上質な絹のシャツ越しに、レオンハルトの鼓動の速さと体温を感じてしまっていることに気がついたシルヴィアは、あまりの恥ずかしさに、全身の血液が沸騰するのを感じた。
「なななな、ななななん……っ!?」
「ありがとう、シルヴィア。愛しい私の婚約者。貴女が側にいてくれて、本当によかった」
「……っ!」
このとき、レオンハルトが浮かべた微笑みを、自分は一生忘れないだろう。
幼い頃から、蔑まれていることを知っていた。我儘で金遣いの荒い愚かな令嬢だと、微笑みながら目が語っていたからだ。それでもシルヴィアは、皆の期待を一身に背負い、弛まぬ努力でそれに応えるレオンハルトの愚直さが好きだった。
いつか、レオンハルトに本当の自分を理解してもらえるときがきたら、そのときは、本心から微笑みかけて欲しい。
長い間の願いの末に、ようやく見ることのできた笑顔だった。
涙で滲ませたくなくて、上を向いて必死に耐える。
そんなシルヴィアの頬に触れ、レオンハルトはそっと身をかがませた。
そうして初めて、二人の唇が重なる。
「ーーーーッッ!!!!」
「おや、違いましたか? てっきり、口付けを強請ってくれているものかと」
にっこりと笑う彼は、確信犯そのものだ。
すっかり調子を取り戻した腹黒策士なレオンハルトに、シルヴィアが貯めに貯めた羞恥心を怒りに変えて爆発させようとしたとき。
ゴッホンと、わざとらしい咳払いがした。




