十章②
***
誰かが、私を呼んでいる。
繰り返し、繰り返し。
優しく、柔らかく、打ち寄せる波の音のように。
私の、名前を……。
「ーーマリンローズ。そろそろ起きないと、朝の紅茶が冷めてしまうよ?」
「……ん、う……」
(……紅茶?)
からかい混じりの声に、閉じていた瞼をあけた。
眼鏡をしていない視界の中で、白いシーツが陽光に光り、眩しくハレーションを起こす。
どうやら寝台の中にいるらしい。手探りで眼鏡を探していると、ぼんやりとした人影が近づいてきた。
「お探しのものはこれかな?」
カチャ、と鼻の上に眼鏡の重みが生まれる。明瞭になった視界の中で、シンプルな夏麻のシャツに白のトラウザーズ姿のシリウス兄様が微笑んでいた。
彼の後ろに広がるのは、白亜を基調とした寝室だ。
壁沿いの姿見に、いつも結いあげているラズベリーレッドの髪を下ろし、絹のナイトドレスを着ている自分が映っている。
テーブルを飾る満開の白薔薇。
湯気を立てているティーカップ。
市邸の自室でも学園の教室でもない、まったく見覚えのない場所だった。
「ここは……」
視界は晴れたものの、記憶は未だ深い霧の中だ。
確か、私は生徒たちと一緒にベオウルフ公国で開かれたサマーパーティーに招待されたはずでは……?
無理矢理に記憶を思い起こそうとすれば、ズキンとこめかみが疼いた。
状況が飲み込めず、部屋を見廻すばかりの私に、シリウス兄様は紅茶のティーカップを手渡してくれる。
「ここは我が家の夏の別荘だよ。ベオウルフ公国でのサマーパーティーを終えたあと、残りの夏休みをここで過ごさないかと誘ったら、喜んで了承してくれたじゃないか。覚えていないのかい?」
「は、はい……すみません」
「ふふ。きっと、寝際に飲んだワインのせいだ。あまり強くないと言っていたのに、猫のように甘えてくる君が可愛らしくて、ついついグラスをすすめてしまった。気分は悪くないかな?」
「はい、大丈夫です……って、ね、猫みたいに甘えた!? 私が、シリウス様にですか!?」
「ああ。こうして、頭を撫でられるのが好きだと言っていた。気持ちよさそうに目を細めるのがあまりにも可愛らしくて、首輪をあつらえて飼ってしまおうかと本気で考えてしまったよ」
「首輪……って」
ふわふわと髪を撫でられ、真っ赤になって口をぱくぱくさせる私に、彼は爽やかに笑いかける。
「じ、冗談ですよねっ!? シリウス様! 笑って誤魔化さないでくださいよ!」
「あはは! こらこら、急に立ち上がると紅茶がこぼれてしまうよ」
ここへかけなさい、と椅子を引かれ、なんだかはぐらかされた心地で席についた。
夏の休暇を気兼ねなく過ごすため、ここには側仕えの類はいないそうだ。シリウス兄様はドレッサーから櫛を取り、手ずから私の髪を梳き、器用に結いあげてくれる。
「驚いた。こんなことまで上手なんですね」
「昔、シルヴィアの髪をこうして結ってあげていたのだよ。あの子は癖っ毛だが、マリンローズの髪は真っ直ぐだね」
結い終えた髪に、彼は花瓶の白薔薇を一本抜き取ってこめかみに飾りつけた。小ぶりながら綺麗な花だ。花瓶の側にはハサミと、切った葉や茎、取り除いた棘がそのままにされている。
「この薔薇も、シリウス様が?」
「ああ。庭で綺麗に咲いていたからね。館の薔薇と比べると花は小さいが、とても良い香りがするだろう?」
「はい。とても……でも、ちょっと変わった香りですね。これ。もしかして、潮の香り……?」
「すぐ裏手が海になっているのだよ。耳を澄ますと潮騒が聞こえるだろう。そこのバルコニーから浜辺に降りれる。裸足で歩くと気持ちがいいよ。行ってみるかい?」
「海に行けるんですか? はい、是非!」
バルコニーから螺旋階段を降りると、つま先はもう砂浜に触れていた。
柔らかな正午前の日差しの中、二人で手を繋いで、穏やかな渚を裸足のままで辿っていく。
海の青さは目に染みるようで、彼方に伸びる水平線が、夏の名残の入道雲を率いていた。
時折、大きな波が足元をさらう。
きめの細かい真砂に混じって、金色の粒が光っているのに気がついた私は、温い水の中からそれを拾い上げた。
「これ、なにかしら……? 透き通っていて綺麗な石……?」
「琥珀だよ。ああ、これは特別に綺麗な粒を拾ったね。ネックレスを拵えようか」
「琥珀って、宝石の? 誰かが落としたんですか?」
「いいや。この辺りの海の底には、琥珀を含む地層があってね。琥珀は軽いから、こうして波に乗って浜に流れ着くんだ。今の時期は海風が強いから、探せばたくさん拾えるよ」
彼は私の手のひらから琥珀の粒を摘みあげ、陽光にかざした。
砂に磨かれた天然のルースは、日に当たると僅かに青みを帯びて光る。
シリウス兄様の瞳の色に似ているなと思ったとき、今更ながら、彼がモノクルをつけていないことに気がついた。
いつもより、ずっと柔らかい表情で彼は言う。
「知っているかい? 琥珀は、魂を引き寄せる石だと言われている。身につけると、運命の相手の魂を引き寄せてくれるのだとね」
「運命の、相手を……」
いつの間にか、シリウス兄様の腕が私の身体を包み込んでいた。
二つ並んだ、涼やかなアイスブルーの瞳に覗き込まれ。赤面するのを隠すこともできずに、ただただ慌ててしまう。
「そ、それは知りませんでしたけど……っ! こ、琥珀を擦ると、電気が発生するんですよ! 電気っていっても、静電気なんですけどね……!!」
「そうなのかい? ますます君に相応しい石だね。琥珀は、君の瞳の色でもある。あの御前試合で初めて君に会ったとき、僕はその強い瞳に恋をした。金色に輝く、気高き雷を宿す瞳にね。一目惚れだったのに、君は全く信じてくれなくて、困ったよ」
大切に、宝物に触れるように、なめらかな指の先で唇の輪郭をなぞられて、意識が沸騰しそうになる。
鼓動が高鳴りすぎて、胸が引き絞られてしまいそうだ。
「そ、れはっ! シ、シリウス様がこうやって揶揄うからですよ……っ!」
「マリンローズ。僕は一度だって、嘘や揶揄いで君への気持ちを偽ったことはないよ」
わかっているのだろう、と呟くシリウス兄様の白い頬が、恥じらいからか仄かに朱に染まっている。
長い睫毛の下で揺れる瞳が、祈るように私を見つめている。
その、あまりにも美しい光景に眩暈がした。
「マリンローズ、君を愛している。お願いだ……君だけは、ずっと、僕の側にいると約束してくれ」
「ーーっ」
懇願にも似た言葉の意味を考える間もなく、長い指におとがいを捕らえられ、ゆっくりと、唇が近づいた。




