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七章⑥


 それは、婚約を結ぶための契約書だった。


 シリウス兄様のサインは、既に記されている。


 「心配しなくても、妻の財産譲渡権は放棄するよ」と茶目っ気いっぱいに彼は言い、打って変わって、とても真面目な顔つきになった。


 私の手を取り、うやうやしくひざまずく。


「愛しいマリンローズ。全身全霊をかけて、君に謝罪したい。僕が今の地位を得る際に、君の純粋さを利用して罠に嵌めたこと……本当に、許されない行いをした。これから先、君と人生をともにする限り、この罪を償い続けると誓う。だから、どうか、僕の愛を受け入れて欲しい」


「ーーっ!」


 ギリギリと、胸の奥が締めつけられる。胸中のマリンローズが抱く思いが、大きな悲しみとなってあふれ出すのを感じた。どう返事をするか迷う前に、舌が勝手に動いて言葉を紡ぐ。


「『どうして、だったの……!?』」


 しかし、そこには以前のような激しい怒りの感情はない。


 だから、私は今度こそ、かつてのマリンローズとシリウスロッド・フレースヴェルグとの確執に触れることが出来た。


 よみがえったのは、学生時代の記憶だ。


 マリンローズはいつも孤独だった。


 強大な魔力を有し、雷の聖獣の加護を持つ彼女は、実の家族にすら恐れられている有様だった。おかげで他人と接することが苦手に育ち、魔法士学園に通ってからも、友達はおろかまともに話ができる人間もいなかった。


 彼女は孤独から逃げるように勉学にのめり込み、そんなとき、シリウスロッドと出会ったのだ。


 彼は当時から、令嬢たちの憧れの的だった。


 美しく、華やかで。扱う魔法も誰よりも優れ、洗練されていた。


 年に一度、国王陛下の前で開かれる御前試合の場で二人は戦い、マリンローズは人生で初めての恋に落ちた。


 それまで、こんなにも真っ直ぐに、自分を見てくれた人間はいなかった。


 こんなにも全力を出し切って戦ったことも、魔力が果てるまで技をぶつけ合ったこともなかった。


 すべてが初めてで、楽しくて、一瞬一瞬が輝いて見えた。


 永遠に、この時間が終わらないで欲しいと願うほどに。


 そして、結果は僅差でマリンローズが勝利した。魔法戦とはいえ、女の自分に負けたのだ。きっと、シリウスロッドはプライドを傷つけられ、自分を憎むだろうと思った。


 しかし、負けを認めたあとも、彼はマリンローズを恐れるどころか、会うたびに気さくに話しかけてくれるようになったのだ。


 好きにならないほうがおかしかった。

 

 ーーだが、マリンローズが学園を卒業し、宮廷魔法士団に所属して数年後。新たな長を決めるための魔法戦に臨んだとき、すべては終わってしまった。


 試合の前夜、シリウスロッドはマリンローズを呼び出して、愛を告白したのだ。


 その上で、宮廷魔法士長にはマリンローズこそが相応しい、明日の試合では君に勝ちを譲るつもりだと告げた。


 マリンローズは彼の言葉を信じて試合に挑み、その結果ーー


「『甘い言葉に騙された私が悪いと、嘲笑いたければ笑えばいいわ! でも、貴方が卑怯な真似をした事実は永久に変わらない! 私は、もう一度、貴方と戦いたかった。学生の頃の御前試合のように、全力で戦いたかったのに、なのに……っ!!』」


「マリンローズ。君にとっては、どんな理由も言い訳になってしまうだろうが……」


 ぎゅっ、と握られた手に力が込められる。


 冴えた瞳で私を見上げ、シリウス兄様は静かに告白を始めた。


「当時の僕は、父を失い、公爵家を継いだばかりの若造だった。周りの有力貴族たちは、支えるふりをして虎視眈々とこちらの没落を狙う輩ばかり。だから、シルヴィアを育てていくためにも、確固たる地位が必要だったのだ。どんな手を使ってでも、宮廷魔法士長の座を手に入れなければならない……そう考えてしまうほど、追い詰められてしまっていた」


「『本当に、ただの言い訳ね……! 後ろ盾が欲しいなら、さっさと大貴族の令嬢でも娶れば良かったのよ。貴方の顔と優秀さなら、いくらでも相手はいるわ! どうしてそうしなかったの!?』」


「……それは」


 シリウス兄様はとたんに口ごもり、目を逸らすようにうつむいた。


 胸中のマリンローズは気がついていないようだが、よく見ると耳が赤い。


「『それは!? なによ! 後ろめたいことがないなら、はっきり言ってみなさいよ!!』」


「…………あ、あのときの告白が、嘘ではなかったからだ」


「『え……?』」


「その……は、初めて出会ったときから、僕は君を愛していた。だから、他の令嬢と結婚などしたくなかった。いつか、君が僕の罪を許してくれると信じて、ずっと、ずっと、待っていたのだよ」


「『ーーっ!?』」


(許してあげなさいよおーーーーーーーーっっ!!!! マリンローズ!! これ以上私の最推しを待たせたら、許さないんだからあーーっ!!)


「『ううう嘘よっ!! だって、学園では令嬢という令嬢に囲まれてキャーキャーしてたくせに!!』」


「これでも公爵家の令息だからね? 地位と財産を狙って近づいてくるご令嬢は山ほどいるが、マリンローズ。君のように、僕と正面から向き合ってくれる女性はいなかった。あの試合で見た君の美しい雷に、僕の心は撃ち抜かれてしまったのだ。一生恨んでくれて構わない。だが、ほんの少しでもこの気持ちを受け止めてもらえるなら、どうか……僕の、正式な伴侶になってくれないか」


「『…………虫除けのためだと言ったくせに』」


「おや、本気で信じていたのかい? 君は本当に騙されやすいね」


 悪戯っぽくウインクされ、胸の鼓動がひときわ大きく飛び跳ねた。


 それは、あの魔法戦の最中、彼に裏切られた瞬間に言われた言葉だった。


 長い沈黙のあと、私は握られたままの手を振り解き、テーブルに置かれたペンを取った。


「『わかったわよ!! もう一度だけ、騙されてあげるわ! どうせ、一度は婚約破棄されたんだもの。一度も二度も同じよ!』」


 マリンローズ・メルリーヌ。


 サインを記した瞬間。室内にあるはずの庭園内に風が巻き起こり、純白の薔薇の花が舞い散った。


 まるで、結婚を祝福する花吹雪のように。


「……ありがとう、マリンローズ」


「『礼を言われる筋合いはないわ。私は、まだ貴方のことを許していないも……』ーーシリウス様、それより、この花は魔法ですか?」


 ムードをぶち壊すマリンローズのツンデレっぷりを押し込めて、私は尋ねた。


 シリウス兄様は、これ以上ないほど幸せそうに微笑みながら跪いていた姿勢を解き、降りそそぐ花弁を手のひらで受けとめた。

 

「薔薇の精霊たちが、僕たちを祝福しているのだよ。この薔薇の大樹には精霊が宿っていてね。だから、春が終わっても花が尽きることはない」


「精霊が?」


「ああ。姿を見せることは滅多にないが、ここでお茶をしていると、いつの間にか、お菓子がなくなっていることがある。ただ、精霊たちは自分たちの棲家を荒らされるのを嫌うから、あまり庭を整えられないんだ。下草も生え放題で、見苦しいかもしれないが……」


「とんでもない! 凄く綺麗です。どうして今の時期でも満開なのかと不思議だったのですが、まさか精霊がーー」


 宿っていたなんて。


 そう、口にしたとき。


 私の頭の中で、これまでに学園で起きた様々な出来事が、一本の線で綺麗に繋がった。


「ああーーーーっっ!? そうか、そういうことだったのね!?」



 

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