七章③
上質な絹のシャツ越しに伝わる、温かな体温。サラリと頬をくすぐる銀糸の髪からは、上品な薔薇の香りがする。
うなじを羽根でくすぐられるような艶のある美しい声音は、聞き間違えるはずもなかった。
「……っ、シ、シリウス……に……様……?」
首を捻って振り向くと、彼はハッと息を飲んだ。
「驚いたな……! まさか、君が僕の名を呼んでくれる日が来るなんて」
「えっ!? あ……っ!?」
(しまった……っ!! とっさのことで、つい、いつもの癖が……! どうしよう、〝シリウス兄様〟なんて、絶対に変に思われる!)
「も、申し訳ございません、閣下……!! どうか、ご無礼をお許しくださいっ!!」
「マリンローズ。謝ることなどなにもない。閣下ではなくシリウスと呼んでくれ。可愛らしい君に名を紡がれるのを、僕はずっと夢見ていたのだから」
「そ、そうなのですか……?」
「勿論。白状すると、こうして眼鏡を取った君の顔も、ずっと見てみたかったのだよ」
……よかった。
どうやら、〝兄様〟の部分は聞こえていなかったらしい。彼は胸元のハンカチで私の涙を拭い、眼鏡のレンズも綺麗に磨いて、少し名残惜しそうに私の顔に戻した。
今日の彼は宮廷魔法士のローブではなく、シンプルな絹のシャツに、季節に合わせた薄手の上着を羽織っている。淡いブルーグレーの生地が、光の加減で銀にも見え、とても綺麗だ。
「しかし、泣き顔はいただけないね」と彼。
「学園は人目につく。君のそんな顔を見ることができるのは、この世で僕一人でなければ。でないと、見た相手をどうにかしてしまいたくなってしまうよ」
「う……、き、気をつけます。シリウス……様は、どうして学園に……?」
「無事に帰還したら、一緒に食事をと約束していただろう? ーーだが、どうやらそれどころではなさそうだね」
「……すみません。私の力が至らないばかりに、学内で起きたトラブルが解決できなくて。このままでは、取り返しのつかないことになりかねないのです。お約束を違えてしまい、本当に申し訳ないのですが、どうか、別の機会に……」
「……」
正面から私の顔を覗き込み、シリウス兄様は沈黙した。
彼は特殊な条件下で現れる隠しキャラのせいか、パラメータ上に【好感度】は表示されない。
だが、かねてからの約束を破れば、確実に内部好感度はさがってしまうーーそんな風に、未だにゲームじみた考え方をしてしまう自分に嫌気がさした。
これは、現実なのだ。
あと数日で、プリシラへのいやがらせの犯人を見つけられなければ、凄惨な未来が訪れてしまう。最愛の妹を殺され、アルベルトが革命を起こし、この国の王侯貴族は軒並み処刑されるのだ。
その中には、公爵であるシリウス兄様も含まれているはずだ。
大衆の見世物として執行される斬首刑は、最も重く、最も不名誉な死である。
本来は、王に謀反を働いた大罪人にのみ下される。その人間が、この世に生まれてきたことが誤りだと公然に示すための極刑だ。
処刑は罪人の首が落とされたあとも続く。あらゆる記録から完全に存在が抹消され、遺体は腐るままに野ざらしにされて、墓を建てることすら許されない。
デッドエンドルートのアルベルトがあえてこの屈辱的な処刑法を選ぶのは、プリシラを惨殺された苦しみが、彼の心を壊してしまうからなのだろう。
妹想いの優しい兄を、復讐と狂気の獣に変貌させるほどに。
私のせいだ。
私が、アルベルトを支えられなかったせいでーー
「ーーっ、う……っ!」
込みあげた嘔吐感が、嗚咽となってあふれ出した。崩れかけた身体を、しなやかな腕に抱き止められる。耳を打ったのは、酷く慌てた声だ。
「マリンローズ……!」
「ごめん、なさ……い、いまは、無理、です。なにも食べられそうに、なくて、だから……」
「……ああ、わかっているよ。約束のことはもういい。だが、せめて、君の側にいさせてくれないか?」
言いながら、シリウス兄様は私の身体を抱き寄せて、ゆっくりと背中をさすってくれた。
そこに下心の類は感じない。社交会に数多の浮名を流し、女性の扱いに慣れていると名高い彼なのに、その仕草からは幼い妹を慰める兄のような優しさがあふれている。
胸のつかえを吐き出して、ようやく落ち着きを取り戻した私に、シリウス兄様は躊躇いがちに言った。
「……マリンローズ。僕に力になれることはないだろうか? 先の魔物討伐、君が放った雷のおかげで蜂たちの注意が逸れた。強敵を無傷で倒すことができたのは、君のおかげだと思っている。だから、これはその礼なのだよ。ーー決して、矜持を傷つけようというのではない」
遠回しな言い方をするのは、私に原因があるのだろう。今までのマリンローズなら、いくら困っていても因縁深い彼に助力を求めるなど、万に一つもあり得ない。
だから、こうして了承しやすい理由を与えてくれているのだ。
(シリウス兄様は、本当に賢くて優しい人だわ。それに、彼ならシルヴィアの居所を知っているかもしれない……でも、事件の犯人だと疑っていると思われたら、さっきのレオンハルトのように、信頼を失ってしまうかもしれない)
ーーでも、たとえ、人生初の最推しに嫌われてしまったとしても。そうすることで生徒たちの未来や、彼の命を救えるのなら、私はそれで構わないと思った。
「……シリウス様。それなら、私をシルヴィアに会わせていただけませんか? 昨年の冬に起きた聖獣の暴走事件について、彼女の話が聞きたいのです」
「シルヴィアに? …… ああ。そういえば、子供同士の諍いを覇権争いに利用しようと、親たちが浅ましく動いているようだね? 愛しい君を悩ませているのは、そのことか。ーー単刀直入に聞くが、君はシルヴィアを疑っているのかい?」
声音は穏やかだが、薄いモノクルの硝子越しに、アイスブルーの瞳が冷たい光を帯びている。
私は、少し考え込んでから答えた。
「ーーもし、プリシラ姫へのいやがらせがシルヴィアの仕業だとしたら、あまりにも彼女らしくありません。私はシリウス様の婚約者に相応しくないから辞退しろと、面と向かって怒鳴りつけて来た子ですもの。いやがらせをするなら正々堂々とするはずです。だから、もしも、シルヴィアがかかわっているのだとしたら、そうせざるをえない理由があるのだと思うのです」
「なるほど。つまり、無関係だとは思っていないということか」
「会って確かめるまでは、わからないと思っています。私がシルヴィアと会ったのは入学式典の日だけで、それ以降は授業も欠席していますから、現状を知りようがないのです。それに……」
「それに?」
「シルヴィアは気丈に振る舞っていますが、内面は傷つきやすい臆病な子です……! 授業どころか寮にも帰っていないのは、きっと、学園中から疑いの目を向けられて居場所がないからですわ。ちゃんと食事を取っているかも心配ですし、これ以上、彼女が追い詰められる前に助けてあげたいのです……!」
「……!」
宝石のような瞳が、驚きに丸くなった。
私の言葉に、彼がなにを思ったのかはわからない。
シリウス兄様はしばらくじっと私の顔を見つめたあと、ため息をつくように微笑んで、こちらに向かって手を差し伸べた。
「ーー来なさい。君に、良いものを見せてあげよう」




