二章⑨
瞬間、〝アンジェリカ〟の大きな水色の瞳が、これ以上ないほどに丸くなった。水面のようなそれがゆらりと揺らぎ、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「ちょ……っ!? ア、〝アンジェリカ〟さん!?」
「〝桜木杏奈〟ですぅーーっっ!! 元、二十六歳の日本人です……っ! ごべんなざいっ!! わだじ、嬉じぐで……っ!! まざか、この世界で同じ境遇の人に出会えるなんて、思ってなくってええ……っ!!」
「わ、わかったから、落ち着いて……! そんなに泣いたら、お腹の赤ちゃんがびっくりするわよ」
咽び泣く彼女をなだめながら、窓際のソファ席に並んで腰かける。フリルたっぷりのエプロンをハンカチがわりに、〝アンジェリカ〟ーー前世名、桜木杏奈ーーはひっくひっくと嗚咽をこらえながら自身の身の上を話し始めた。
「わたし……前世で初めてプリプリをプレイしたとき、〝プティ・アンジュ〟のオーナーのフェリクスたんに一目惚れして。それからリメイク版の新プリが発売されるまで、ずーーーーっっと彼のことを推し続けてきたんです……っ! でも、フェリクスたんは攻略対象じゃないから、お店に通ったり、スィーツの素材を貢ぐことしかできなくて。そのうち、自分でもお菓子を作るのが好きになって、とうとうプロのパティシエールにまでなっちゃいました。ーーだから、事故死した後、新プリの世界に転生したんだって気がついたとき、これはもうフェリクスたんの押しかけ女房になるしかないって思って……っ!!」
「そうきたか……っ! でも、わかるわ。私も、前世ではプリプリが好きすぎて、ずっと学園生活が送りたくて教師になったんだもの!」
「そうだったんですねっ! それでマリンローズ先生に転生したなんて、運命ですよ!」
ガシィッ!!
ーーと、熱い握手を結んだとき、胸中のマリンローズが、そろそろあの花束のことを聞いたらどうだと冷静につっこんできた。
「……そうだったわ。ねぇ、アンジェリカ。二週間くらい前に、そこのカウンターに飾ってある花を贈ってくれた男性がいるでしょう? 彼のことを教えてくれないかしら?」
「よくご存知ですね。あの人は、ウィルフレッド・ブライトナー様といって、わたしの育った孤児院のある、ブライトナー領を治める御領主様の息子さんなんです。子供ができたことを知らせたら、お祝いにって」
そうか、それで薔薇ではなくカーネーションなのだと、改めて花に目をやった。ピンクのカーネーションの花言葉は『母の愛』。かすみ草は『幸福』だ。
アンジェリカの話によると、〝プティ・アンジュ〟のマッチョなオーナーことフェリクス・ロードナイツは、代々ブライトナー家に仕える騎士の家系の出身らしい。ウィルフレッドとフェリクスは幼馴染で、それに気づいたアンジェリカは、〝お菓子作りが得意な近所の可愛い女の子〟を装って、二人に近づき親密になった。そのため、ウィルフレッドは今でもアンジェリカのことを、妹のように大切にしてくれているのだという。
しかし、数年前。領地を荒らす魔物を討伐した際、フェリクスは足を負傷。後遺症が残るほどの怪我に騎士の道を閉ざされた彼は、アンジェリカに支えられ、子供の頃から密かに憧れていた菓子職人の道を歩むことを決めたのだそうだ。
ちなみに、アンジェリカの関与以外はゲームの設定通りらしい。〝プティ・アンジュ〟の全メニューを開放すると、フェリクスから彼の昔話を聞くことができるのだ。プリンスたちの攻略には関係のないやり込み要素のため、私はスルーしてしまっていた。
可愛いカフェのマッチョなオーナーに、そんな隠れた設定があったとは。
「あれ? ちょっと待って。五歳の頃にって、アンジェリカはいくつのときに、この世界に転生したことを思い出したの?」
「孤児院に預けられたときですよ。一歳になる少し前だったかな? 最初は自分がヒロインの〝アンジェリカ〟だってこともわかってなかったんですけど、五歳の誕生日に院長から母の形見を渡されて、このペンダントを見たときにようやく気がついたんです。それからはもう、一日も早くフェリクスたんに会いたくて、スィーツを作りまくりました! フェリクスたんはスィーツが大好きだから、天才パティシエール少女として名をあげれば、必ず巡り会えるはずだと信じて!!」
幸運にも、孤児院のあったブライトナー領は果実の一大産地だった。腐りやすい果物を無駄にしないよう、青果として流通するものの他は、砂糖漬けやジャム、ドライフルーツなどに加工される。それらを使ったスィーツ産業もさかんなため、ブライトナー領は別名を〝パティシエの聖地〟と呼ばれている。
アンジェリカの作る〝見たこともない珍しいスィーツ〟は、この聖地の名だたるパティシエ達の度肝を抜き、偶然近所に住んでいた彼女の最推しフェリクスたんの胃袋をガッチリと掴んだらしい。
そして、結婚の認められる十五才になったその日に式を挙げたのだ。
「もう、ギリギリでしたよ! ゲームだと、〝アンジェリカ〟は神聖属性の聖獣の力を授かり、貴族の養女になって、王立魔法士学園に入学するっていうシナリオだったじゃないですか。でも、学園に通ってる間にフェリクスたんが結婚しちゃったらって思ったら気が気じゃなかったので、魔法士の才能があることは隠し通して来たんです。それに、学園に入学したら、酷いいじめを受けることがわかっていたので」
「それで、〝既婚者は入学できない〟という決まりを利用したのね。話してくれてありがとう。ヒロイン不在の謎が解けたわ。『ーーじゃあ、貴女がウィルフレッドを唆して、結婚詐欺を働かせたわけではないのね?』」
「け、結婚詐欺!?」
急に剣呑になった語調とその内容に、アンジェリカは驚いた。
また勝手に舌が動いたのだ。やれやれと嘆息する。
(……意外としつこいわね、マリンローズ。ウィルフレッドに未練があるわけじゃなく、誠実そのものだった彼が、あんな酷い真似をした理由を知りたいと思ってるだけみたいだけど。アンジェリカは無関係だと思うわよ?)
「ごめんなさいね、アンジェリカ。実は、私が前世の記憶を取り戻したのは昨日の夜なの。だから、これまで二十四年間生きてきたマリンローズの意識が残っているみたいなのよ。アンジェリカは、自分の中に別の自分がいるような感覚はない?」
「へえー! わたしの場合は赤ちゃんの頃に思い出したせいか、意識は前世のままですよ。それにしても、結婚詐欺って……まさか、ウィルフレッド様がマリンローズ先生を騙したわけじゃないですよね?」
「そのまさかなのよねぇ。私が前世の記憶を取り戻したのも、昨日の夜に開かれたシルヴィアの誕生日パーティーで、ウィルフレッドに婚約破棄を言い渡されたショックのせいなの。財産譲渡の契約書にサインした直後に婚約破棄されたのよ? 結婚詐欺だとしか思えないでしょう」
「そ、そんなわけないですよ!!」
ガタン! と唐突にアンジェリカが席を立った。
その顔は蒼白だ。
「あのウィルフレッド様が結婚詐欺なんて、なにかの間違いです! それに、彼は悪役キャラじゃない。本当なら、わたしのーーヒロインの義理の兄になる人だったんですから! 名前や顔は出ないけど、新プリのヒロインにはとっても優しいお兄ちゃんがいるって追加設定があったでしょう? 思い出してください! 魔法士の才能に目覚めたヒロインが養女になったのは、ブライトナー侯爵家。リメイクされた新プリのヒロインの名前は、〝アンジェリカ・ブライトナー〟です!!」
(…………えっ?)
「し、知らなかったあああーーーーっ!! 私、ネタバレしたくなくて発売前の事前情報は遮断してたのよ! それで、新プリをプレイする前に、事故で死んじゃったのーーっ!!」
ガタン! と私も席を立つ。
なんて不幸な……! とアンジェリカは嘆いた後、蒼白な顔のままで考え込んだ。
「それに、なんだかおかしいですよ。シナリオでは、シルヴィアの誕生日パーティーで婚約破棄を言い渡されるのは、シルヴィア自身のはずです。なのに、どうして先生が……?」
「おかしなことは他にもあるの! 清廉潔白な完璧王子であるはずのレオンハルトに腹黒属性が追加されていたり、アルベルトが暴力事件を起こして謹慎処分を受けていたり。シルヴィアが落ちこぼれで、なにより髪型が縦ロールじゃなったのよ!? 絶対におかしいわよね!?」
「いえ、シルヴィアの縦ロールは流石に古いってことで変更されたんですけど……待ってください。二年目の冬休みの最終日に、シルヴィアの断罪イベントが発生しなかった? レオンハルトが腹黒で、アルベルトが暴力事件……、ーーっ!? ま、まさか、わたしが学園に入学せずに、三年目までに全キャラクターとの出会いイベントを済ませていなかったから……!?」
「出会いイベント? そう言えば、前世で事故に遭う前に、そんなことを教え子たちが言っていたような気がするわ。出会いイベントを済ませていないと、大変なことになるって……一体、どうなるの?」
ゴクリ、と生唾を飲む私に向かって、アンジェリカは絶望的な表情でその言葉を口にした。
「三年目に、ハードモードに突入してしまうんです……!!」