二章⑥
***
(……一体、メルリーヌ女史はどうしてしまわれたのだろう?)
マリンローズが去ったあと、一人、生徒会室で広げた資料を書架に戻しながら、レオンハルトは小さく息をついた。
裏庭の噴水広場で事情を問い詰めたときから様子がおかしかったが、あの後、もっとおかしなことになった。担当クラスの生徒であるレオンハルトに向かって「今、何年生か」を真剣に問いただしてきたかと思いきや、それに答えると、今度は大仰に慌て始めたのだ。
『信じられない、どうしよう、あと一年しかないなんて!』ーーと。
そして、散々喚いたあとで、これまたいきなり、会って確かめなければならないことがあるのだと、とある女生徒の所在を尋ねてきた。
女生徒の名前は、〝アンジェリカ〟。
聞き覚えのまったくない名前だった。
家名を尋ね返すと、わからないと言う。〝アンジェリカ〟は平民出身だから家名は持っていないらしいのだが、魔法士の才を持って生まれた平民が学園に入学する場合、貴族が後見人となるのが通例だ。つまり、どこかの貴族の養子にされた上で入学するのだ。平民のままでというのは有り得ない。
暗殺防止のため、レオンハルトはこの学園に在籍するすべての生徒の情報を把握している。それでも、〝アンジェリカ〟という名前の生徒は知らなかった。
だが、いくらいないといってもマリンローズは納得しない。そこで、彼女を生徒会室に連れてきて、本年度入学分を含めた全在籍生徒のリストを見せたのだ。
ーーすると、どうだ。
彼女の言った通り、〝アンジェリカ〟は確かに存在していた。平民出身で、魔力があるため就学権を有していたのだ。
ただし、二年前に。彼女は当時、既に結婚していたために、学園に在学する前に就学権を自ら放棄したと記録にはあった。
記された在籍住所は学園のすぐ近くだった。たしか、敷地の隣にある小さな喫茶店のはずだと言うと、血相を変えて生徒会室を飛びだして行ってしまったのだ。
あの厳粛に手足が生えたような人間であるはずのマリンローズが、スカートの裾をひるがえし、大慌てで走り去っていくところなど初めて見た。
「婚約を破棄されたショックで混乱していると言っていたが、その通りだ……まったく」
無防備にもほどがある。
いくら自分が生徒といえど、男の前であんな泣き顔を晒すなんて。いつでも冷たく光る眼鏡の下に、あんなにも幼い、か弱げな少女のような泣き顔が隠れていただなんて、知らなかった。
おかげで虚を衝かれてしまった。七つも歳の離れた女性の泣き顔に、赤面するほど動揺してしまうなんてどうかしている。
そう、どうかしている。
泣き濡れた琥珀色の瞳があんまりにも綺麗で、一瞬であれど、見惚れてしまうなんて。
(本当にどうかしている……相手はあの〝天雷の魔女〟だぞ?)
自嘲気味に笑い、レオンハルトは書架に並んだ資料の中から、過去の在籍生徒のリストを手に取った。
開いたページにはその筆頭に、首席生徒マリンローズ・メルリーヌの名が堂々とある。
近づく男はみな塵になる。
この学園に在籍していた頃の彼女は、そんな風に恐れられていた。令息たちの親はこぞって彼女を嫁に欲したが、肝心の令息たちは彼女の眼光に怯え、聡明さに萎縮し、その強大な魔力の前になす術もなく震えあがって、プライドごと塵にされてしまったのだという。
そんなマリンローズに唯一近づくことができたのが、昨夜、婚約を破棄されたばかりの彼女と新たな婚約を結ぶ約束をした男、シリウスロッド・フレースヴェルグ公爵だ。
パーティー会場に戻ってきた彼からその報告を聞いたとき、誰もが耳を疑った。レオンハルトもその一人だ。マリンローズ・メルリーヌとシリウスロッド・フレースヴェルグといえば、この王国では知らないものがいないほどの犬猿の仲。かつて、宮廷魔法士長の座をかけて血みどろの戦いを繰り広げた、奈落のように因縁深い間柄である。
大袈裟ではない。昨夜はあの二人が顔を合わせるというので、王宮から国衛騎士団を派遣して見張りを増やしたくらいなのだ。
(彼等の間に愛情などあろうはずがない。フレースヴェルグ公爵は、メルリーヌ女史を自身の虫除けにでも利用するつもりなのだろう。ーーだが、女史は傷心につけ込めるような相手ではない。おそらく、女史のほうも公爵を利用するつもりで、相互利益のために婚約を結ぼうというのだろうが、しかし……)
しかし、今日のマリンローズのあの様子。もしかしたら、精神虚弱なところに上手くつけ込まれてしまったのかもしれない。
公爵には気をつけろと、助言をするべきだろうか……?
資料にあるマリンローズの名を指先でなぞり、レオンハルトは思案に耽る自分に気がついて、ハッとした。
(彼女のことを心配している……? 馬鹿な、どうして私が)
マリンローズのことだ。下手に助言などしようものなら、生徒に身の上を心配されるほど落ちぶれてはいないと一蹴されて終いだ。それに、口出ししたところでこちらに利益はない。むしろ、婚約をきっかけに犬猿の二人の仲が改善されれば、自分が王座についたときに御しやすいというものだ。
「……本当に、今日の私はどうかしているな」
嘆息とともに資料をしまい、レオンハルトは生徒会室を出て鍵をかけた。そのまま学生寮に帰ろうとした矢先、廊下に現れた人物に、ふと足を止める。
学園では王子といえども一学生だ。離れた位置から護衛が見守ることは許可されているが、規則上、側近や従者はつけられない。
だから、廊下に現れた公国の王子も一人だった。
「ーー久しぶりだな。王子様?」
つりあがった唇の端から、獣じみた牙が覗く。この国では珍しい、母親譲りの黒曜石のような黒髪。軍服に似た裾の長い衣装も、トラウザーやブーツまで黒づくめだ。獣人の血を引く彼は、獣の耳や尾こそ持たないが、ギラギラと底光りする金の瞳は鋭く、飢えた狼を思わせた。
偶然居合わせたのではない。彼はレオンハルトに会うために出向いたのだろう。
肌に伝わるのは、そう確信するのに充分な敵意だった。
「アルベルト・ベオウルフ……来ていたのか。式典では姿を見なかったが」
「はっ! 来ちゃ悪ぃかよ。一応、俺はまだこの学園の生徒なんだ。ーー誰かさんは、追い出そうと躍起になってるらしいがな?」
「……そんなことはしていない。謹慎処分を受けたのは貴公自身の愚行の結果だろう。私には、この学園の秩序を守る義務がある。貴公は私情を優先し、秩序を乱したばかりでなく、関係のない者をそれに巻き込んだ。正しく処罰を受けるのは当然だ」
「関係のない者だと……!? まだそんなことを言ってやがるのか! プリシラを追い詰めているのはあの女だ! 婚約者だか知らねぇが、庇うのもいい加減にしろ!!」
「疑うに足る証拠がないだけだ。焦って失態を晒した貴公に、責められる謂れはない」
金の双眸が、深く輝きを増す。獣人特有の鏡のような瞳孔が、獰猛な光を宿してレオンハルトを貫いた。
ゆっくりと、アルベルトが近づいてくる。
すれ違いざま、彼は、低く唸るように囁いた。
「属国の王女がどうなろうが、知ったことじゃねぇってか。ーープリシラにもしものことがあってみろ、テメェを噛み殺してやる」
「……っ!! 撤回しろ、アルベルト!!」
しかし、アルベルトはレオンハルトの言葉に応じることはなく、一度も振り向くことなくその場を立ち去った。
(アルベルト……私は、できることならお前を、お前たちを……)
ーー救いたい。
だが、それを口にできないのは、それがただの理想だからだ。
幼い頃から兄弟のように育った従兄との間には、もう修復の希望がないほどの亀裂が生じている。
残されたレオンハルトは、呆然と立ち尽くした。