プロローグ
プリンス&プリンセス〜恋からはじまる学園生活〜
それは、この国のゲーム業界に〝女性向けジャンル〟を誕生させた、恋愛シミュレーションアドベンチャーゲーム――《乙女ゲーム》――の原点にして頂点だ。
剣と魔法の世界で平民として生まれたヒロインが、聖女にしか使えない伝説の魔法、神聖魔法の使い手に選ばれたことをきっかけに、王立魔法士学園への入学を許されるという夢あふれるストーリー。
恋のお相手となるイケメンプリンスたちは、みんな違ってみんな良き。キャラ属性という画期的な概念を生み出し、世の女性たちのハートを鷲づかみにした。
本ゲームは販売当初から絶大な人気を博したが、しかし、誰も予想しなかった不幸な結末を迎えることになる。
突然の大不況の煽りを受け、販売元が倒産したのだ。
多くの女性たちに「プリプリこそ我が人生」と言わしめた伝説の乙女ゲームは、世知辛い大人の事情と利権関係にもまれた挙句、続編の制作はおろか、新型ゲーム機への移植も叶わないまま、いつしか他社から発売される数多の乙女ゲームの荒波に飲まれ、忘れ去られてしまった。
――それから、20年後。
***
「ええっ! 成海先生、販売日の前日から徹夜で並んで買ったくせに、まだプレイしてないんですか!?」
「〝プリプラ〟が発売してから、もう三週間以上経ちますよね?」
先を行く教え子たちが、驚き顔で振り返る。
アスファルトを踏むパンプスの速度を早めつつ、私は眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
「天野さん、氷鷹さん! 〝プリプラ〟じゃなくて、〝プリプリ〟! せめて〝新プリ〟と呼んで頂戴。リメイクされてタイトルが変わっても、そこだけは譲れないわ!」
成海しずく。中学校教師、三十五歳独身。
三度の飯より〝プリプリ〟が好きな私の熱弁を、二人の教え子は生温かく受け流し、青信号の横断歩道を駆けていく。
白い息が溶ける寒空。二月末の淡い陽光に、教え子の一人――天野めぐみのポニーテールが栗色に光る。セーラー服のスカートがひるがえるたび、指定鞄を埋め尽くす金髪王子キャラの缶バッジがカチャカチャ鳴った。
後を追うのは、大人びた黒髪のワンレングス。もう一人の教え子、│氷鷹│麗の鞄にも、同じ金髪王子のストラップがずっしりだ。役目を終えた合格祈願のお守りが、なんとも居心地悪そうである。
横断歩道を渡りきり、視線を真っ直ぐに上げると、通りの先に朱い鳥居が見えた。
「実は、願掛けをしていたのよ。『うちのクラスの生徒たちが全員高校受験に合格するまで、新プリはプレイいたしません。だから、どうか願いを叶えて下さい!』って」
「またそんな、神様が対応に困るようなことを……」
「なるほど。だから放課後に御礼参りに行こうなんて言い出したんですね。うちのクラスが全員第一志望校に合格したのも納得です。成海先生が新プリを我慢するなんて、天変地異でも鎮まりますよ」
三週間前。近年流行しているリメイク化の波に乗り、〝プリンス&プリンセス〟のリメイク版である〝プリンス&プリンセス ラブ+〜恋からはじまる学園新生活〜〟(以下新プリ)が、約20年の時を経て発売された。
乙女の夢を叶える様々な女性向けゲームが繚乱する昨今、20年も昔の乙女ゲームが受け入れてもらえるのだろうか。そんな私の不安をよそに、新プリは〝今、最高にエモい乙女ゲー〟として、担任している中学三年クラスの生徒たちにも大人気だ。
不易流行。
真の名作は世代をも超越しうる。
前作発売時から年号が二回変わった現在、愛しのプリンスたちは人気漫画家による新装美麗イラストとCVという新たな命を吹き込まれ、世の女性たちのハートを鷲づかんでいる。
「でも、見直しましたよ。どうせ成海先生のことだから、『受験と合格発表が全部終わってからじゃないと、推しプリンスたちとの再会に集中できないわ!』ってな理由なのかと思ってました!」
「ン゛……ッ!! あ、天野さんたら、そんなわけないじゃない。ただ、プレイを迷っているのも事実ね。新プリのキャラクターの台詞は、人気声優によるフルボイスでしょう? 推しプリたちに声がついているなんて、なにそれ想像するだけで無理無理しんどい尊すぎる!! 極めつけは、かのエモーショナリーボイスシステムよ!! 推しプリたちがプレイヤーの名前をボイスつきで呼んでくれるだけに留まらず、親しくなるにつれて呼び方が苗字からあだ名へ、最終的には名前呼びへと変化していくだなんてどうしたらいいの!? 恥を偲んで実名を登録すべき? それとも無難にハンドルネーム?? どちらにするか決められなくて、夜も昼も眠れないのおーーっっ!!」
「先生はあいかわらずの通常運転だねぇ、氷鷹氏」
「無理もありませんよ、天野氏。『プリプリの再販を待って20年。全裸待機しすぎて、もはや服という概念を忘れた』そうですから」
二人が苦笑いを浮かべたとき、丁字路に差しかかった。
信号のない道を渡って鳥居を潜り、綺麗に玉砂利が敷かれた境内に入る。手水で清め、檜皮葺の反り屋根の下に並んで立ち、一人五円のお賽銭を三十人分お納めする。
二礼二拍手。
「最推しのレオンハルト王子とトゥルーエンドが迎えられますよーにっ!!」
「右に同じく」
「二人とも、合格の御礼を言いなさい。それにしても、見事に初見レオン沼に嵌ったのね。パラメータ調整もスケジュール管理も難しいから、一番最初に攻略するのは難しいって教えてあげたのに」
「オープニング冒頭の笑顔にやられてしまったんです」
「プリプリ箱推しの先生には、最押しを愛する情熱がわかりませんよぅ! それに、選択肢を間違えなきゃいいだけだから楽勝だって思ったんです。なのになんですか! あのヒロインを育成してパラメータを上げないとイベントが発生しないっていう謎システムは! せっかくいい感じになっても他のプリンスたちに邪魔されるわ、ライバルの悪役令嬢が好感度を下げに来るわでもう無理ぃだけどレオンたん好きぃ……っっ!!」
天野めぐみは両手で顔を覆い、己の無力感と推しへの愛情の間で打ち震える。その姿は、20年前の私そのものだ。私が彼女と同じ年端の少女だったころ、同じ男性に同じように泣かされた。
オープニング映像とともに颯爽と現れ、『さあ、ともに行こう。私の愛しいプリンセス……!』と、優しい微笑みを浮かべながら手を差し伸べる彼の名は、レオンハルト・ジーク・アストレイア。
伝説の乙女ゲーム、〝プリンス&プリンセス〟のメインヒーローにして、最高難易度攻略キャラクターだ。
眩しい金髪と爽やかな笑顔が似合う、どこまでも罪な男である。
「それは仕方ないわ。リメイク版とはいえ、新プリは20年前に発売されたヒロイン育成型の乙女ゲーム。最近のシナリオ系乙女ゲームの感覚でプレイしちゃ駄目よ。他のプリンスたちに邪魔されないよう、攻略プリンス以外の出会いイベントは起こさずに、ゲームに登場させないようにするのが基本なの。一人ずつ、確実に仕留めていく必要があるのよ」
「えっ? それじゃあダメですよ!」
「出会いイベントは全員済ませておかないと、最後の三年目が大変なことになりますからね」
「えっ!? ど、どうして!? 三年目になにかあるの??」
少なくとも、私が20年前にプレイしたときには、なんのイベントも起こらなかった。教えてよと喰いつく私に、二人はにんまりとほくそ笑む。
「知らないなら内緒でぇーす!」
「ネタバレが嫌で、事前情報は遮断したんでしょう? 先生も早くプレイしてください!」
オーッホッホッホッ! と二人はまるで悪役令嬢のように哄笑しながら、境内を走り去っていく。
私はお社に一礼し、慌てて後を追った。
「わ、わかったわ! 帰ったらすぐにプレイするから、明日の休み時間に語り合いましょう!」
――卒業式まで、一週間あまり。
この子達とこうして一緒に過ごせる時間も、あとわずかだ。
大好きな乙女ゲームの話をしたり、推しプリについて熱く語り合ったり。子供の頃に熱中したものや大切に想っていたものは、大人になったとき、なによりも大切な思い出として残るものだから。
楽しい思い出をたくさん残してあげること。
それが、教師として、巣立っていく生徒たちのためにできる、精一杯の花向けだと思う。
「よし……! そうと決まれば、今夜は久しぶりに徹夜で新プリを――」
プレイするわよ、と二人を追って鳥居の外に出た瞬間。
丁字路の右の道から、忽然とトラックが現れた。
ありえないスピードだった。
進行方向には、道を渡る生徒たち。
「――危ないっ!!」
反射的に叫び、二人の背中に手を伸ばす。
勢いに任せて思い切り突き飛ばしたはずなのに、その感覚は、まるで水中で歩いているかのように、ゆっくりとしていた。
トラックの運転手が慌ててブレーキを踏んだのだろう。
叫び声に似た高音が、耳をつんざいた。
「先生……っ!!」
突き飛ばされた二人が、アスファルトの上に倒れ込む。
起き上がりざまに振り向いた、彼女たちの真っ青な顔が、私を、見、て…………?