純愛の謎は、夜に解く。
白い煙が水面を撫でる。湯の口から流れ出る音以外はとても静かだ。
夜の十一時を周り、気づけば貸切りだった。
温泉とは、どうしてこんなにも非日常的な気分を味わえるのだろうか。この時間だけは、もうすぐ大学生活最後の夏が終わることを忘れられた。彼も外に出ているかな。それとも中のジャグジーかな。そんなことを考えながら真っ黒い空を見上げた。
覚悟を決めてここへ来た。たった一度だけ、これで最後なのだと。
「君はまだ若い。今はいいかもしれないけど、年齢を重ねた時、僕はおじいさんだよ。誰だってこう言うさ。『もっと若い人にしたら?』ってね」
それまで曖昧だった線が、いきなり鮮明になった瞬間だった。
満永朱音は、歳がひと回り以上も離れている男性に恋をした。カフェでバイトをしている彼女が客に絡まれているところを助けてくれた常連だった。
製薬会社の営業部長である立石黎二と華奢なアクセサリーを身につけた朱音が並ぶと、援助交際やパパ活をしていそうな印象を与えてしまう。それでも朱音は自分の気持ちに自信を持って、堂々と彼の隣に立っていた。歳の近い男性と付き合うこともあったけれど、どうしても価値観が合わなかったのだ。
何度か食事を重ね、休日デートに誘ってみたりもした。彼は特に嫌がる様子もなく、朱音との時間をあたたかい笑顔で過ごしてくれた。しかし、その関係は中途半端なものだった。
付き合っているかと問われれば、イエスとは答えられない。けれども朱音が指を絡めてみれば、彼は驚きつつも握り返してくれるのだ。
「立石さん。好きです。付き合ってください」
朱音がそう口にすると、黎二の表情はたちまち曇っていった。そして先ほどの返事。
「私のことはどう思ってるの?」
「君のことは……素敵な女性だと思っているよ。僕にはもったいないくらいね」
朱音は、黎二の所作が好きだった。食事中の動作も、綺麗な字も歩き方も。しゃんと背筋を伸ばした大人の彼の隣を歩くならば自分もきちんとせねば、と自然と思えた。
少し背伸びをして自分に釣り合うよう努力する朱音を、黎二は可愛らしいと思っていた。それと同時に、未来ある若者が自分のような中年の男に時間を費やしていることに、徐々に負い目を感じるようになっていた。
朱音としては納得できる理由ではなかったが、駄々をこねるのは子どものようで嫌だった。ならばこれで最後にしようという約束で、たった一度の旅行に来たのだ。
「この想いも、いつかは冷めちゃうのかなあ」
温もりは確かにここにあるのに。それでも断ち切らなければならない。
朱音はパシャンと湯音を立てて、露天風呂をあとにした。
この日は宿に泊まって、翌日は観光を堪能した。朱音は少しずつ終わりが近づいているのを実感してしまうのが嫌で、タイムスケジュールは黎二に任せた。
帰りの車に漂う空気が重い。これが電車なら少しは気が紛れただろうか。この密室がこんなにも息苦しいのは、彼女は初めてだった。
二人を乗せた車は、朱音の住む町に入った。すると黎二は流れていた曲を突然止めてしまった。赤信号に引っかかったところで、彼は真面目な顔をして呟いた。
「朱音ちゃん。付き合おうか」
「えっ」
信号はすぐに青になり車は動き出した。黎二は、目を見開いたままの朱音に優しく微笑んでから前を向く。
「昨日の夜ね、覚悟を決めたんだ」
黎二はそれだけ言って、具体的なことは何も語らなかった。
車は朱音の家で止まった。送ってもらった礼を言って車から降りると、何故か彼も降りている。
「……あの?」
「言ったでしょ。覚悟、決めたって」
「朱音さんとお付き合いをさせていただきたく、ご挨拶に伺いました。突然おしかけてしまってすみません」
夕食を終えた朱音の両親は目を丸くした。彼女は黎二のことなど何一つも話していなかったからだ。母親が上がるよう促したが、彼は玄関口で挨拶するだけに留めた。そして、自分が年齢差を気にして交際を足踏みしていたことや、それでも朱音と一緒にいたいという想いから交際を決心したことなど、朱音すら初耳である心の内を明かした。
玄関から車までの数歩の距離だが、朱音は見送りに出た。
「ありがとう黎二さん。嬉しかったし、安心した」
黎二は照れ隠しに朱音の頭を撫でた。
「辛い思いをさせてごめんね。逃げ腰になっていたんだ」
黎二は、朱音が食い下がりたいのをぐっと堪えていたことに気づいていた。
「僕が先に死んで、そのあとどうするかは朱音ちゃんの自由だ。その代わり、僕が生きているうちは何がなんでも離さない。繋ぎ止めるからね」
暗闇に溶けていくライトを見つめながら、今日はこんなに暑かったかと手で顔を煽いだ。最後の言葉はプロポーズのように思えた。