螺旋の罠
ある大学の男子寮の一室。
布団を片付けた炬燵テーブルを前に、一人の眼鏡をかけた青年が、電子辞書を傍らにして必修科目であるドイツ語の課題を解いていた。
部屋の窓は、換気のために半開きにされている。
「グーテンターク、クーゲルシュライバー!」
「のわっ!」
窓を全開にして闖入する茶髪の青年に対し、眼鏡の青年は驚くと同時に、闖入者が真下の部屋に住んでいる先輩だと気付き、注意をする。
「小巻先輩。入室する際は、向こうのドアをノックして入ってくださいって、何度も言ってますよね?」
「固いこと言うなよ。廊下の端まで行って、階段を上って、また廊下の端から戻ってくるより、窓を出て窓から入る方が早いじゃん」
「そもそも、どうやって登ってきているのですか?」
「あれあれ? 前期全優の蜷川くんが、脚立という文明の利器を御存じでない?」
「存じております。そうではなく、どうして先輩が寮の備品である脚立を恣に使用しているのかという話で……」
「まあ、いいじゃん、そういうことは。それより、面白い遊びを仕入れてきたんだ。一緒にやろうぜ!」
「おやおや? 裸眼視力2.0の小巻先輩には、天板の上の課題が見えていないのですか?」
「意趣返ししないでくれ。勉強には息抜きが必要だぞ」
「気を緩めすぎて再履修になった例が、すごく身近に存在するような……」
「当てこすりもナシだ。いいから、俺に付き合え!」
何を言っても無駄だと察した蜷川は、立ち上がって電子辞書や筆記用具を鞄の中に入れ、冷蔵庫からウーロン茶の缶を二つ出して炬燵テーブルの上に置き、靴を脱いで座り込んでいる小巻の向かい側に座った。
「ビールとかねぇの? コーラでもいいけど」
「僕は先輩と違って未成年ですし、炭酸飲料は嘔吐の原因になりますから」
「オート? 蜷川はロボットなのか?」
この調子では、もう一年くらい留年するかもしれない。蜷川は心の中で嘆息しつつ、逸れた話題を本筋に戻した。
「それより、その遊びというのは何なのですか?」
「おっ、ノッてきたか! 今回は、ゴリゴリの常識信者である蜷川の固い頭を柔らかくするために、水平思考ゲームを用意してきたぜ」
「水平思考ゲーム、ですか」
「そう! 『ウミガメのスープ』って聞いたことないか?」
「ああ、名前だけは知ってます。でも、どういう遊びなのかまでは知りませんね」
「ルールはシンプルなんだ。俺が問題を出すから、蜷川はイエスかノーで答えられる質問をしてくれ。それで、最終的に正解に辿り着いたらゲーム成功だ」
「質問の回数に制限は無いのですか?」
「前にやった『二十の扉』を意識してるのか? 似てるけど、今回は気にせずバンバン質問してくれて構わないぜ。あまりにも的外れな質問だったら、関係ないって言うし」
「わかりました。問題をお願いします」
「よーし。それじゃあ、今回は『螺旋の罠』という問題にしよう」
小巻は、ジーンズのポケットからスマホを取り出すと、問題文を読み上げた。
「ある夏の日の夜、少年は父親と縁日に行き、屋台や盆踊りを楽しんだ後、射的で当てた玩具を手にして帰宅した。翌朝、少年は自宅で、昨夜手に入れた玩具で遊ぼうとしたが、少年の家では遊べないことが分かった。それは何故か?」
「少年の母親は、少年が持って帰ってきた玩具を嫌っていますか?」
「ノー。この際、母親の存在は無視した方がいいかもな」
「けたたましい音が鳴るのかと思ったけど、違うのか。――少年が持って帰ってきた玩具は、大きなものですか?」
「ノー。大きさは、だいたい大人の両手に収まる程度だな」
「少年の自宅以外の場所なら、その玩具は使えますか?」
「イエス。ただし、どこでも良いってわけじゃねぇんだよな」
「遊び場が限定される玩具か。――その玩具は、水場で遊ぶものですか?」
「ノーだな。遊べなくはないだろうけど、普通は水とは関係ないところだな」
「そうだとすると、お風呂場で使うものではないな。――その玩具は、火を点けて遊ぶものですか?」
「ノー。花火だと思ったのか? 玩具だけじゃなくて、遊び場にも着目した方がいいぞ」
「なんだろう。解らなくなってきたな。――少年の家は、集合住宅ですか?」
「ノー。集合住宅の場合、基本的には一度、自分の家の外に出ないと遊べないな」
「少年の家は、現代建築ですか?」
「ん? それは、どういう意味だ? もうちょっと限定してくれ」
「少年の家は、瓦屋根の家ですか?」
「あっ、そこか! その質問は関係ないな。ヒントだけど、少年の家は、ちょっとお洒落な二階建てだ」
「少年が持って帰ってきた玩具は、階段で遊ぶものですか?」
「イエス! だいぶ答えに近付いたな。ここで、この問題のタイトルを思い出してみろよ。そしたら、ピンとくるかもしれないぜ?」
「螺旋の罠……。螺旋階段ってことか……? ウーン……」
小巻は、考え込む蜷川を対面で見つつ、ウーロン茶を飲み干し、空き缶の上下を両手で持ち、それぞれの手を逆回転させるように捻り潰すと、それを炬燵テーブルの上に置きながら言った。
「渦を巻いてる物を適当に挙げてみろよ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるぜ?」
「オウム貝、デフレスパイラル、雷紋、渦潮、旋毛、遺伝子、渦巻銀河……」
「ロケットに乗って飛んでいきそうな勢いだな。もっと身近なところを攻めろよ」
「鳴門、ソフトクリーム、チョココロネ、栄螺」
「腹でも減ってるのか? 少年が持って帰ってきたのは、食べ物じゃないぞ」
「薔薇の花弁、向日葵の種、蚊取り線香、発条……」
「それだ! バネを英語に直すと?」
「スプリング……。ああ! 先輩の部屋にある、あの玩具か!」
「へヘン! ほぼ正解だな。模範解答は、少年の家はデザイナーズ物件で、階段が螺旋形になっているために、せっかくゲットしたレインボースプリングが一般的な階段で遊ぶのと同じようには遊べないと分かったから」
「なるほど。それは、ちょっと残念かも」
「だろう? まあ、屋台の兄ちゃんも、まさか少年の家の階段が螺旋階段だとは思わないだろうけどさ」
「いやあ、面白い遊びでした。それでは、課題の続きがありますので」
蜷川は、おもむろに立ち上がると、まずは廊下に続くドアを開け、続いて部屋に戻って片手に小巻の靴を、もう片方の手では小巻のシャツの襟を持ち、廊下へと引っ張っていく。
「おいおいおいおい、引き摺るなって。もう一問出してやるよ」
「いいえ、一問だけで充分間に合ってます。僕は四年で卒業したいので、レポートはキッチリ提出しておきたいのです」
「一個くらい出さなくたって平気だって。適度に手を抜かないと、疲れるだけだぞ?」
「悪魔の囁きには乗りません。冥界へお帰りください」
蜷川は、廊下の隅へ勢いよく靴を投げ捨て、次いで小巻の背中を両手で強く押し、勢いよくドアを閉めた。
「あっ、鍵閉めやがった。この、薄情者!」
捨て台詞を吐いた後、小巻は廊下に落ちている自分の靴を拾って履き、トボトボと階段を下りて自室へと向かった。