埋火
手足の先から血の気が引いてくるような気がする。痺れているような気もする。両立しないならきっとどちらかが、あるいはどちらもが、幻覚だった。
この夜が終わっても生きていけますように。そう言って彼女は手首を切り、私はビールを500mlかける2飲んだ。夜は明けた。夜が終わっても彼女が生きているのか、死んだのか、私は知らない。
「あの……」
コンを濁らせたような音で手から駐車場へ滑り落ちた携帯電話、拾って差し出す女がいる。
プッ、プッとカウントダウンの効果音のような音が聞こえて耳をすませばすぐに消えた。幻覚だった。時計の針の音に変わる。幻覚だ。耳の穴を人差し指で塞げば、トンネルの中で脈が聞こえる。
「あの、落としましたよ」
「ありがとう」
「いえ。画面は無事みたいですけど、傷がついたかも」
「気にしないで。よく落とすから、とうに傷だらけ」
返事はなかった。顔を見ると何と返事をするか考えているらしかった。そんなもの、考えるほどのことではないのに。そうなのか、へえ、はいと雑にうなずいておけばいいだけなのに。
「……ありがとう」
「えっ? いえ!」
来た道を振り返る。
寂しそうに見えたの。
駅のホームだった。彼女は私にこんにちはと何でもないあいさつを送って、いぶかしげな顔をしたはずの私にそう言った。
寂しそうに見えた。彼女の言ったそれはたぶん、私が寂しいのではなくて、私がそう見えているのですらなくて、彼女が私を鏡にしたのだ。寂しかったのだろう。あれからもずっと、寂しいまま。
来た道を見つめた。
この夜が終わっても生きていけますように。この夜が終わっても、彼女は生きていたい。私のお遊びと違って、彼女は本当の致命傷までをやる。生きていたいくせに、死ぬような真似をする。私は死にたいくせに、生きている。
もしも世界に不幸せの数だけ幸せがあるとするなら、今そのあたりにありふれている絶望と不幸せに天秤を釣り合わせるだけの幸せはどこにあるのだろうか。本当にそんなものがあるのだろうか。
もしも私の命を代価に別の命を生き長らえさせることができるなら。私に、彼女の傷を移せるなら。移すことができていれば。
「あの……」
女を見た。
「えっとその、よかったら、一緒にお茶でも!」
「お茶?」
「あっ、近くに夜だけ営業する新しいカフェができたんですけど、新しいからなのか賑やかというか、ひとりの人も少なそうな感じで、入りにくいなーって思ってたんです。それで、よかったら、もし時間があればなんですけど、これから一緒に行ってもらえない、ませんでしょうか!?」
前に見た映画のいたみを、あらすじですらないような冒頭を説明する文字列を見ただけで鮮烈に思い出せるような、ああそうだ。
寂しそうに見えたの。
あの日私は、たしかに今と似通った心境だった。もやもやごそごそと考えて、見捨てて、思い返して、見殺しにして。彼女の言葉にすべてを忘れようとした。幻覚だった。何もかもが。それでも世界でただひとつ彼女だけが。
「……ごめん。また今度でいい? 明日か、明後日とか」
「あっ、はい!」
「これ、連絡して」
メッセージアプリのIDをメモして千切って渡して、来た道を走った。駐車場を、階段を、廊下を走った。このマンションのエレベーターはその階に停まってでもいない限り、ボタンを押して呼んでから来るまでが遅い。
階段を駆ける。普段使わない筋肉が悲鳴をあげている。足が上がらないなんていう状態を初めて体験した。それでもつってない、しびれてない、まだ走れる。
カバンから部屋の合鍵を取り出そうと漁って、無駄だと気づく。ひとつのこと、階段を駆け上がることに集中したほうが早い。万が一鍵を落としたらタイムロス。
走る。もうずいぶんと夜なのに、きっと足音がうるさくしてしまっている。廊下は走らずお静かにと貼り紙があったような、横目で見ながら走る。急ブレーキで靴が削れたような気がして笑えた。息をついて、鍵を開ける。この夜が終わっても、赤い花はいらない。いらないから。
私の命がほんのかけらだけだとしても彼女のものになるように、そのなにかしらが彼女の中へ伝わってそのいのちになるように、魂を削るように、口づけをした。幻覚だった。消えた。