1 小坂のフルネーム
雨の季節も末期となり、最近土砂降りの雨が続いていたが。
今日は梅雨の中休みなのか、珍しく朝から晴れている。
「あー、体中から湿気が湧き出てそう」
渡り廊下を歩く薫の気分は、日向で干されている布団だ。
着ている制服もどこかジメッとしていたのが、だんだんパリッとしてきている。
やはりお日様の力は偉大である。
現在、昼休みが始まったばかり。
薫は今日弁当がなく、尚且つ寝坊してコンビニに寄る暇がなかったため、売店にパンを買いに行った帰り道。
美晴は弁当なので教室で待っているため、薫は今一人だ。
無事パンをゲットして美晴の待つ教室へ帰っているのだが、途中で例のヌシ猫を見つけてしまい、ナデナデしていたりする。
そんな薫だが、実はここのところ、ずっと気になっていることがあった。
――小坂先輩、下の名前はなんていうんだろう?
小坂は「小坂先輩」としか知らず、フルネームは情報が出回っていないのだ。
小坂とは一緒にいるのを見られることで、薫の普段の素行を疑われるのを避けるため。
そして先日の「不良狩り」のように、いらぬトラブルを招かないために、校内での接触をできるだけ控えている。
なので薫の方でも予防策として、小坂のスマホの登録名をただの「先輩」にしていた。
けれど「小坂」ではなく、下の名前だったらバレないのではないかと、先日思いついたのだが。
そこで下の名前を知らないことに気付いた次第である。
――うーむ、盲点だわ。
小坂と知り合ってから、教室や廊下で彼の話題が出ていることに気付くようになった。
昨日はどこかの不良グループを壊滅させたとか、とあるビルの地下で夜な夜な喧嘩相手を求めて戦っているとか。概ね小坂のイメージ通りの噂である。
薫は改めて、小坂の有名人っぷりを思い知った。
近寄ると怖いけれども憧れもある。それが小坂という男らしい。
――でも残念、先輩は昨日家にいたもんね。
弟への愚痴を文章では伝えきれずに電話で話していて、テレビの音がしたので、少なくとも喧嘩会場ではないことは確かだ。
けれどそんな話題は入って来ても、小坂の下の名前については誰も口にしてくれない。
調べようにも個人情報に厳しい昨今、図書館にも生徒名簿はない。
だからといって本人に「下の名前はなんですか?」とも聞き辛い。
これだけ会って話しておいて、知らないことにショックを受けられるかもしれないではないか。
「ねえ、気になり出したら、すっごく気になるよねぇ」
薫はヌシ猫の毛並みを撫でながら、話しかけていた。
ヌシ猫も雨が止んだ隙に日向ぼっこなのか、日当たりの良い場所でゴロンと転がっている。
「あの先輩のことだから、名は体を表すような厳つい名前だと思うの。
お前もそう思わない?」
「ウミャア」
鳴き声が「そうだね」なのか「そんなの知らん」なのかは定かでないが、興味がなさそうなのは間違いないだろう。
こうしていると、ヌシ猫相手に会話をしている怪しい女子だと思われかねない。
美晴も待っていることだし、サッサと退散するかと思っていたら。
「なにが気になるんだ?」
背後から声がした。振り返った先にいるのは、知った顔の大柄な男子だ。
「あ、矢口先輩こんにちわ」
「おう、にゃんこ」
薫はペコリと頭を下げると、矢口がひらひらと手を振る。
それに相変わらずのにゃんこ呼びだ。
――私はにゃんこじゃないですから!
けれど抗議してもたぶん矢口には通じないように思えるので、スルーするのがいいだろう。
それにしても薫のどのあたりが、にゃんこに見えるというのか。
背か、ちっちゃいのがにゃんこっぽいとでも言いたいのか。
「私、キミの仲間かなぁ?」
「ニャウ」
重たいヌシ猫を抱えて顔の前にもってくると、うっとうしそうな仕草が返ってくる。
少なくとも、このヌシ猫とのコミュニケーションはとれそうにない。
「で、なにが気になるんだって?」
ヌシ猫と戯れる薫に、矢口がもう一度同じことを聞く。
そしてふと気づいた。昔馴染みだというこの人なら、当然知っているだろう。
「えっと、先輩って、下の名前ってなんていうのかなって」
この薫の疑問に、誰のことかわかったらしい矢口はきょとんとした後に、ニヤアっとした顔になった。
「知りたい、知りたいか? 知りたいよな!」
――あ、なんか聞いたら駄目なヤツかも。
「いいですやっぱり」
そう断っても、矢口は止まらない。
「アイツの下の名前はな、雅美っていうんだ。雅に美しいでマサミだ」
薫の脳に衝撃が走った。
「雅で美しい!」
なんというか、小坂に抱く印象とは真逆の名前である。
「なんでまた、そんな優雅な名前になったんですかね?」
雅な世界で生きていてい欲しいとか、そういう願いでも込められているのか。
残念ながら当人は喧嘩に走ってしまい、願いは叶っていないようだが。
これにも、矢口が笑いを堪えるように答えた。
「アイツが生まれる前、親は女の子だと思っていたらしいぞ。
だから女の子の名前しか考えてなくて。
でも生まれたのは男の子だろう?
まあいいかってんで、そのまま付けたって話だ」
「うわぁ……」
名前なんて一生ものなのに、「まあいいか」で済まされた小坂が哀れである。
けれどこの瞬間、小坂の登録名は「まさみん」で決まった。
そんな小話をした後、急いで美晴の待つ教室へと帰る。
猫を触ったので、途中できちんと手を洗うのも忘れない。
「ごめーん、遅くなっちゃった」
薫は謝ったものの、待たされた文句を言われるかと思いきや。
「アンタ、ああいうのが好みだったの?」
弁当を広げ始めた美晴に開口一番、そう言われた。
「なにが?」
何の話かと首を傾げる薫に、美晴は窓から見える渡り廊下を指さした。
「あそこで、なんか筋肉ムキムキな男子と話してたじゃない」
どうやら矢口と話しているのを見ていたらしい。確かにここから丸見えである。
「ああ、あの人は猫好きの先輩。
あの猫と遊んでいると現れるの」
小坂のことを省いて上手いこと説明した薫は、早速昼食を食べようと、美晴の机まで椅子をガタガタと動かす。
「……最近ピンクな空気をしてると思ったのは、アタシの考え過ぎか」
なので、美晴の小さな呟きは聞こえていなかった。




