レオ:生まれてから死ぬまで、赤ちゃんの尊厳死12日
Leo's story
生まれてから死ぬまで・・いのちの砂時計
■初めての妊娠
8月1日はスイスの建国記念日。私とルーディは98年のその日、ヒルトンホテルのスイス建国をお祝いするパーティで出会った。とっても純粋で無邪気な彼がとっても好きになり、私たちはとっても気が合った。
それから1年後、「赤ちゃん欲しいね~」とお互い話し合い、すぐに妊娠。自分の子供はもうあきらめかけていたので、37歳での妊娠を信じられなかった。市販の検査薬の結果が信用出来なくて、別のメーカーの検査薬を買って再検査。
二人の不確かな未来が、子供と三人の確かな未来に変わった。毎日生まれてくる赤ちゃんの話をした。赤ちゃんには何語で話かけようか、英語?ドイツ語?やっぱり日本語?未来がこんなにウキウキ感じられるなんて、私の今までの人生で無かった・・・
妊娠の経過も順調で、悪阻もまったくなく、臨月まで仕事をしていた。
(糖尿病等の持病なし。体重増加はプラス7kg。妊娠中は、風邪さえも引かず、薬の服用一切なし。喫煙せず、お酒もほとんど飲まない。以前よりベジタリアンで、なるべく化学調味用や農薬を控えたオーガニック食品を取るようにしていた。スポーツも大好き。)
出産4日前のストレッチング
■出産の日
10月25日、茨城県のFクリニックにて「無痛分娩」で計画出産。無痛分娩は本当に楽だった。まったく痛みがない。分娩監視機のグラフで、陣痛の山を確認。「子宮口ずい分開いてる。本当だったら今ものすごく痛いんですよ」と先生。ちょっと痛みが強くなると、すぐ麻酔を追加してくれる。一度、ちょっとは我慢しようと麻酔を入れなかったら、そのとたん物凄い痛みが!今まで経験したことの無い激痛!すぐ麻酔のSOS。「フヘェ~、普通に赤ちゃん生むお母さんってすごい!尊敬しちゃう!」と私が言うと皆笑った。
さて、痛みがないから、うまくいきめないのか、なかなか子供が出てこない。そこで先生が吸引し、それでも駄目で看護婦さんがおなかをちょっと押したら、ブニュ~、といった感じで生まれてきた。しかし、例の「おぎゃ~」が聞こえない。手足も真っ青。「チアノーゼ?時間がかかっちゃたから、酸欠状態になっちゃたの~!」と思ったが、5分くらいして「おぎゃ~」というより「ふみゃ~」とか細い産声を上げた。
「ふみゃ~」が出るまで、本当に心配した。立ち会っていたルーディもこの様子を震えながら見守っていた。先生は「羊水を飲み込んじゃったから、念のためS医療センターへ連れて行きますね」と言った。しかしその後、そんなに状態悪くないと判断したらしく、医療センター送りは逃れ、一晩、保育器で様子を見ることとなった。
”レオくん、3115g。パパに似てるね。改めて、はじめまして!”
その晩、保育器のレオを見に行った。スヤスヤ寝ていて、顔色もよかった。看護婦さんも「糖水もしっかり飲んだし、大丈夫よ」というので一安心。「生まれて初めての”ドリンク”が砂糖水なんて、君はカブトムシかい?」とジョークを言うと看護婦さんも笑った。
■最初の診断「肺炎」
翌朝、「ちょっと熱があるので念のため、S医療センターへ連れて行きますね」と話があった。病院へ連れて行く前に、看護婦さんが私の病室にレオを連れてきてくれた。初めて抱っこする私の赤ちゃん。小さくて壊れそうで、でもどっしりしていて温かい・・・・本当にいとおしい。
生まれてすぐ、母子同室を希望していたのに、離れ離れで本当に寂しかった。でも念のためにちゃんと診てもらったほうがいいね、とレオを看護婦さんに戻した。
夕方5時ごろルーディが病室にきて、いっしょにSセンターへレオの様子を見に行くことにした。看護婦さんが「まだ外出は駄目です」などと言ったが「子供の具合が悪いのに、のん気に自分だけ寝てる親がいますか!」と強く言うと、先生に外出許可をもらってきた。
Sセンターに到着。迷路のような病院の建物の奥まったところにNICUがあった。そこのカウンターで誰に話をしたらいいのか、しばらく立っていた。看護婦たちは私たちの姿をモノ珍しそうに一瞥するのに、だれも声をかけてこない。いらだった私が、大きな声で「すみませ~ん!面会です!」と言うと、若い看護婦が椅子から立ち上がった。「ご両親以外は面会できません」「私がここに入院している山西レオの母親、こっちが父親です!」と指さして言うと、看護婦は、あ、そうですか、すみません、と言ってNICUへ入る手順を説明してくれた。「出産の次の日に母親が自ら参上するのって珍しいから、両親と思わなかったんじゃない。おまけにガイジンと一緒だし」とルーディに言った
保育器に入ったレオは、体中に点滴のチューブやモニターのコードを付けられていた。胃に通した栄養用の透明チューブが口から出ていた。そのチューブに血液が赤く逆流していて、とても痛々しく、思わず涙してしまった。管を入れるとき食道か胃を傷つけてしまったのね!レオは泣き疲れて眠りにおちたのか、目にはクリスタルの涙の粒が光っていた。
「レオちゃん、泣いてたのね。可哀想に・・・」と語りかけていると、近くにいた若い看護婦さんが言い訳するように言った。「レオちゃん、さっき点滴の針さして泣いちゃったの。でもすぐ寝たから」ああ!生まれてたった一日なのに、もう点滴の針さえ痛いと感じる!たまらなくなって、勝手に保育器の手を入れる窓を開け、レオの頭や手をなでた。注意されたらやめればいい、とルーディにもレオに触れるよう伝えた。ルーディは、横に落ちてしまった布団代わりの、みずぼらしいタオルをレオに掛けなおしてやった。
辛いね~、痛いね~、レオた~ん・・・・・しばらく保育器に張り付いていると担当医がやってきて経過を説明した。胸のレントゲン写真を見せながら「羊水を飲み込んでしまい、肺が感染していると思われる」「今、抗生物質かなにか投与してるんですか?」「まだ、細菌かウィルスか分からないので血液検査している。もしかして、髄液をとって調べなくてはならない、これは危険がともなうが、覚悟しておいて欲しい」
背骨に太い注射針を刺され、髄液を取られるレオを想像して、「え~!なんでそんな危険なことしなくちゃならないんですか!血液検査ではわからないんですか?!」と医者に迫る。「お母さん、母子手帳持ってますか?クラミジアとか大丈夫ですか?」医者は産道のクラミジア感染を疑ったらしい。「クラミジアもエイズも肝炎もトキソプラスマも全て検査して全てネガティブ(陰性)です。母子手帳に全て検査結果が記録されています。母子手帳は病院に渡してあります」「あ、そうですか」とバツの悪そうに医者は看護婦に母子手帳を持ってくるように伝えた。緊急医のくせに母子手帳も確認しないで、一日中ほって置いたのか!私は不快感をあらわにした。
とにかく、しばらくは経過を見るしかない、とのことで私たちはNICUを後にした。後ろ髪を引かれる思いでガラス越しに振り返ると、和やかに、笑いながらレオの保育器のあたりで作業をする看護婦と医者が目に入った。私たちはこんなに心配なのに、あの人達にとっては日常の一コマに過ぎないんだ・・・・。
■「重い心臓病」と診断
Sセンターから、私をクリニックへ送り届け、ルーディは自宅へ帰った。私が無痛分娩の出来るクリニックを希望したため、自宅からクリニックまでは車で一時間もかかってしまう。ルーディが家に着いたらすぐS医療センターの担当医より緊急の電話があり、すぐ病院へ来てくれとのこと。「今主人は、一時間かけて、やっと家に戻ったばっかりなんです。子供の具合がどうかしたんですか?」と尋ねると「実はお母さん、普通はこのような形でお伝えしないんですが、先ほどお話してみて、知識があるようなのでストレートにお話し出来ると思ってお話しますが、実はお子さん心臓の奇形があり、かなり重症です」
NICUの横の小部屋。担当医ともう一人循環器専門という若い医師と向かい合う。若い看護婦は勉強のためか、ノートと鉛筆を手に、講義でも聞きに来ているようだ。「何度もすみません。エコーの機械が昼間使えなくてやっと夜、心エコーしたんです」私たちがNICUから帰るとき、レオの保育器でなにやら作業していたのは、心エコーの準備だったのだ。医者は心臓の略図が印刷された紙をたどりながら説明をはじめた。
病名は「左心低形成症候群」・・・なんのこっちゃ??その時は私たちにもどれくらい重篤な病気なんだか、まったく分からなかった。医者は言った。「先天性心疾患は100人に一人の割合で生まれる。お子さんの状態は心臓病の子供を100人集めたらその中の重症10人に入るがその10人の中では比較的いい方」
ややこしい。とっさに計算が出来なくて、最後の”比較的いい方”、の言葉だけ頭に残り、一瞬、あ、よかった~、と思ってしまったが、よく考えると、最悪だ・・・・。
正に目の前真っ暗で、ルーディと私は涙をこらえることが出来なかった。医者が慰めるように続けた。「この病気でも、手術でちゃんと生活出来るようになります。オリンピックは無理ですけど。子供を産んでる人もいますよ」
■左心低形成症候群とは
その晩、私はクリニックへは戻らず、クリニックには事後承諾で自宅へ戻った。こんな時はルーディと一緒に居たい。その晩、病気に関してインターネットで徹底的に調べた。知らないことほど不安なことはない。日本のサイトでは情報が無かったので、海外のサイトをあたった。アメリカでは、年間1500人から2000人、左心低形成症候群の子供が生まれるとのことで、情報は多かった。
調べれば調べるほど、この病気の重篤さを知った。絶望的・・・・悪夢か?夢なら早く覚めて、ほっとしたい!その日は一睡もせず朝を迎えた。
ご存知かと思うが、単純に言うと心臓は右と左に分かれている。(右心は右房と右室、左心は同じく左房と左室とに弁で仕切られている。)右心には使い古しの血液が戻ってくる。そして左心は新鮮な酸素を含んだ血液を全身に押し出すポンプなのだ。左側が悪いのは致命的なのである。
母親のおなかにいる時は、赤ちゃんはへその緒を通じてガス交換している。肺を使っていないので肺経由で血液が回る必要がなく、肺動脈と大動脈を結んでいる”動脈管”という”バイパス”でショートカットしている。しかし、誕生して自分の肺で自力呼吸するようになると自然にこの動脈管は閉じていくのだ。自然の”からくり”は信じられないくらい精巧に仕組まれている。しかし、レオにとっては、この”からくり”がうまく機能することは、直ちに死を意味するのだ。
私のおなかにいるときは、レオはとっても居心地がよかったのだ。外に出たとたん、壊れた小さな心臓ポンプを使って、自力で呼吸をしなければならない。それは、正に息がつまるような、とても苦しい状況なのだ・・・・妊娠の後期に胎児エコーでこの病気が事前に見つかるケースもあるらしい。でも、分かったからって、一体どうしたらいいのか・・海外では中絶可能な期間にこの病気が発見された場合は、中絶をする場合も多いらしい。しかし、赤ちゃんは、おなかの中ではとても居心地がいいのだ。それを引きずりだして殺してしまえるのか・・・・しかし臨月まで育てても、死なせるだけ・・・・本当に何と言う病気なのか!
■いのちの砂時計
悪魔の病気・・・左心低形成症候群・・・・選択肢は3つ。ノルウッド手術、心臓移植、プロスタグランディンによる延命治療。(プロスタグランディンは、本来出生してから自然閉鎖する動脈管を広げておく薬。動脈管が閉じれば、レオは直ちに死ぬ。)
子供の心臓移植は日本では認められていない。(仮に認められていたとしても、私は受けるつもりはないが。)
よって20年ほど前にアメリカのDr.ノルウッドが生み出したノルウッド手術がたった一つの選択肢だ。しかし、この手術は大変難しい。使い物にならない左心の代わりに右心をポンプに大改造するのだ。死んだ人の肺動脈をパッチワークのように継ぎはぎして細い大動脈を太くする。そして、右心から伸びている肺動脈を切除し、代わりに形成された大動脈を縫い付ける。そして、右鎖骨下動脈と右肺動脈をゴアテックスで出来た人工血管で結ぶ。ふ~・・・・(ちなみに私のスノーブーツもゴアテックスだ。)
1回目の危険な手術が奇跡的に成功しても、最低でも3回の開胸手術が必要である。合併症も、もぐらたたきのように、次から次へ襲ってくるらしい。また全ての手術が成功しても、突然死亡してしまう例も多いそうだ。子供にはよくある中耳炎などでも細菌感染してしまい、心臓がやられるそうで、親は毎日綱渡りの生活を強いられる、と告白しているホームページもあった。
手術で心臓はよくなったが、重度の脳性まひになってしまったケースもいくつか聞いた。これでも心臓外科にとっては”手術は成功”なのである。”病気は治った。だが患者は死んだ”という格言があるが、ドイツ語でもまったく同じ格言があるとルーディは言った。古今東西普遍の理か?
アメリカでは、この手術が広く行われているようだが、10歳まで生きているケースはほとんど稀であるらしい。この3段階の手術も、結局は「バンドエイド」を傷口にとりあえず貼るような手術で、最終的な心臓移植までの姑息手術だ、と医者に言われたと、アメリカのあるサイトに書いてあった。
延命治療も子供を苦しめるだけだ。プロスタグランディン、利尿剤、強心剤、点滴栄養・・・・小さな体にこれら大量の強力な薬の副作用はつらい。薬を与え管理していても3ヶ月が限界だそうだ。そして、いつ何時、突然心臓が止まり、死んでもおかしくないらしい。また、仮に心臓がもっても肺がダメージを受け死に至る。あるいは腎不全や多臓器不全で、苦しみの果てに死が待っている・・・・・
また、赤ちゃんの成長は早い。2ヶ月、3ヶ月と大きくなるにつれ、痛みや苦しみにもより敏感になってくる。感情も育ってくるだろう。たとえ薬で3ヶ月間”育てる”ことができても、苦しませるために育てているようなものではないか。
この病気の知識を得た私たちは、話し合った結果、手術も延命治療も受けないことを決意した。アメリカのホームページで、同じ病気の赤ちゃんを自宅で看取った体験談を読んだ。死ぬときの苦しみもないそうだ。これならいけるぞ!(自宅で引き取れるぞ)。それが私たちの選択だった。
S医療センターの担当医が転院先をあたっていた。レオはS医療センターでは手に負えないので、専門病院へ搬送したいそうだ。私は担当医に電話で「この病気は助からないし、手術も受けるつもりもないから、自宅へ帰して欲しい」と強く要求すると「お母さん、そんなに急いで決めないで下さい。手術はしなくていいんですから。薬でちゃんと学校にもあがれるようになりますよ、安心してください」と間抜けなことをまだ言っていた。医学書でちょっと調べても、先輩の医者にでも尋ねれば、すぐ判る事だ。医師国家試験の問題にも出てるぞ。こんなに大丈夫と力説するくらいなら、一瞬、もしかして病名の診断ミスなのでは?と思ってしまった。
とにかく、自分でも出来る限り情報を得て、医者任せにしないことだ。基本的に外科医は手術が好きだ。日本では、無駄な手術、患者のためにならない医療行為が公然と行われていると医者自身も語っている。もちろん医者はプロなのだから、プロの知識と経験には素直に耳を傾けることは必要だ。しかし、判断の過程では、自分達も必ずパートをとる事が大切だ。そのためには知識を身に付けて、現実としっかり対峙する覚悟をもつことが必要だと思う。
時間がない!こうなったら一時でも早く病院から連れ出し、一緒に過ごしたい!この手でしっかり抱きしめたい!
レオ、待っててね!
■埼玉Kセンターへ転送
10月28日(土曜日)の午前に、、レオは埼玉県のKセンターへ転送された。なんとレオは茨城から埼玉まで、約50キロの道のりを、ドクターの”お供”をつれ救急車で搬送された。救急車サイレン鳴らしてた?とルーディに聞いたが、マイカーでのばらばらの出発だったため分からないと言った。
”レオたん、救急車に乗せてもらってよかったね・・・・男の子なら一度は消防車やパトカーに乗りたいものね!”
Kセンターは子供専門の病院だ。関東から難病の子供達が集められ、最新の治療が行われている。小児ガン、脳腫瘍、心臓病・・・・その他もろもろ悲運を背負いながらも、健気に生きている子供達・・・・こんなに大勢病気の子供がいるなんて・・・・・思わず息を飲んだ。エレベーターではハンカチで涙をぬぐう若い母親の姿に出会う。思わず私も顔を上げて涙が溢れないよう堪えた。
レオは、保育器から出され大型のコット(新生児用ベッド)でぐっすり寝ていた。(この病気は酸素濃度が高いとまずいので、本来保育器に入れてはいけないのだ。)体中にチューブやらモニターのケーブルを付けられていた。頭の方にさまざまなモニターが設置され、時々乱れた電子音を打っていた。
レオ・・・まだ生まれて間もないのに、なんという落ち着いた、しっかりした寝顔。パパ譲りの、翠がかった澄んだ瞳、小さなピンクの爪の一つ一つさえ、繊細な芸術品のように創られている。胃も肝臓も膀胱も全て、レオの人生のために完璧に準備されているのに!心臓が、心臓だけが、壊れている・・・・なんでちゃんと創ってもらえなかったの!ああこの子はもうすぐ死んでしまう!・・・・こんなのは悲しすぎる・・・・
手には点滴が固定されていて、自由に動かせない
■医者とネゴシエーション
埼玉Kセンターではまず、担当医より説明を受けた。左心低形成症候群でも、その程度には個人差がある。レオの場合は、かなり重症だった。左室部分が通常の半分から3分の1のの大きさしかない。左心が異常に小さいので、そこから伸びている大動脈も通常の普通の3分の一の太さしかない。
また僧帽弁もクローズしているとのこと。これでは、まったくポンプの役目は果たせず、酸素を含んだ新鮮な血液が全身に届かない。そうすると臓器に酸素が届かず、多臓器不全に陥ってしまう。穴の開いたスポイトで車のタイヤに空気を入れるようなものだ。いくら必死に脈を打っても空回り・・・・・やがて小さな壊れた心臓は疲れ果てて、息絶えてしまうだろう。(心不全)
医師には医師としての正直な意見尋ねた。「私たちは、何とかしてくれ、とか泣きついたりしません。どうか専門家としてのご意見を伺いたい。私どもが得た情報による手術も無意味なようですが」
「そうですね、手術をしても助けることは出来ません」医者はきっぱり言った。「成績がいいのは、Dr.ノルウッドのいる病院だけです」「たとえDr.ノルウッドが隣に居たとしても手術はしません」と私もきっぱり返した。
海外のサイトで、手術を受けた家族の手記を読むと本当に悲惨だ。ノルウッド手術の後、3回も4回も手術をした挙句に、2歳くらいで死んでしまう例が多い。2歳までの間に5回の心臓手術なんて・・・・生まれてから死ぬまで、ずっと痛くて苦しい思いを子供に強要するだけではないか。
私自身、15年前より、万一のときには延命措置は一切してくれるなと、尊厳死を家族に伝えてある。
この世に存在する全ての命は永遠ではない。遅かれ早かれ、必ず終焉を迎える。また、残酷だけれども、生きられない命も生まれてしまうのだ・・・・だからこそQOFを優先したい。
Kセンターでは一年間で20件の手術をしたそうだが、成功したのは2件とのこと。どの時点で「成功」というのか不明だが、論文などみると、とりあえず手術室から生還し、しばらくもったら”成功”とカウントするらしい。
(前に述べたが、この病気では最低3回の大きな手術が必要だ。根治手術ではなく、第一段階のノルウッド手術の成功を意味する。)
この病院の看護婦さんは若い方が多かった。若いせいか、忙しいせいか、ぞんざいな態度に時々カチッときた。一度あまりにも事務的な看護婦がいたので尋ねた。「あなたが結婚して赤ちゃんが生まれて、その子がこのような状態ならどうしますか?」その看護婦は点滴を取り替える手を止め、かなり長い間沈黙していた。そしてこ言った。「・・・・やっぱり手術はしないで、自宅に近い病院に入れてずっとそばにいてあげたい・・・・」
私たちは医者に自宅へ連れ帰ることを要求していたので、医者や看護婦に”煙たがられて”いたようだ。しかし、レオは私たちの子供。事務的にオムツをかえ、点滴を換えている人たちとは、想いが違う。私たちの希望をかなえて、後悔の無いようにこの子を逝かせて欲しい!
もし、どうしても駄目、というなら本気で子供を誘拐しようと考えていた。病院が警察に通報したら私は誘拐犯となるのか?自分の子供を誘拐して、指名手配か?こうなったらついでに身代金でも要求してやるぜ!とルーディに言った。二人ともばかうけ。でも私は真剣だった。
10月28日土曜日、担当医に自宅へ引き取ることを正式に申し出る。医師と向かい合った。担当医は「自分ひとりでは決められない。上司や病院側にも相談する必要があるから月曜日に回答を出します」と言った。その時の医者の態度からは、退院させてくれるような雰囲気ではなかったが、とりあえず、どうしても退院させたい、親の気持ちを理解して欲しい、と再度強く伝えておいた。
許可を万一頑強に拒否された場合は、弁護士に頼もうかと弁護士のリストや尊厳死協会の連絡先を用意していた。法律の本で親の権利を確認した。担当医が英語が出来ると看護婦が言っていたので、英語で話し合うことにした。ネゴシエーションの時は、相手の苦手な言葉で進めると有利に進むのだ。だから、重要な会議では、お互い英語が出来たとしても、必ず通訳を介して母国語で話す。私たちはいくつかの病院側の出方を想定し、準備万端で月曜日のミーティングに備えた。また、日本語ではルーディが完璧に理解できないので、英語の方がいい。
■退院決定
10月30日、午後ミーティング。病院の”お偉方”とかが同席するかと思ったら、担当医一人だけ。あっさり退院を許可してくれたので、ちょっとずっこけた。「これってもしかして、私のストーカー的行為に嫌気が差して、病院側もさっさと縁切りたかったからかな~」あとでルーディと笑った。
しかしすぐには退院は無理だ、金曜日にしてくれ、と言ってきた。何を呑気な!レオには時間がないのだ。私がもっと早く出来ないのか、と強く要求すると「じゃ水曜日で」とあっさり変更。出来るんなら最初から水曜日と言えぃっ!本当に親の気持ちを少しでも考えてくれているのか。確かにどこの病院での現場は大変忙しい。特に小児科は手間隙かかり、医者も看護婦も激務を強いられている。一人一人の患者の親に、いちいち気持ちを入れてはいられないだろう。しかし、時には自分が相手の立場だったら、と想像力を働かせて欲しい。
11月1日(水)朝いち(10:00AM)に引き取りに来れることになった。家に帰ったら、レオのために用意しておいたスイングラックに乗せたい。きっと気に入るはずだ。また可愛いベビードレスも用意されている。病院でひどくかぶてしまったおしりも、お手製ウオシュレットで治してやれる。レオはお風呂に入れないからね。自宅にレオが来ることで、私もルーディも素敵な想い出が出来る。その想い出に、レオが居なくなったあとのママは、救われると思うから。
”レオ、悲しい運命を背負わせてしまってごめんね。でも、ママとパパが精一杯のことをしてやるから、どうか悲しまないで・・・・・”
Kセンターでは面会時間のほとんどを交代でレオのそばにいた。30帖くらいの部屋には、レオの小さいベッドの他に、子供の大きさにあわせて大きめのベッドが左右の壁に沿って5つ並べてある。ベッドには名前と入院した日が書き込まれた紙のプレートがぶら下げられていた。9月XX日、とあったので、あ、先月から入院してるんだ、とよく見ると、平成11年、つまり去年の9月だ。・・・・一年も入院している。
別のベッドにも一年以上入院している寝たきりの可愛い女の子がいた。最初、遠目に見た時は、生後半年くらいかと思った。気管切開して、酸素テントに入っている。お日様にあたってないせいか、顔色が透けるように青ざめている。声もあげないし、まったく動かない。泣きさえもしない。しかし、こちらに向けたままの顔の、つぶらな瞳でこちら見ている。微笑んでいるような表情だが、強い視線が私を捕らえる・・・・・1才過ぎだったらもうハイハイ位はしているだろうに・・・誰かが面会に来ているのを見たことがない・・・ああ、神様!どうしてこんな酷いことをなさるのか!
■レオ退院の日
当日は渋滞を懸念して朝5時に家を出発した。岩槻インターを降りてからの国道はいつも朝大渋滞だからだ。一時間も無駄にしたくなかった。幸い朝の渋滞前に病院近くまで到着することが出来た。10時まであと2時間ちょっとある。
なぜかKセンターの周辺にはラブホテルが多い。病院から一番近いラブホテルで仮眠をとることにした。
部屋に目覚ましが無かったので、ラブホテルの受け付けの女性に、9時半のモーニングコールを頼んだ。Kセンターへ子供を迎えに行くから、必ず起こしてくれと念を押した。患者の家族がよく泊まるのか、受け付けは慣れた様子で「わかりました」と、ちょっと同情した声で答えた。私達は大切なレオを取り戻すという神聖な使命のためここに寄ったのだ。朝っぱらからラブホテルにしけこむような、みだらなカップルと、受け付けに誤解されたくなかった。
前日、私の母が心配して、マイカーで子供を運んで大丈夫なのかと電話してきた。救急車でなくていいのか、と。「この病気はいつ死ぬか分からない。車で運ぶ途中で死ぬかもしれない。自宅で死ぬかもしれない。数週間大丈夫かもしれない。でも必ず2,3週間以内には死んでしまう。誰も助けることは出来ないから。いずれにしろ救急車など頼んだところで、うちらのケースでは出動してくれないし、その必要はない」と答えた。
病室に行くと、点滴のチューブやモニターケーブルを一切外され、すっきりしたレオの姿があった。今までは本当に物凄い数の”スッパゲティー”が巻きついていた。抱っこも出来たのだが、チューブが絡まってうまく抱っこ出来ない。点滴の針がずれたらまずい。モニターケーブルが引っ張られてちょっとずれるとピー!ピー!!とものすごい警告音が鳴り出す始末。コードが絡み合って、どれがどれに繋がっているのかさっぱりわからない。これじゃまるでうちのビデオの配線状態だ。ん~っ!レオ君、君は、ビデオ君かいな~!
自宅から持参したおしゃれなベビー服に着替えさせると、レオは本当に可愛い。看護婦さんも「あら、可愛い~!」と寄ってきた。クーハン(取っ手つきの籠)に毛布をたくさん用意してレオを移した。相変わらずレオはぐっすり寝ている。
「レオちゃん自由になれますね」と看護婦さんが言った。「自由になれるといっても、レオはまだ未成年だから、お酒もタバコも、夜遊びも、楽しいこと何も出来ないんですよね~」
”本当に楽しいことを何一つ経験できずに死んでしまう!本当にごめんね!”
病院のロビーには、クーハンのバランスを崩して赤ちゃんを落としてしまうケースが多発しているので注意するように、とあちこちに紙が貼ってあった。病室の出口で担当医に会った。クーハンのレオを見て「それ、気をつけてくださいね。落としちゃうから」と言った。「そうですね。本元の病気で死ぬまえに、落ちて脳挫傷になっちゃたら大変ですからね」笑いながら私は答えた。すると担当医は「大丈夫です。隣は脳外科ですから」このブラックジョークに思わず私は大笑い。
■出生届けと火葬場
幸い道路が空いていて、一時間で家に到着した。レオはおとなしくずっと眠っていた。死ぬときも痛みはない、とは言え、突然断末魔の苦しみの状態に陥ったら・・・そこで、自宅からすぐのT大学病院に、万一の場合をお願いした。これで安心だ。
午後T大学病院へ連れて行き、担当のH先生にレオの状態を診せに行った。先生はレオを裸にし、心エコーで心臓の様子を念入りに見ていた。先生がほとんど”白黒の砂嵐状態”?のディスプレーを指しながら説明してくれるが、よく分からない。さまざまな角度の超音波写真をプリントしている。大学の講義にでも使うのか、帯状のプリントは床に付くほどの量だ。
特に何のコメントもなく、簡単な説明だけで診察室を出た。クーハンにレオを入れていると、看護婦さんが声を掛けてきた。レオの体重を記録したいからと母子手帳を貸してくれと。「あと1週間くらいなんですから、いいです」と笑顔で言うと「そんな・・・」と看護婦さんは戸惑った表情を見せた。レオは体重が全然増えていなかった。
母子手帳は、レオが確かにこの世に生まれたという記録だ。レオが私の中で過ごした順調な成長の7ヶ月が記録されている。母子手帳には6歳までの健康検査の記録が書けるようになっている。しかし、レオの記録は生まれたところで途絶え、一ヶ月検診のページさえも決して埋めらることはないのだ・・・・。
家に戻った私は、市役所からもらっておいた市営の火葬場のパンフレットを探した。いつ”その時”が来るか、わからないからだ。”焼く?・・・レオに火をつけて焼いてしまうのか!”気がふれてしまいそうだった。
・・・・・2日前、レオの入院中に、レオの出生届を出しに行った。医療費の関係で早めに出生届を出してくれと病院の事務から言われていたからだ。手続きも煩雑なのでルーディでは分からないだろうからと、自ら出向いた。産後たった6日だったので、市役所の人は私が代理かと思ったらしく、私の身分を聞いてきた。届を出しながら私は尋ねた。「1週間位で子供は死ぬ予定だから、焼場の手続きを教えて欲しい」役所のおじさんは、最初、私が悪い冗談でも言ってるのかと不審そうな顔をしていたが、私が事情を話すと落ち着きなく、しかし親切に説明してくれた。
つくば市では、赤ちゃん誕生のお祝いとして「おいたち」と書かれた豪華な(というよりケバい)アルバムをくれるらしい。「これ、とりあえず・・・」とおじさんは困ったような、ヘラヘラした笑顔で、そのアルバムを私に手渡した。
出生届の提出と同時に、その子供の火葬の手配を尋ねなければならない母親・・・・だれからも祝福の言葉はなく、同情されるだけの惨めな母親・・・・・その日は、地の底に落ちてしまったような、本当に悲しい一日だった。
■レオと過ごした日々
今日から自宅でレオと一緒にいられる!寝ているレオをクーハンから出し、しっかり胸に抱いてみた。やわらかくて、温かくて、輝いている。まるで宝石のようだ。宝石のような硬度はないが、輝きはダイヤモンド以上だ。ずっとずっと側にいて欲しい。
その晩は、私が寝ないでレオの側にいることにした。私たちが寝ている間にレオが死んでしまうと大変だ。ルーディは連日の運転で疲れている。また研究室にも、片付けねばならない仕事もある。レオはまだ薬が効いているらしく、状態はよかった。時々子猫のように泣いて、ミルクを求めたり、濡れたオシメの不快を訴える。私はすぐに飛び起き、泣き止ませた。泣く、というのはレオの弱った心臓には負担なのだ。
近頃、赤ちゃんが泣きやまないからと、ひどい虐待をしたり、殺してしまう親のニュースを耳にする。赤ちゃんが喧しいほど泣ける、というのは健康な証拠なのだ。なんであんな、赤ちゃんを殺してしまうような人たちに健康な子供が授かり、幸せな未来を与えることのできる私には、すぐ死んでしまう子供なのか・・・・。
レオのミルクの量とオシメ、熱を記録するシートを作って細かく記録していった。ミルクは普通の赤ちゃんの5分の一しか飲めない。ヌーク社製の哺乳瓶の乳首は、顎の発達を促すために赤ちゃんが強くすわなければミルクが出ないようになっている。しかし、レオの心臓では、強く吸うことは出来ない。そこでフォークの先で穴を大きくして、自然にミルクが流れ出るようにした。
おしっこも順調に出ているようだ。尿が十分出ないと心臓に負担がかかってしまう。病院では利尿剤の点滴で、常に体から余分な水分を排出するようにしていた。
■チアノーゼ
翌日の午後からレオの手足が紫色になり、氷のように冷たくなってきた。ひどいチアノーゼだ。血液中の酸素濃度が低いので、体の末端に十分な酸素が回ってないのだ。ミルクの飲みも悪くなってきた。夕方まで様子をみたが、改善されていない。夜間になってからでは病院も緊急外来になってしまって面倒だ。一般診療時間内に診てもらったほうがいいと、T大学病院に向かった。
担当のH先生はお休みとのことで、事情を知っている別の先生がレオの診療にあたった。私が「どうなんでしょうか。どのくらい苦しいのでしょうか?」と尋ねたが、先生は何と言っていいのか、という表情をして黙っていた。私は続けて言った。「例えばマラソンで40キロ走り終わった時の息苦しさでしょうか?」すると先生は答えた。「赤ちゃんがミルク飲めない、というのはとっても辛いことなんです。40キロのマラソン走り終わっても水は飲めるでしょ」私は高校時代の長距離マラソンのゴールの時の息苦しさを思い出した。それよりもずっと苦しい状態が、何時間も続いているなんて!・・・・・私は動揺した。その動揺を悟られまいと、私は自嘲気味に言った。「ほんとにもう、しょうがないですねぇ」すると先生は聖職者のように、穏やかな言葉で私を諭すように言った。「80年の命も2週間の命も同じ価値があるのです」
気を取り直して私は尋ねた。「苦しみを少しでも軽減できる方法はありますか。酸素とか与えてはまずいでしょうか」私は尋ねた。「あんまり酸素をやるのはまずいのですが、軽くあげれば良くなるかも知れません」「自宅で与えられる装置などありますか?」「ないんです。でもいま個室空いてますから、そこで酸素あげましょう」「私達も一緒に泊まれますか?」・・・私は、またレオと離れ離れになってしまうのかと不安な表情で聞いた。「大丈夫ですよ」私とルーディは個室に案内され、看護婦さんより一通りの説明を受けた。
■T大学病院
大学病院というと、研究主義で患者をモノとしかみない、といったイメージがあったが、この病院は違った。もうこの子はどうせ助からないんだから親の気の済むようにさせておこう、といった配慮からか、あるいはルーディが同じ大学の研究員だからか、私達は病院側の思いやりを感じた。
壁に埋めこまれた酸素の出口にチューブを差込み、ベビーベッドに寝かされたレオの胸のあたりにエアーの出口をテープで固定した。看護婦が部屋を出た後、どのくらい酸素が出ているのかと顔を近づけたが、エアーが出ている音もしないし、風も感じない。これちゃんと酸素が出てるのかな?と圧力メーターを見ると、針がゼロよりちょっと左に触れている。とにかく今晩はここで様子を見るしかない。まさかここで一晩過ごす羽目になるとは想像していなかったから、何も準備してこなかった。もう夜の8時過ぎだ。近くのコンビ二でおにぎりを買って腹ごしらえしてから、ルーディに頼んで家から必要なものを持ってきてもらった。
その晩も、私は寝ずにレオの様子をみた。ミルクをあたえオシメを取り替えた。眠気覚ましに、病院の窓のブラインドをちょっと上げてスライド式の窓を開けた。エアコンの排気音が、ゴーゴーと地響きのような不気味な低いうなりをあげていた。外を見ると向かいの建物の病室もいっぱい埋まっているようだ。この巨大な病院が患者で一杯だ。ああ、健康であるというのは、なんという奇跡なのか。
翌日、酸素のお陰か偶然かは分からないが、レオのチアノーゼは良くなった。酸素チューブを外して抱っこしていると先生が部屋に入ってきた。「いつ頃酸素、外したんですか?」と聞いてきた。「ちょっと前です。ずい分良くなったようなので」すると先生は「どうしますか?」と聞いてきた。「自宅に戻りたいのですが、可能ですか?」と尋ねると「じゃ、外出ということにしましょう」と書式を用意してくれた。そこには外出理由として”QOFの向上のため、と書かれてあった。
国立の大学病院なので、いちいち手続きが大変である。今退院、ということになると退院手続きが必要だ。すぐ舞い戻ってくることになれば、再度入院手続きで面倒で、外出というのはいい手段だ。しかし、私はもうここには戻ってきたくないな、と荷物を全てまとめて、ゴミも片付けて病室を後にした。
11月4日は土曜日。また、家で過ごせた。今日はルーディもずっと家に居るので心強い。ルーディはレオに上手にミルクをあげられる。穴を大きくした哺乳瓶の乳首もレオには辛そうだ。少しでも多くミルクを飲んでもらいたい。そこでルーディは乳首の上のほうを指でつまんでレオの飲み込むリズムに合わせて、ミルクを押し出してやる。”食後のゲップ”もルーディにお任せだ。
毎日レオの全身をチェックしていたが、今日はなんだかお腹が膨らんでいる。すわ”腹水”か!と思い念のため病院へ連れて行くことにした。聴診器を当て、触診をした結果、単なる”便秘”どのこと。そういえば糸こんにゃく数本程度ののウンチしかでていない。若い先生はレオの肛門を綿棒で刺激し、ウンチを出した。レオちゃんお騒がせね~。
その後、退院手続きを取り自宅に戻った。外出扱いは便利だが、外泊で部屋を使わなくても、一日5万円もかかるのだ。帝国ホテルのセミスイート並だ。例の綿棒ウンチの先生に尋ねた。「あとどのくらいもちますか?2,3日は大丈夫ですか?」若い先生は、気の弱そうな外見に反してはっきり言った。「今晩もつかどうか・・・・」私は冷静に答えた。「あ、そうですか。しょうがないですね・・・ずい分ぐったりしているんですが、今苦しみとかあるんでしょうか?」と気になる点を聞いた。「いいえ、無いです」先生は首を横に軽く振って答えた。「そうですね。ま、意識朦朧状態ですからね」私は寝ているレオに目をやりながら答えた。「どうも色々お世話になりました」私は笑顔で先生にお礼を述べた。
先生は続けて言った。「今回のケースはわれわれ医療関係者にとってとても勉強させられたケースでした。日本ではまだクオリティ・オブ・ライフの考えが一般的ではありません。赤ちゃんにとってお母さんのぬくもりが一番大切です。ご両親のぬくもりに包まれたお子さんは幸せだったと思います」静かで、よどみない台詞は、まるで死に行く人のベッドサイドで祈りを捧げる神父のようだ。
私をなぐさめるために言ってくれたのか、それとも本心なのか・・・本心とするなら大学病院なのにホスピスみたいなことを言ってもいいのかな?最近の大学病院は、患者のQOFや心のケアなどを考慮してきているのかな、と私は思ったが、それはどっちでもいいことだった。
退院手続きの請求書が出来るのに時間が掛かるそうで、しばらく病室で待っていた。そこへ婦長さんが訪ねて来た。テキパキとしていて典型的な婦長だ。「ここに座っていい?」とソファに腰を下ろし話をはじめた。「お話を聞いて、お母さん出産したばかりで、体のほう大丈夫かと心配してちょっと見に来たの」「ええ、私の体の方は丈夫過ぎちゃって・・・ぜんぜんダイジョブですなんですが、子供の方がねぇ~」すると婦長さんは言った。「以前ね、同じ病気で運ばれてきた赤ちゃんがいたの。うちじゃ手術できなくてT女子大病院へ送ったんだけど、手術の後、4ヶ月ずっと入院して亡くなってしまって・・・赤ちゃんも可哀想だけど、一度も赤ちゃんを抱っこ出来なかったお母さんが気の毒だった・・・・」
この婦長さんは、お嬢さんがまだ幼い時にご主人を亡くされ、大変苦労して大学病院の婦長にまで上り詰めたそうだ。今度は私がなにか適切な慰めの言葉を言わなければならないようだ。「大変でしたね・・・」ありきたりの台詞しか浮かばない。婦長さんは「とにかく体だけは気をつけてね。大丈夫、また赤ちゃん出来るし、大丈夫よ」と明るく言って私を慰めた。今晩あたり訪れるであろう、子供の死を受け止めねばならない母親を、担当医も婦長もはなむけの言葉で送り出してくれるのか。
■レオからのメッセージ
レオは生命力が強い子だ。無事”今晩”を乗り切って朝を迎えることが出来た。ルーディは仕事を片付けるため研究室へ出かけていた。疲れていた私は、レオに添い寝しながら、うつらうつらしていた。何かの声に目を覚ますと、隣のレオが目をしっかり開けて「あうー、あううぅ、あー」と、とっても可愛い声で喋っていた。目をしっかり開けていることはあまり無いので、急いでカメラを手に取り、レオにレンズを向けた。レオはまだお喋りを続けている。私はカメラを脇におき、レオをなでなでしながら話し掛けた。
レオたん、何が言いたいの?ママにはわからないよ。苦しいの?辛いの?・・・・・まだ死にたくないんだね。わかるよ・・ママもとっても悲しいよ・・・でも誰もレオを助けられないんだよ・・・・許してね・・・・
6日は月曜日。レオは、むくみがひどく、苦しそうだ。それでもミルクをゆっくり時間をかけて飲んでくれていた。おしっこもちゃんと出ていた。午後になり、時々目を開けたときの目の焦点が合ってなかった。それでも今まで通り一日の大半を寝て過ごしていた。ミルクは要求しなくなっていた。しかし、定期的に起こして口に流し込むようにして飲ませた。水分は欠かしてはならないのだ。
今日が山だ、と思っても、私とルーディが二人して、じっとレオを見つめていてもしょうがないので、私はルーディに仕事に行くように勧めた。ルーディは遅くても6時か7時には戻ってくるといって出かけていった。
レオの最期は間違いなく近づいているようだ。しかし、小さな壊れた心臓は、頑強に死にゆくことに抗っている。私はレオの体中を撫でた。蒙古斑の広がった小さなお尻、おちんちん、腿、足の指、臍の緒が取れたばかりのお臍、オッパイ、腕、肩、首筋、耳、頭、頬・・・・そしてレオの形のいい小さな唇にキスをした。
■レオの死
大体2時間おきに10ccとか20ccとかの僅かな量のミルクを与えた。まるで鳩が飲む水の量だ。飲んでさえくれれば生きられる!執念にも似た気持ちでミルクを飲ませつづけた。しかしミルクを飲むのさえ難儀なのか、すぐ疲れた様子を見せる。夕方6時30過ぎになった。そろそろミルクを与えなくては。残してもいいから一滴でも余分に飲めるようにと、ミルクはいつも多めに作った。
寝ているレオを胸に抱き、ミルクを与え始めた。哺乳瓶の乳首に反応して、ゆっくり吸うようにレオの唇が動いた。急がなくていいから、ゆっくり飲んでね。何時間かかってもいいから口を動かしいて、ミルクを飲み込んで。まだ生きられる証拠を見せて。哺乳瓶を空にして、ママを喜ばせて。
5分くらい経っただろうか。レオが突然乳首を口から離した。むせちゃったのか、と思って慌ててゲップをさせようと抱き起こした。するとレオは「あ」と小さく声をあげた。あ、どうしちゃったの!まだ死なないで!ゆすってみると一瞬目を開けたが直ぐに閉じてしまった。私は服を肌いて胸に手を当てた。いつもは荒い呼吸でヘコヘコしていた胸がまったく動いていない!レオー!!・・・・・・ミルクを飲みながら寝てしまった赤ちゃんのように、レオはひとり静かに天国へ旅立っていった・・・・
時計を見ると7時15分だった。レオはパパが約束の時間の7時までに帰ってくるのを待っていたけど、待ちくたびれちゃったのね。私は死んだレオの隣に横になり、レオの生きている時と変わりの無い温かさが残っている体を抱いていた。しばらくするとルーディが帰ってきた。ベッドでレオと横になって寝ている私に声をかけていた。私はレオが今さっき死んだことを伝えた。ルーディは言葉もなくレオを抱き寄せ、レオー!と泣きながら雄叫びのように呼びかけた。私達はレオを強く抱きしめて、涙が空になるまで泣きはらした。
9時になった。私達はT大学病院と打ち合わせていたように、死亡診断書をもらいに行かなければならない。事前に電話をかけ、担当医か、もしくは話が通っている医者が死亡診断書を書いてくれる手筈になっていた。自宅で赤ちゃんの最期を看取るケースは稀有なためか、救急外来に死んだ赤ちゃんを突然連れて行っても不審がられるらしい。救急外来に電話をすると、警備も兼ねる受付のおじさんは知らされていなかったのか、話が通じない。いかにも警備員の職務に忠実な怪訝そうな声だ。担当医に確認するから、と電話口でかなり待たされたが、その後の対応は、一転して同情じみたものに変わっていた。
レオは本当に死んでしまったのか。死亡の確認には医師が二人必要だ。担当医と、もう一人は見知らぬ若い医者が立ち会った。担当医はサスペンス・ドラマのシーンのように、瞳孔を調べたりして、マニュアル通りの手順で死亡を確認していった。
一通り終わると、ペンライトを手にしたままの医者は、襟を正して私の正面に大きく立ちはだかった。逃げようのない私に向かって、悲しげな声で、しかし有無を言わせぬ正確さで、レオの死を宣言した・・・・・
死亡診断書の記載事項 = 直接死因:左心低形成症候群
発病(発症)又は受傷してから死亡までの期間:12日
■レオへ
レオ、ママは謝りたいことがあるんだ。正直に言うよ。
遠いKセンターへ毎日面会に通っていた時、ママはとっても辛かった。レオは死へと向かっているのに、ママにはそれを止めることが出来ない!こんなひどい目にあうために苦労して出産したのか。産後の出血もとまらず、胸はレオに飲んでもらえないのに、勝手にどんどん張ってきて、乳腺炎にもなってしまって、ひどく痛くて・・・・また、医者たちはレオを家へは帰せぬと頑強に拒んでいる。どうして、みんなして、私からレオを取り上げようとするの!気がおかしくなりかけていた。レオを取り戻すために、医者の前では冷静で落ち着いた母親を演じていたけど、悲しみが過ぎて、それがやり場のない、物凄い怒りに変わってきて・・・一瞬、とても酷いことを考えてしまったの・・・・・
私がこんなに精神的にも肉体的にも苦しまなきゃならないのは、子供がこんなひどい病気をもって生まれてきてしまったからだ。
生まれてすぐに死ぬしかないような中途半端な病気なら、どうしてもっと早いうちに流産してくれなかったんだ。
万全を期してカラードップラー(胎児の心臓の、血液の流れがカラーでわかる超音波)や3Dの最新設備を整えてあるクリニックに高い診療費を払って通っていたのに、どうして最悪の心臓病を見つけることが出来なかったんだ。アメリカじゃこのような設備が整っているクリニックでは、18週くらいで見つけられる例もあるのに。まったくとんだヤブ医者だ。早く見つかっていれば中絶することも出来たのに・・・
でもレオ、信じて。その怒りは一時の気の迷いだよ。レオがママとパパに逢いに来てくれて本当に嬉しかった。レオがお腹にいる時も、病院にいる時も、家にいる時も、信じられないくらい、いとおしかったよ。
”レオと一緒に自宅で過ごしたい!”ママとパパの願いをかなえるために、レオは心臓苦しいのに一生懸命がんばって2週間生きてくれたね。
レオは、自分が生まれてもすぐ死んでしまう運命と知りながらも、ママとパパに逢いに来てくれたんだね。本当にありがとう。苦しかったね。本当にごめんね。
天国でレオに逢える日を楽しみにしているよ。その日まで、ママとパパは神さまに決められた運命をしばらく歩き続けるよ。レオ。必ず行くから、待っててね。
レオ、本当にありがとう。一番好きだよ。
●お礼●
全ての病院関係者の皆様、またご心配下さった方々に、この場を借りて心よりお礼申し上げます。
Leo、I love you so much !
A moment in our lives, but lifetime in our hearts.