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くれなゐはかへりて

作者: だんごむし

 秋の絨毯、紅の踊り、子どもたちの笑い声、あるいは──


 穐山は頭上からひらひらと降ってくる無邪気な笑い声で目を覚ました。重い瞼を押し上げればぼんやりと靄がかかった視界に女性の顔が映りこむ。一重瞼の切れ長の目に東洋人らしい丸い小ぢんまりとした鼻、唇は燃えるようにぱっと色づいていて、ざっくりと肩口で切りそろえられた黒髪との対比が映える。首元に目を移せば着物を着ているようで、特徴的な襟元が印象深い。しかし穐山にこのような知り合いはおらず、また話に聞いた事も雑誌やテレビで見たこともなかった。彼女は穐山の顔をしげしげと眺めるように覗き込んでいる。彼が起きたと知ると、少し目を細めた。

「お兄ちゃん起きはった?」

 存外子供っぽい声は先ほどの笑い声と同じ調子を含んでいた。どうやら声の主は彼女のようだ。ゆっくりと上体を起こす穐山の後頭部から真っ赤な紅葉が一枚ひらりと舞い落ちた。周りを見れば一面の紅葉、紅葉、紅葉である。地面がそっくりそのまま落ち葉にすり替わってしまったかと思うほどにぎっしりと、そしてどこまでも橙色の紅葉が敷き詰められていた。ここは紅葉の林であるらしい、というのも見渡す限り紅葉の木が乱立していて果てが見えなかったからである。地面がこれほどまでに紅葉に侵されているのも納得できるほど多くの木が穐山を見下ろしていた。複雑に交差する枝の隙間から見える空は薄い青色に透き通っていて、まるで真っ赤な焔の中でアクアマリンの宝石が舞い踊っているかのようだ。

 その光景に穐山は、自分が紅葉狩りのためにある山を訪れたことを思い出す。自然の中を散策するのが趣味だった彼は秋の連休を利用して地方の観光地に足を運んだ。そこは山一面を覆う艶やかな紅葉が有名な観光地で、ローカル線を何本か乗り継がなくてはならないという楽しい手間の事もあり通の間では非常に人気が高い。穐山もその一人であった。毎年この時期になると小旅行を計画し、駅弁を食べたり、田舎の駅特有のがらんどうぶりを眺めたり、人がまばらな山道を音を立てて歩いたり、そういったことに喜びを感じる。

 彼は今年も心待ちにしていた小旅行の、まさにその最中にいるはずであった。しかし山に入ったところまでは覚えているものの、それ以降の記憶が曖昧だ。手元をよく見てみれば愛用の鞄もどこかへ消えてしまっている。携帯も財布も全て入れてある鞄だ、失くしてしまうと取り返しがつかない。彼は慌てて周囲を探すが、そこにはふかふかの紅葉以外には何もなく途方に暮れるしかなかった。

「起きはったと思ったら随分忙しないんやなぁ」

 女性がしゃがんだまま頬杖をついて呆れた、といったふうにため息を吐いた。細長の目がもっと細められて一本の線のようになる。彼女は穐山に向かって手を差し出し、彼の手首を掴んで立ち上がらせた。突然のことに動揺する穐山の目線の三十センチ以上高い位置から彼を見下ろして、彼女はにっと笑う。それは親愛の笑みだったのだが、彼はとって食われるのではないかという非現実的な恐怖を覚えた。彼の恐怖や戸惑いなど露知らず、二メートル近い体躯をひょいと曲げた女性はまた嬉しそうに笑う。

「うちはな、お兄ちゃんにお礼しよう思ってるんよ」

 身長と容姿に似合わぬ子供らしい笑顔であった。穐山は彼女の言葉を反芻しながら何とか質問をひねり出そうと必死である。ここはどこなのか、あの山のどこかなのか、どうして自分は眠っていたのか、鞄を知らないか、彼女は誰なのか──沸騰した湯のあぶくのように浮上しては消える質問の束がもどかしかった。その間にも「行こうかぁ」と手を引かれ、穐山は彼女に攫われるがまま林の奥へ奥へと足を踏み入れるのだった。彼らの歩いた後には、小さくて一際鮮やかな赤い紅葉の葉が点々と落ちている。


 たどり着いたのは空き地であった。広場と言うほどには広くなく、しかし密集していたはずの木々はそこだけを避けるようにそっと周囲を取り囲むだけに終わっている。そして驚くべきことに、そこには茶会の用意がされていたのだ。白いテーブルクロスは目に眩しく、卓上のティーポットはほんのり湯気を立てている。少しだけだが菓子の乗った皿が置いてあるのも確認できた。椅子は二脚で、カップや菓子も二人分、穐山を招くことが最初から決まっていたかのようなセットに彼は面食らってしまう。彼女は空き地の中央に躍り出て、またあの顔で得意そうに穐山を見つめていた。

 五本の指で手招きされて穐山はふらふらと茶会のセットに近付いていく。戸惑いや驚きこそ彼の頭上でぶんぶんとうるさく騒ぎ立てていたが、不思議と警戒心だけはなかった。二脚ある椅子の片方に腰掛けると滑らかに磨かれた木の感触が着衣越しに伝わってくる。深い茶色の木を使いシンプルに仕上げられた椅子は彼には少し大きかったが、彼女には少し小さかった。どこか歪な空気が漂っているが、二人がそれに気がつく様子はない。

「このお茶会がうちのお礼や。さぁ、食べてな」

 彼女が勧めるがままに紅茶を受け取り、菓子に手を伸ばす。赤茶色の紅茶は程よい温度まで温くなっていて飲みやすい。小さな丸いクッキーは手作りなのだろうか、一つ一つ形が微妙に違って可愛らしかった。口に含めば鼻の奥までぬける香ばしさと少しの酸味──すぐにママレードのジャムだと分かる──が秋らしい成熟した爽快さをもたらす。もう一つ手を伸ばせば、今度はクッキーのほろほろとした食感の合間に木の実の甘い硬さが顔を覗かせてくる。食感の違いは心を楽しませ、自然がもたらす甘味はそっと舌を包み込んでくれた。合間に飲む紅茶は濃厚なストレートで、クッキーの味の輪郭を際立たせる。紅茶自身が奏でる芳醇な香りは何層ものヴェールのように深く複雑で、思わずため息が漏れてしまう。

 を紅茶を飲みながら「あの、ここはどこで君は誰なんだ」と尋ねてみれば目の前の女性はまたふにゃりと脱力した笑みを見せてくれた。

「そないなこと気にしてたん? ここはどこでもあらへんし、うちは誰でもあらへんよ」

「からかわないでくれよ、そんな事はないはずだ。だって、僕には自分からここに来た記憶なんてないんだから、普通の場所じゃないだろう。それに君なんて知らないぞ」

「じゃあ忘れとるんやぁ、変なの!」

 彼女は心底おかしいといった風に大きな声を上げて笑った。周りの紅葉の木がざわざわと揺らいで、彼らも穐山を笑っているかのようだ。だからからかわないでくれ、と身を乗り出し声を荒げる彼の後頭部から、今度は数枚の紅葉がひらひらと舞って落ちる。白いテーブルクロスの上に血のような赤色がぱっと咲いた。女性は枝のような指でそのうちの一枚を摘み上げて自分の紅茶に浮かべるとうっとりとした表情をした。

「あなたはうちにくれたんよ、忘れとってもそれは変わらへん。だからお礼するんや」

 赤い海に浮かんだ小船を彼女は口に運ぶ。恍惚の笑みを口の端に浮かべ、頬を上気させて女はその葉を食べてしまった。舌が穐山を誘うようにちろりと悪戯っぽく覗く。

「本当に忘れてしもうたん?」

 人を食う鬼のような笑顔だった。人を害することを知っていながら悪意だけがすっぽり抜け落ちたかのような無垢な笑みだ。穐山は椅子から滑り落ちて地面の上で怯えた。逃げようとする意思に反して腰には力が入らない。また一枚、一枚と彼の後頭部から赤い葉が落ちる。彼女はその様子を得物を見る獣の目で見つめているばかりで、彼を助けてやろうという意思はない様子だ。そよ風に揺れる彼女の着物を見て穐山はふと既視感を覚える。

 秋の絨毯、紅の踊り、子どもたちの笑い声、あるいは──風に舞う紅葉。散策の最中、突風で舞い上がった紅葉の絨毯を彼は見たはずだった。踊り子の舞のように艶やかに舞い上がったそれを見た彼は、驚いて足を踏み外し転倒したのだ。後頭部に感じた鈍い衝撃と、笑い声のような紅葉のさざめきがその記憶の最後である。もしや、と考えた穐山の顔が歪み青くなる。

「おいしかったわぁ。お兄ちゃんもおいしかったやろ?」

 空になった皿の淵を人差し指でなぞりながら女は言う。紅葉の葉と同じ色の着物がその動きに合わせて揺れ、枝のように細い腕がそれを撫でつける。彼女はもう茶会はしまいだと言いたげな視線を穐山に投げてよこし、もう一度おいしかったと呟いた。穐山はその笑顔から目をそらすことができなかった。


 とある山のとある紅葉の木の下では、後頭部から血を流した一人の青年がいまだこんこんと眠っている──

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