第九話 灯醒志の過去
抑霊衆の拠点へと向かっている途中、背中にいる巫がふと、僕に聞いてきた。
「そういえば、聞きたい事があったのです。あの河原で、何故麻布さんは、命を張ってまで助けてくれたのですか? 知り合うどころか、まだ何の接点もなかった私を」
そうだ。そういえばまだ話していなかった。僕が身勝手にも、あの場に飛び込んだ理由を。
「すみません、失礼な問いですよね。もちろん、話したくないのなら話さなくてもいいです。ただ少し気になっただけで、深い意味はありませんので――」
「いや、話す。話さなくちゃならない。
あの時僕が二人の間に割って入ったのは、善意どころか偽善ですらなく、ただの浅ましい自己救済だった事を。
もっとも、こんな話をしたら僕は軽蔑されるだろうし、されて当然だ。
でも僕がそういう軽蔑され得る、最低最悪の人間だって事は、どの道このまま隠し続ける事なんて出来ないし、しちゃいけないから」
だから僕は、話さなくてはならない。
僕の後悔を。そして、僕の罪を。
「そうですか……。では、聞かせてもらいます、麻布さんの話を。でもその前に一つだけ、言っておかなければならない事があります」
巫は、優しく、それでいて力強い声で言った。
「私は絶対に麻布さんを軽蔑しません。
そこにどんな理由があったとしても、麻布さんが私を助けてくれたというのは歴然とした事実ですから。
感謝こそすれ、軽蔑するなんて事ある筈がないのです」
ああ――そうか。これが巫という少女だった。神様なんかよりもよっぽど強く、尊く、そして優しい。
そんな巫の言葉はあまりにも眩しすぎて、僕には心苦しかった。
だから僕は、そんな感情を振り切るように口を開く。
「僕があんな行為をしたのは、ある人の面影を巫に重ね合わせたからだ。名前は十六夜妃香華。僕の幼馴染みだ」
幼い頃、僕と妃香華はよく遊んでいた。
僕にとって妃香華は特別な存在だったし、妃香華も僕の事を慕ってくれていた。妃香華と共に過ごす時間は、他のどんな時間よりも楽しかった事を、今でも覚えている。
しかし、それも幼い頃だけの話。学年が上がるにつれ、だんだん一緒にいる機会も減っていき、中学に上がった頃には、ほとんど話さなくなっていた。
そして、中学二年の時、僕は妃香華がいじめられているという噂を耳にした。
それを聞いた時、不意に僕は、幼い頃の妃香華との約束を思い出した。妃香華が困っていたら、僕が絶対に助ける。昔、僕は妃香華にそう言った事がある。
でも、あんな昔の約束など妃香華はもう覚えていないかもしれない。なら、僕が助ける必要はないのではないか。
それに、妃香華と僕は別のクラスだ。スクールカーストがあまり高くない僕にとって、他クラスの問題に介入するのはあまりにもハードルが高かった。そんな事をする勇気もなかったし、もしそれで標的が妃香華から僕に代わってしまったらという恐怖もあった。
そうやって僕は、妃香華を助けるか助けないか、その二つの選択の間で揺れていた。
そんなある日、僕が廊下を歩いていると、妃香華がこちらの方へ向かって歩いてくるのを見かけた。このまま歩いていたらすれ違う事になるだろう。
その時に、さりげなく話しかけてみようか。思いきって、噂の真偽を確かめてみよう。
いや、でも久しぶりに話すというのに、いきなりそんな話を切り出すのは変に思われるんじゃないのか。
大体、何と聞けばいい? まさか馬鹿正直にいじめられているのかとか聞けるわけがないし、だからと言って、そんな事を自然に尋ねるような話術など僕にはない。
そうやってうだうだと考えていると、妃香華もこちらに気付いたのか、俯いていた顔を、徐に上げた。そして、おずおずと僕の方を見てくる。
どうする。
話しかけるなら今しかない。
自分の事など考えず、妃香華を助けるべきか、それとも、妃香華を見捨てて自分の学校生活を守るべきか。
どうする、どうする、どうする――
そして僕は――目をそらしてしまった。その行為が、最低なものだと知りながら。
そのまま、僕と妃香華はすれ違う。その亀裂は、決定的だった。
僕は結局、自分の事しか考えていなかったわけだ。
それでもまだ、次の機会に今度こそ話しかけようなどと、そんな風に考えたりもしていた。
考えるだけで、実行に移す勇気などなかった癖に。
そもそも、次の機会など永遠に来なかった。
何故なら、その後のある日、妃香華は自殺してしまったからだ。
「最低な話だろう? 僕は妃香華を見捨てたんだ。その結果、妃香華は死んだ」
妃香華の死を知った時の感情は、あれから三年経った今でも、変わらず僕の中にあり続けている。
僕が何か行動を起こしていれば、妃香華は死なずに済んだかもしれない。それなのに、結局僕は、妃香華に何もしなかった。
その後悔が、僕の頭の中にずっと渦巻いているのだ。
僕は何もせず、結果、妃香華は死んだ。他のどんな事よりも、神になった事と比べてさえも、あの出来事は、僕の人生で一番衝撃的だった。
「これがあの場で巫を助けた理由だ。
妃香華の時のように、僕が関わらなかったせいで、見てみぬ振りをしたせいで、誰かが死んでしまう事に耐えられなかっただけ。妃香華を見捨てたあの時と違う選択をした事で、少しでも気を晴らそうとしただけだ。
巫を助けようとしたのでも、妃香華を助けようとしたのでもない。僕自身が、楽になりたかっただけなんだ……っ!」
ずっと胸の内に秘めていたものを言葉にしたからだろうか、感情があふれて止まらない。頭が熱を帯び、思考すらままならなくなっていく。
その所為か、僕は反応が遅れてしまった。
「麻布さん、危ない!」
巫の声で我に返ったときには、既に攻撃を喰らっていた。
「がは……っ!」
僕の身体は飛ばされ、その衝撃で背中の巫も落ちる。
「きゃ……っ!」
「巫!」
急いで立ち上がり、巫のもとへ駆け寄ろうとした時、周囲に得体の知れない存在が浮かび上がった。
それは人の形に似ているが、しっかりとした輪郭を持っておらず、さながら蜃気楼の如くぼやけている。加えて、全身がどす黒い靄のようなもので覆われており、嫌な気配を放っていた。
一体何なのかさっぱり分からないが、しかし、悠長に正体を探っている場合ではない。何故なら、何者かが巫に襲い掛かっていたからである。
今、巫は戦える状態ではない。急いで助けないと。その一心で、僕は神器――妙刀・神薙を召喚した。
途端、その黒い存在が襲い掛かってきた。迎撃するため、僕は躊躇わずに神器を振るう。しかし、その判断は完全に誤りだった。
神器の刀身がそれに触れた瞬間、何かが僕の中に流れ込んできたのだ。いや、それだけなら驚くに値しない。僕の神器は触れたものの霊力を吸い取り、その能力を自分の力として使う事ができる。だから触れたものの霊力が、僕に流れ込んでくるのは当然なのだ。
だが、それは吸い込んではいけない類の霊力だった。
「があああああ……っ!」
黒。黒。黒。黒。黒。黒。視界が黒よりも尚黒い闇に塗りつぶされる。
その闇が、至る所から僕の体に、そして心に入り込んできて、自分の存在が、侵食され、腐敗し、溶けていく。
憎い。痛い。苦しい。憎い。辛い。憎いにくいニクイ憎い――
否。これはただの闇じゃない。極限まで研ぎ澄まされた、人間の負の感情の集合体だ。
あまりの苛烈な責め苦に、思考が塗り潰されそうになる。僕という存在そのものが溶けていき、別の何かへと変貌していく――
このままではまずい。僕の意識が完全に飲み込まれてしまう前に、何とかしなくては。
侵食してくる闇を振り払うように、必死で考える。
おそらくこの闇は、僕の神器の権能で吸い取ってしまったもの。
それならば、この神器のもう一つの権能――つまり、吸収した霊力を自分の力として利用する権能を用いればいい。そうすれば、この悍ましい闇を外部に放出できる筈だ。
「ガッ、ああ、はあ……っ!」
必死の思いで、闇を外部に放出する。
刹那、視界から闇が消失した。しかし、未だに体が重く、意識も少しずつ薄れてきている。
それでも何とか顔を上げると、男が気絶している巫を担ぎ上げているのが見えた。
「思っていたよりも復帰が早かったな。だが、ギリギリでこちらの手の方が早かった。おまえの動きは今、完全に封じられている。じきに意識も落ちるだろう」
その男は、視線をこちらに移しながら言った。要するに、僕があの闇を吐き出すのに四苦八苦している間、拘束術式か何かで僕を縛ったという事か。
「おまえは、一体……?」
「私は中住古久雨。いずれ抑霊衆を、いや、伊梨炉秀を超える男だ」
そこまで聞いたところで、僕の意識は完全に落ちた。