第四十六話 死者への想い
激情に突き動かされ、暫く咽び泣いていると、少しずつ、頭が冷えてきた。
「秋空……」
目の前で倒れている男に呼びかける。
当然、返事はない。
少し触れると、その体は異様に冷たかった。
既に死んでいるようだ。
やはり、ラプラスの悪魔を抑えるのに相当な無茶をしたようだ。
ラプラスの悪魔が憑いていたのが、もし秋空でなかったのなら、こういう形での勝利は出来ず、世界の理は改変されてしまっていた事だろう。
しかし、秋空のおかげで、ラプラスの悪魔を倒す事が出来た。あとは、世界の理を元に戻すだけ。
伊梨炉秀からもらった御札を使えば、何とかなるらしいが……
「とにかく、行こう」
そう言って、立ち上がる。
神としての力を失った生身の身体の感覚は、酷く懐かしく思えた。
秋空は、世界の理のすぐ近くに陣取っていた。よって、世界の理はすぐそこだ。
手遅れにならないうちに、世界の理を元に戻そう。
そう思い、僕は一歩を踏み出した。
その時。
「なんだ……?」
世界の理に、変化が起きた。
なんというか、禍々しい色に変色したと言うか――
いや、この感じは、嫌という程知っている。
これは、悪霊だ。
悪霊の怨念が、世界の理に影響を及ぼしている――?
「まさか……!」
慌てて、僕は世界の理の間近に視線を移す。
そこには案の定、一人の男がいた。
悪霊に並々ならぬ執着を見せる男。
そして、黒霊衆を裏切ってまで、僕と妃香華を庇ってくれた男だ。
つまり――
「玖導、励志……」
その男の名を呼ぶ。
今まで、自分も含めて、傷だらけの状態の人間は何人も見てきた。しかし、今目の前にいる玖導は、その誰よりもボロボロだった。
もはや生きている事が奇跡と言っていいレベルだ。何故この男は、こんな状態で、まだ立っていられるんだ?
だが、だからと言って油断はできない。今訊くべき事は一つだけ。
「この、世界の理の変色。おまえの仕業か」
「そうだ。俺が集めた霊の怨念、その全てを、世界の理に組み込んだ」
並々ならぬ決意を秘めた表情で、玖導は言った。
だが、怨念に多大な干渉をされて出来た新たな理を元にした世界。そんなものは――
「どうなるか分からない――最悪、死者の怨念によって、全ての生者が死をもたらされる世界となってもおかしくないぞ」
「それが死者の想いだと言うのなら――生者はそれを、肯定すべきだ」
「悪霊の怨念は、その霊の生前の想いがそのまま反映されたものとは限らない。穢れによって変質してしまったものだ」
「それでも、もととなっているのは、死者の魂そのものである事に違いはない。
それともおまえは、悪霊が生前の人物と全く無関係の別物であると言うのか? ならば何故おまえは、あの霊を助けた?」
「それは……」
それを言われてしまうと、こちらとしても言い返せない。
悪霊となった妃香華に攻撃された時、僕は抵抗しなかった。それは、当然の報いだと思っていたからだ。
その点において、僕と玖導は同じ。死者から恨みをぶつけられる事を受け入れている――どころか、渇望している。
だからこそ、僕は玖導のあまりにも歪んだ思想に共感できてしまう。こいつの望みは、かつて僕の望みでもあったのだ。
だけど――
「それでも僕は、おまえを止めるよ」
僕は、そんな感傷を振り切って、言い放った。
「たしかに、おまえの言う通り、生者に恨みをぶつけたい死者もいるのかもしれないし、霊がその権利を持つのは当然かもしれないけどさ」
かつての自分ならば、玖導の言葉に納得していたかもしれない。けれど、今は――
「妃香華は最期に、僕を助ける道を選んでくれた。僕の事を恨んで当然なのに、それでもだ。そういう死者もいるんだよ。
そして僕は、妃香華のように、生者の事を助けてくれる死者の気持ちも、大事にしたいんだ」
「それは、恨みを押し隠し、無理をしていただけなんじゃないのか?
悪霊の時こそ、死者は胸に秘めていた恨みや鬱憤を、抑える事なく出す事が出来る。だから、悪霊の怨念にこそ、本当の死者の想いが詰まっていると――そう思わないか?」
「もしかしたらそうかもしれない。でもさ、その恨みつらみを抑え込んだ、その想いだって、想いである事に違いはないだろう」
思えば、最初からそうだった。
妃香華は、悪霊となって僕を襲った時も、すんでのところで、その攻撃を止めたのだ。
悪霊を突き動かす、恨みの衝動。それを、自らの意志で押しとどめて。
妃香華は、自らの怨念に打ち勝った。同じように、自らの怨念に逆らおうとする死者もいる筈だ。
僕の魂の中に妃香華がいるのなら、その想いを受け継がなくてどうする――!
そんな僕の想いを受け、玖導は――
「そうか――おまえの考えは分かった。いくら説得しようと、その心が変わらない事もな。だが、それは俺とて同じ事。ここを通す気はないぞ」
そう言って、ボロボロの身体を動かし、臨戦態勢をとった。
対して、僕も拳を握る。
「なら、力尽くで押し通るまでだ」
「そうか。ならば俺は、全霊を以て止めるまで」
僕は既に神としての力を失い、ただの人間に戻っている。
対して、玖導も自らの力としていた悪霊の怨念すべてを、世界の理に介入させている。つまり、特殊な力は使えない、普通の人間だ。
違いがあるとすれば、身体の状態。
妃香華のおかげか、僕の身体は、傷を負う前の普通の状態になっている。対して、玖導は手負いだ。どころか、生きているのが奇跡としか言えないような、酷い重傷である。
そんな状態にも関わらず、こいつは僕を全霊で止めようとしている。一体、どれ程の胆力の持ち主なのか。
ああ――でも、たしかに分かる気がする。
だって、もし僕が同じ立場だったのなら、きっと同じ事をするだろうから――!
「うおおおおおっ!」
僕は、玖導に向って思いっきり殴りかかる。
やはり重傷で上手く体が動かせないのだろう。フェイントも何もない僕の愚直な拳は、玖導の顔面に届いた。
「……ッ!」
玖導の身体が、崩れ落ちそうになる。
しかし彼は、その両足に力を籠めて耐え切り、
「おあああああっ!」
僕の腹に、拳を叩きこんできた。
「が……は……っ!」
重傷の人間とは思えない、鋭い一撃。
やはり、この男の執念が、そして想いが、力となっているのだろう。
だが、想いの強さというのなら――
「負け、ない……っ!」
さらに力を籠め、次の一撃を玖導に見舞う。
すかさず、反撃の拳が僕にめり込む。
それでも。
「負けるわけには……いかない……っ!」
妃香華が、この魂の中で、共にいるのなら。
想いの強さでは、絶対に、誰にも負けるわけにはいかない。
拳が、互いの身体に、何度も突き刺さる。
これまでの戦いで、痛みにはかなり慣れた。
だが、治癒能力の高い神の時は意識する事のなかった、ダメージの蓄積による体への負担には勝てず、何度も崩れ落ちそうになる。
その度に、僕は己に命じるのだ。
一度は巫によって。そして今度は、妃香華によって。僕は二度も、命を救ってもらった。
ならばこの命は。
己の信じるものの為、そして、妃香華に誇れる自分である為。
そして、必死に生きる為、使わなくてはならない。
だから僕は。
「出来ない……ここで負ける事は、絶対に出来ない――っ!」
人間が。神々が。悪魔が。
それぞれが、自らの全てを賭け、天界全土を舞台として争った、あまりにも大きな決戦。
その最終戦――能力を失った者同士の、ただの殴り合いは続き――そして。
◇◇◇
俺は、麻布灯醒志と殴り合いながら思う。
こいつは、強い。
悪霊となった死者を、その苦しみから救い上げ、あまつさえ天使と敵対してでも守ってみせた。
それは、俺には出来なかった事だ。
俺はただ、雫の祟りを受け入れる事で、少しでも、その痛みを分かち合えた気になっていただけ。そんなものは、本当の救いではないのかもしれない。
しかし、それしかなかったのだ。俺に出来るのはそれだけだった。
だから、伊梨炉秀によって雫の魂が消滅した後も、俺は固執し続けた。死者の恨みを、そして痛みを真正面から受け止める事こそが、生者の義務だと。ただそれだけを信じ、ここまで歩んで来た。
その第一歩として、俺自身が多くの霊の怨念を背負い込んだ時、これこそ自分の理想だと、自分は間違っていなかったと、そう思ったものだ。だが、実際はどうだったのだろう。
俺のしてきた事は、正しかったのか、間違っていたのか。
ただ、目の前の男を見ていると、本当の意味で死者と向き合ったのは、俺ではなくむしろこの男なのではないかと思えてくる。
自分が、ずっと間違え続けてきたのではないかと、そう思ってしまう。
それ程までに、麻布灯醒志は眩しかった。
それは、朝の陽ざしのように。
死者を悼みながらも、生者を照らしていた。
ああ、俺は、こいつが羨ましかったのか。
ふと、そんな風に思う。
だけど、どうなのだろう。
この男の表情は、強い決意に満ちているけれど。
しかし、それでも尚、悲しみを断ち切れていないように見えてしまう――
――おまえは、自分が正しいと思うか?
俺は、声に出さずに彼に問うた。
――思わない、いや思えないよ。僕は一生、妃香華を見殺しにしてしまった事を引きずり続ける。
それでもさ、妃香華は、自分の魂を犠牲にしてまで、僕の命を助けてくれた。ならその価値に見合うように、胸を張って、精一杯生きていくしか、ない……!
同じく、声に出さずに、彼は答えた。
そうか。たしかにこの男は、俺が及ぶべくもない、とても眩しい光だけれど。
その実、やはり根底にあるものは同じなのか――
そして、俺と灯醒志。互いに最後の一撃が繰り出される。
――ああ、俺は……
――ああ、僕は……
そして同じ事を想い、交差した俺達の拳は、互いの心に突き刺さった。
――ただ、妃香華の死を、受け入れられなかっただけなんだ……
――ただ、雫の死を、受け入れられなかっただけなんだ……




