第四十四話 疾うの昔に捨てたもの
「……完了です」
巫御美が、そう告げた。
「おお、ホントに元通りだ……ああ、でも……」
悪魔マモンは残念そうに、
「力はほとんど失われちまってるなあ……。この様じゃあ、流石に世界の理に干渉はできねえか。まったく、誰かさんに、あんなドぎつい一撃くらわなけりゃあなあ……」
「その件に関してはごめんなさいですけど……でも、世界の理を使わなくても、その肉体の持ち主の心を取り戻す事は出来ると思います。一緒に暖かい世界を見ていれば、きっと」
その言葉に、マモンは静かに笑った。
「ひゃはっ、暖かい世界、か。たしかにそれが一番なんだろうが、オレァ欲望渦巻くギラギラした世界しかしらないしなあ。かなり難しいぜ、ソレ」
「私達も力をお貸ししますので、きっと大丈夫です。ですから安心して、今は少しでも眠っていてください。まだ安定していませんから、少しでも回復しておく必要があります」
「ああ、わかった。よろしく頼むぜ……」
今までずっと気を張っていたのだろう。マモンは静かに眠りについた。
「これで、よかったんですかね……」
その巫の言葉に、守繫蘇羽が答えた。
「さてね。この判断が正しかったのかは今はわからねえ。
今後、結局そいつの心が戻らなけらば、また悪魔マモンが同じような事件を起こしちまうかもしれねえしな。
まあ、当分はそいつが心を取り戻せるように、尽力するしかないだろう。
まあでも、その前に、あれを何とかしなきゃその未来すらもねえけどな」
守繫は、世界の理を睨み付ける。
「そうですね……」
巫も立ち上がり、
「麻布さんも頑張ってくれているんです。私も、もっと頑張らないと」
そう、決意を新たにした。
◇◇◇
中住古久雨、か……。今までの人生で僕に何度も挑みかかって来た奴は、あいつだけだったな……
天使を倒した後、そんな事を考えながら、僕――伊梨炉秀は、世界の理に向けて急いでいた。
先程共に天使と戦い、そして死んでいった男、中住古久雨。何故だか僕の頭は、先程からずっとあいつの事ばかり考えている。
そして、あいつの事を考えていると、心がざわついてしまうのだ。感情なんて疾うの昔に捨てた筈なのに、どうして――
そんな風に考えていると、目の前に、見知った男が立ちふさがった。
「待っていたぞ、伊梨、炉秀ゥゥゥゥゥ――――――ッ!」
「ああ、そういえばいたな、もう一人。しつこく挑みかかって来る人物が」
そこにいたのは、玖導励志だった。どうやら僕が退治した悪霊の中には、彼の大切な人がいたらしい。それで、恨みを買ってしまったようだ。
本当に、愚かしい事である。悪霊など、生者に悪影響しか及ぼさない、迷惑なものでしかないのに、そんなものに執着するなど、どうかしている。
まして、こんな大事な時に僕の前に立ちふさがるなど、こいつは悪霊と同じくらい迷惑な輩だ。
「はあ、僕は急いでいるんだ。そこをどいてくれないかな」
「何を言う。貴様を殺せるこの機会、俺がみすみす手放すと思うか――っ!」
「僕を殺す、だって? やれやれ、思い上がりも甚だしい。秋空緋紅麗や悪魔マモンならともかく、たかが悪霊を集めただけの君が、僕より強いとでも?
大体、この前だってこっ酷くやられたじゃあないか。なのに、何故懲りずに僕を殺そうとしてくるんだよ」
「黙れ! おまえだけは! 雫の霊を殺したおまえだけは、絶対に赦さない!」
そう叫び、怨念を纏った玖導励志が迫る。
はあ、と溜め息を吐いて、僕は迎撃した。
「ぐは……っ!」
玖導励志は、またも弾き飛ばされる。
「これで分かったかい? 力の差は歴然――」
「うおおおおおっ!」
僕の言葉を遮るように咆哮し、玖導励志は再び立ち向かってくる。
当然、そんな攻撃など通る筈も無く、簡単に弾き返された。
「本当に諦めが悪いね。流石に僕も疲れてきたよ」
「うるせぇ――ッ!」
そして、
何度も。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も――
玖導励志の無謀な突撃は繰り返された。
そして、何度目だったか。
「やっと終わったか」
ついに、玖導励志は死んだ。
まったく、手間をかけさせてくれたものだ。
だが、これで終わり。
こいつは完全に死んだ。僕の診断に狂いはない。確実だ。
それに、霊能者とて、死後すぐに霊としての活動は出来ない。ずっと肉体の内にいた魂が、外界で活動出来るようになるには時間がかかる。
要するに、これで完全に詰み。
僕は、完全に安心しきり、玖導励志に背を向けた。
刹那。
「ぐ………はっ!」
玖導励志の攻撃が、僕を貫いていた。
「なん……でっ……!」
驚きを隠せない。
戦闘における、僕の強さの源は、何か。それは、相手の次の動きを予測し、対処する、いわば未来予測に近い類のものだ。
疾うの昔に、僕はその境地に達していた。動作や霊力の流れなど、多くのものから、次の行動は読み取れる。
そして、それに対応できる術式を瞬時に選び取り、発動させる事で、完璧に対応できるのだ。
加えて、こと戦闘において、僕は相手の動きを読み違えた事はなかった。故に、想定外の事態を、それこそ想定していなかったのである。
しかし今、想定外の事態が起こっている。確実に死んだはずの男が、僕に攻撃を浴びせたのだ。
「な……っ、まさか、身体から離れようとする魂を、無理矢理引き戻したのか……っ!」
そういう事が出来る術式も、あるにはある。だがそれはあくまでも、他者に対してのもの。自分自身が死に向っている状態で、そんな術式を発動出来るわけがない。
仮に出来たとしても、今、そんな術式を使ったような反応は一切なかった。つまり、この男は――
「意志の力だけで、死の淵から蘇ったというのか――ッ!?」
あり得ない。そんなこと、出来る筈があるものか――!
しかし、玖導励志は成し遂げた。
多くの悪霊の怨念をすべて受け入れてみせたその異常なほど強い精神力は、ついに奇跡をも成し遂げたというのか――!?
「終わりだ、伊梨炉秀――ッ!」
ああ。何故こんな事になってしまったのだろう。
僕はほとんど全ての事を知り尽くしていた。
だからこそ、世界の理の書き換えを阻止しようと嘯いて、その実、僕自身の目的を達成する為に考えていたこの計画も、成功すると思っていたのに。
いや、でもこの結末は必然なのか。
たしかに僕は、この世のすべてを知り尽くしていたけれど。
しかし、この男が起こした想定外の行為。その源となった意志の力――すなわち感情を、疾うの昔に僕は捨ててしまっていた。ならば、この結末を、想定できる筈がなかったか。
強くなる為に自ら切り捨てた要素が、最後に自分に牙をむくなど、なんて皮肉。
弱点を消す為に捨て去った感情の力にやられるとは、あまりにも興ざめな結末だ――
まあでも、まだ終わりではない。
僕自身が死んだとしても――僕の目的そのものは果たせるように、ちゃんと保険はかけておいた。
見ていろよ、黒霊衆。ここで死ぬとしても、最後に笑うのはこの僕だ。
斯くして――まだ企みを残したまま、伊梨炉秀は死に至った。
抑霊衆最大の戦力が消え去った今――この天界を揺るがす戦いの行方は、如何に。




