第四話 初戦の相手は最強の英雄神
素戔嗚。
目の前の神は、確かにそう言った。
「そんな……っ!」
巫が、絶望したような声を上げる。
素戔嗚と言えば、日本神話の中でも一、二を争うほどの知名度を誇る神であり、最強の英雄だ。
それに対し、こちらはついさっき神になったばかりの未熟者。戦力差は圧倒的だ。絶望的になってしまうのも無理はない。
「麻布さん、状況が変わりました。この神様に勝つのは不可能です。私が足止めしますので、何がなんでもこの場から逃げてください」
焦燥した声で巫が言う。確かにその判断は、この状況を切り抜ける手段としては、最も確実なのかもしれない。
このままでは二人とも殺されてしまうのは目に見えているのだから、どちらか片方だけでも逃げて、生き延びるのが最善だ。
しかし、
「いや、僕は戦う」
今更、逃げるなんて選択、出来る筈がなかった。
「確かに巫の言うように、素戔嗚に勝つなんて事は無理なのかもしれない」
「だったら――」
「でもさ、巫を置いて逃げるなんて、それ以上に無理だ」
理由なんてそれだけだ。
そして――それだけで十分だ。
「麻布さん……」
僕と巫がそんなやりとりをしていると、
ニタリ。
そんな擬音が本当に聞こえてきそうな程の笑みを、素戔嗚が浮かべた。
「へえ、なかなか面白えヤツだ。これは思ったよりも楽しませてくれそうだなあ、オイ! 俄然やる気が湧いて来たぜ」
楽しそうな表情は場を和ませる、と人は言う。しかし、素戔嗚のそれを見ても同じ事が言えるだろうか。
素戔嗚のその笑みは、どこまでも苛烈で、まさに激情そのものだ。あまりにも熱く、同時にあまりにも冷たい。
そのイメージを一言で表すとするなら『楽しげな殺気』。凡そ狂人くらいにしか発せられないそれを、素戔嗚は理性的なままで放っていた。
これが本物の神。プラスであれマイナスであれ、その絶対値の大きさによって人々に圧倒的な差を感じさせるもの。その強大さが、まざまざと感じられる。
しかし、僕も負けてはいられない。
「ならお望み通り楽しませてやるよ。こっちも黙って殺されるわけにはいかないからな」
僕は精一杯強がって、素戔嗚に対して挑発する。
しかし、僕の言葉は、余計に素戔嗚をやる気にさせただけだった。
「ははっ、そうこなくっちゃなあ! それじゃあ、早速始めようぜ!」
その宣言と共に、素戔嗚が勢いよく襲い掛かってくる。その速度は、普通の人間には目で追う事すら出来ない程だ。
しかし、今は僕だって神である。その動体視力は限界まで拡張されていた。よって、見える。素戔嗚の攻撃に反応できる。
「……っ!」
僕は大きく横に跳んだ。それにより、素戔嗚の剛腕が空を切る。
攻撃の後というのは、誰だって隙ができるもの。ならば今が絶好の機会だ。
そう思い、僕は素戔嗚に拳を向けた。
しかし、
「そう簡単にいくかよ」
その崩れた体勢から、素戔嗚が蹴りを放ってくる。
「く……ッ!」
後ろに下がる事で何とかそれを避けた僕だったが、息吐く暇もなく素戔嗚の追い打ちが襲い来る。
あまりにも激しい連撃。次々と繰り出される素戔嗚の攻撃には反撃の隙などなく、僕は少しずつ追い詰められていく。
同じ神でも、やはり格が違うのだ。次々と攻撃を繰り出し続ける素戔嗚と、攻撃を避けるだけで精一杯の僕。性能の違いがはっきりと出てしまっている。
でも、負けるわけにはいかない。こんなところで諦めてたまるか。戦力に差があるのなら、何とかして素戔嗚の弱点を見つけだし、それを足掛かりに戦略を立てればいい。
観察するんだ、素戔嗚の一挙手一投足を。そうすればどこかに、突破口を見出す事ができるかもしれない。
そう考え、僕は攻撃を避けながら、その特徴を探る。
素早い動きに豪快な攻撃。一見対処しようがなさそうなそれらに欠けている何か。それを見つけようと意識を集中する。
すると、何となく、その攻撃パターンが見えてきた。
たしかに、素戔嗚の動きはとてつもなく速い。しかし、格闘技に詳しくない僕でも分かるくらい、その攻撃は単調で直線的だ。おそらく、その強大な力ゆえに細かい技術を身につける必要がなかったのだろう。
だからその動きを先読みする事は簡単だった。
素戔嗚がこれまでと同じパターンで攻撃を繰り出してくるとすれば、おそらく、あと数発後に大振りな攻撃が放たれるだろう。その寸前に素戔嗚の懐に飛び込んで、攻撃を与えよう。当然、失敗したらすぐに対策されてしまうだろうから機会は一回だけだ。そう考え、僕は機を待つ。
「避けてばっかりじゃ話にならねえぜ!」
一発、二発、三発と、素戔嗚の連撃が続く。そして――
ダンッ! と素戔嗚が思いっきり地面を蹴った。この勢いで大振りな攻撃を仕掛けてくるという事は既に予想済みだ。
「おおおっ!」
叫び、僕は素戔嗚の懐に飛び込む。そして、固く握りしめた拳を素戔嗚の顔面に全力で叩き込んだ。
勝った! 攻撃を当てる事のみに集中していた僕はそう思ってしまった。
しかし、そう思ったのも一瞬の事。
何故なら、僕の攻撃と同時に、素戔嗚の蹴りも僕に命中したからだ。
「ぐはッ……!」
その衝撃により内臓が傷ついたのか、口から血が漏れる。
甘く見ていた。
素戔嗚の速度なら、僕の反撃を避けられないにしても、後ろに下がるなどして衝撃を緩和する事が出来た筈だ。
しかし、そうはならなかった。おそらく、素戔嗚は最初から相打ち狙いだったのだ。だから、あえて僕に隙を見せた。それはつまり、今の状況が素戔嗚の狙い通りだという事を意味する。だとしたら非常にまずい。
とにかく体勢を立て直さないと。そう思った僕だったが、
「遅えよ」
既に素戔嗚の魔手が僕の目の前にあった。
相打ちだったのに何故、と思ったが、答えはすぐに思い当たった。
治癒能力の差。素戔嗚のほうが多くの霊力を持っているため、治癒能力が早くはたらき、僕より先にダメージから回復して動き出す事が出来たのだ。
急いでガードしようとしても、もう間に合わず、素戔嗚の腕が僕の胸のあたりを貫く。
グッチャアァッ!! と嫌な音と共に、素戔嗚の腕が僕の体の中にめり込んできた。
「ガァ、ああ……ッ!」
肋骨が粉々に砕かれる、尋常じゃない痛みに耐え切れず、思わず呻き声が漏れる。
しかしそんな事は意に介さず、僕の体にめり込んだ素戔嗚の腕は、ガシッと鷲掴みにした。
全身に血液を送る為の臓器――つまり、心臓を。
「ぃ……ひぃ……っ!」
恐ろしい。あまりにも恐ろしい。だけど、どうする事も出来ず――
ブチイィッ! 悍ましい音をたてて、僕の心臓が引っこ抜かれた。
「あああああああああああああああああああっ!」
叫ぶ僕の目の前で、素戔嗚はつまらなさそうに心臓を握りつぶす。
「はあ……。なんか期待外れだなあ。ちっとは楽しませてくれると思ったんだがなあ!」
イラついたように言い、素戔嗚は僕を思いっきり蹴り飛ばす。
そのまま数バウンドして、僕は壁に激突し、崩れ落ちた。
「か……ッはァ……」
喉までせり上がってきた血反吐を吐いて、何とか呼吸を整える。
一応、治癒能力はまだあるようで、心臓から末端へかけて、少しずつ体が治癒していく。それでも安心なんて出来なかった。
恐怖心と絶望感。今、僕の頭の中を占めているのはその二つの感情だけだ。
もうどうしようもない。こんな強い相手に、どうすれば勝てるというのか。
「さてと、それじゃあ無謀にもこの俺に立ち向かってきたおまえへのサービスだ。治癒能力が尽きるまで、俺が殴り続けてやるよ。つっても、おまえ如きの貧弱な霊力じゃ、すぐに終わっちまうかもしれねえがなあ!」
そう言いながら、素戔嗚がゆっくりと近づいてくる。その一歩一歩が、僕にとっては死への秒読みだ。
しかし、僕にはもう、こいつを止める術がない。このまま殺されてしまうのだろうか、そんな風に思った時、
「猛りを縛れ、銀の戒――!」
巫が叫んだ。
その刹那、空中に無数の銀糸が現れ、素戔嗚の周囲を取り囲む。
「ちっ!」
素戔嗚は急いでその包囲網から抜け出そうとするが、
「させません!」
巫の声に呼応するかの如く、銀糸が素戔嗚に絡み付き、その動きを封じた。
巫は、ただ何もせずに戦いを見ていたわけではなく、この攻撃、神をも縛る拘束術式を発動する為の準備をしてくれていたのだろう。
そして見事それは成功したかのように見えた。
しかし、
「この程度で俺を縛れるとでも思ってんのかよ……っ!」
素戔嗚が、力任せに体を動かす。
すると、複雑に絡みついていた銀糸がブチブチと千切れ始めた。
「く……っ!」
巫の表情が苦痛に歪む。おそらく、銀糸の強度を上げようと、必死に力を注いでいるのだろう。
しかし、無駄。素戔嗚は徐々に拘束から脱しつつある。
何という力技。やはり、素戔嗚の強さは桁違いだ。巫の技すら全く効かないなんて。
――いや、違う。全く効かないのではない。
確かにこのままでいくと、巫の技は破られてしまうだろう。しかし今は、まだ破られていないじゃないか。
僕は馬鹿だ。あれほど格好つけていたくせに、素戔嗚とのあまりの力の差に愕然とし、無意識に諦めようとしていた。
確かに、どうやったって僕が素戔嗚よりも強くなる事はない。大昔から存在している本物の神と、成り行きで力を得ただけの僕。そこに差が生じるのは当然だろう。
しかし、だからと言って僕が、否、僕達が素戔嗚相手に何も出来ないとは必ずしも言えない筈だ。
現に巫は今、この瞬間だけは素戔嗚の動きを制限しているのだ。完全には縛れないとしても、これが次の一手に繋がると信じて。
それなのに僕は、ほんの少し手傷を負った程度で、勝手に悲観し、絶望していた。その時も巫は、必死に素戔嗚を拘束する機会を窺っていたというのに。
蹴り飛ばされた? だから何だ。
心臓を握り潰された? そんなもの知った事ではない。
任せておいてくれというあの言葉は、心得たというあの言葉は、この程度の負傷で立ち上がれなくなるような薄っぺらい宣言ではなかった筈だ。
ならば、立て。麻布灯醒志。巫に対して言った言葉を、虚言ではなく、真実にしてみせろ。第一、巫が全力を振り絞って作ってくれたこの絶好の機会、無駄にしていいわけがない――っ!
「おおおおおおおおおおォォォォォォォォォォ―――ッ!」
未だ完治しきれていない身体を無理矢理動かして、素戔嗚に飛び掛かる。
これは単なる速度の勝負。僕が素戔嗚に届くのが先か、素戔嗚が巫の拘束術式を破るのが先か。
だから今は、変に頭を使う必要はない。余計な事は考えず、ただひたすらに前へ進むのみ。
対して素戔嗚は、僕の攻撃が届くまでに拘束から脱する事が不可能だと悟ったのだろう。だから方針を変えていた。全身を縛る銀糸すべてを振り解く事は諦め、腕に絡まった銀糸のみを解く事に集中したのだ。僕を倒す程度の事、素戔嗚にとっては腕一本で十分なのだから。
そして、その素戔嗚の選択はかなり賢明だったと言える。何故なら、僕の攻撃が届くよりも一瞬前に、素戔嗚の腕が拘束から脱したからだ。
「はッ、残念だったな」
その言葉と共に、素戔嗚は無慈悲に剛腕を振るった。
「ぐは……っ!」
その攻撃により、僕の土手っ腹に穴が開く。胃や腸といった臓物が、粉々になって体外へと飛び散る。
しかし、僕は止まらない。この程度の痛みで怯んでたまるか。
「な……ッ!?」
素戔嗚の口からそんな声が漏れた。その表情は驚嘆に染まっている。
わざとダメージを喰らうという戦法は素戔嗚も使っていた。しかし、それはあくまで互いにダメージを負い、その傷が癒えてから攻撃を仕掛けるというものだ。
一方僕は、攻撃を受けても尚、相手のほうに向かって体を前進させたのだ。それでは、普通に攻撃を喰らうのとは比べものにならない甚大なダメージを負ってしまう。いくらそこで相手に反撃できたとしても、割に合わない。だから素戔嗚は驚いたのだろう。
しかし、それはあくまでも通常時の話。今は少しばかり条件が違う。
銀の戒。巫が発動した至高の拘束術式。
素戔嗚は腕の部分だけ振り解く事によって、その拘束から迅速に逃れた。確かにその選択は、あの場では最善だったのだろう。しかし、一時的な最善も、長期的に見れば最善とは限らない。
素戔嗚の足はまだ銀糸に絡み付かれたままなのだ。そんな状態で、僕の突進を受けたらどうなるか。
予想通り、僕の突撃に耐えきれず、素戔嗚の体が傾く。足を縛られている為、倒れまいと踏ん張る事が出来ないのだ。
「が……ッ」
そして、素戔嗚は僕に押し倒された。いくら力の差があるとはいえ、馬乗りになってしまえばこちらの独壇場である。
「く……っ、なるほどな。完全に甘く見ていたぜ。良い連携じゃねえか」
倒れたまま素戔嗚は言う。その声は相変わらず鋭かったが、もう僕に怯えはない。この態勢なら、一方的に攻撃をする事が出来るのだ。そう考えれば、恐怖する必要など、まるでない。
だから僕は、先程の素戔嗚の言葉をそっくりそのまま返してやった。
「さてと、僕達の勝ちだ、素戔嗚。せっかくだからサービスしてやる。おまえの治癒能力が尽きるまで、僕が殴り続けてやるよ」
我ながら子供じみた意趣返しだとは思ったが、そこは大目に見てほしい。何といっても本物の神を打ち負かしたのだ。少しくらい生意気言ってもいいだろう。
「ははッ、やっぱ面白えわ、おまえ。いやあ、やっぱり楽しいねえ。戦いっていうのは」
そう言った素戔嗚の口調に、僕は違和感を覚えた。
今、僕は素戔嗚に対して、圧倒的に有利な状況の筈だ。
しかし、素戔嗚の声には焦りというものがない。
余裕。あるいは絶対の自信。そういった感情が、言葉の随所から感じ取れる。
一体、何故? まだ何か隠し玉があるのか――?
そして、その嫌な予感は、次の瞬間、確信へと変わる。
目に見えて分かる程の凄まじい力が、素戔嗚の周囲に生じたのだ。
曲がりなりにも神となっている今なら分かる。これは、空間が捻じ曲がっている――!?
「来たれ我が剣――その力を以て有象無象を打ち滅ぼさむ」
素戔嗚の言葉に呼応するかの如く、強引に開けられた空間の隙間から、莫大な霊力を内包した何かが呼び出されようとしている。
「まずいです、麻布さん! 急いでその場から離れてください!」
巫が叫ぶ。その声に弾かれるように、僕は後ろへ飛びのいた。
その刹那。
「顕現せよ、神剣・羽々斬――!」
とてつもない轟音と、それにも勝る素戔嗚の高らかな声と共に、一振りの剣が顕現していた。