第三十二話 抑霊衆
「はぁ、はぁ……」
何とか天使から離れ、隠れる事が出来た。
だが、離れたと言っても、天使ならば、すぐに追いつく事が出来るだろう。なのに来ていないという事は。
「妃香華が、悪魔の力を抑え込んでくれたおかげか……」
おそらく、天使は悪魔の気配を追って、僕達の前に現われたのだ。妃香華が悪魔の力を抑え込んでいる今、天使はその方法を使えない。
だったら、すぐに距離をとらなくても、視認できないように隠れながら移動すればいいのだ。しかし、あまり悠長にもしていられない。
慎重にゆっくりと進んでいたら、妃香華の意識が悪魔に食いつぶされてしまう。それだけは絶対に避けねばならない。
だけど、そもそもの問題として、どうやって妃香華から悪魔の力を切り離せばいいのか。結局そこが分からなければ話にならない。
問題は山積み。だけど残された時間は少ない。
あまりに絶望的な状況だが諦めるわけにはいかない。僕は、周囲に天使がいないか確認して、隠れている場所から移動しようとした。
その時、確実に妃香華を狙った、鋭い攻撃がどこかから放たれた。
避ける事が出来ない速さだったため、せめて妃香華に当たることだけでも防ごうと、僕は自らの手で妃香華を庇う。
手に当たった攻撃は、そこまで大した威力ではなかった。
よかった、これくらいなら大丈夫だ。そう思った瞬間。
がくんと、僕はその場に崩れ落ちた。
「え……?」
身体に力が入らない。一体何故……
「相手が人であろうと霊であろうと神であろうと、無力化するのに派手な技なんていらない。ただ、的確に相手の弱点を突けばいいだけだ」
声がする。この声の主は……伊梨炉秀か。
「それにしても、まったく、面倒なことになってしまったね。やっぱり、無理矢理にでもあの時殺しておけばよかったよ」
「まだ……妃香華を殺そうとしているのか」
「ああ、そりゃあそうさ。僕が何の為に神を生み出す御札なんてつくったと思っているんだ。
君にこんなところで死んでもらっちゃあ困るんだよ。僕の計画が台無しだ。
だから、君にはその悪魔憑きのことは諦めてもらう。そいつを殺せば、天使は帰り、君が殺されることもなくなるわけさ」
「僕はもともと、天使に殺される気はない」
「でも君は、天使からその悪魔憑きを守るんだろう?
なら、殺してくださいと言っているようなものだ。
現実を見なよ。天使と敵対して、生きていられると思うのかい?」
駄目だ。この男には、何を言っても通用しない。くそ、どうすれば――
「じゃあ、殺すよ。守る対象が消滅すれば、君ももうこんな無茶はしないだろう」
伊梨がそう言った直後、
「待った」
第三者の声がした。
「やあ神無月、高天原まで何の用だ?」
そこに居たのは、神無月雪那さんだ。
「前に守繫が言っていた、そこの霊と悪魔を分離させる事が出来るかもしれない人物――魂の専門家が、抑霊衆に到着した」
「それは、本当ですか!」
僕は思わず聞き返す。
「ああ、本当だ。それを知らせるため、私はここに来た」
力強く頷く神無月さん。それが本当なら、今度こそ妃香華を助けることが出来る。しかし、伊梨が空気を読まずに反論する。
「でも、本当に悪魔を分離出来るかどうかは見てもらわないと分からないわけでしょ?
そんな一縷の望みにかけるよりも、悪魔がまた暴走しないうちに殺しちゃった方が確実じゃない?
大体、守繫が言ってた専門家は僕とも知り合いだけど、あいつ結構ぬけてるよ」
「一縷の望みに賭けるか、確実性を重視して一人の命を犠牲にするか、それを決めるのは彼次第ではないか?」
「一人の命? 可笑しな事を言うねえ。そいつはもう霊、死者でしかないのに」
「揚げ足取りも大概にしておけ。貴方がいくらごねようと、こちらには手がある」
そう言って、神無月さんは御札を取り出した。
「なるほど。空間転移の札か。でも麻布君は僕の拘束術で縛っているから、空間転移させる事は出来ないよ」
「な……そうなのか?」
「はい。さっきから身体に力が入りません……」
「そうか……なら、仕方ない」
すると、神無月さんは持っていた刀を上に向けて、色のついた霊力を上空に噴射した。
「な……、何やってるんですか!? そんな事したら天使に居場所がバレる!」
僕が思わず叫ぶと、神無月さんはこちらにニヤリと笑いかけてから、伊梨の方に向き直る。
「ああ、その通り。これですぐにでも天使がやってくるだろう。
ところで伊梨、麻布を死なせたくないんだったなあ?
もし、いつまでもここでグダグダ言い争いを続けていれば、天使が来て私たちは皆殺しだ。
なら、十六夜を今すぐに殺すしかないが、それは私が阻止する。いくら貴方でも、守りに徹した私を天使が来るまでの短時間で出し抜くのは不可能だろう。
と、なると、麻布を生かせる手段は一つだ」
神無月さんは、伊梨を睨み付け、言った。
「拘束術式を解き、空間転移出来るようにしろ」
何と言う大胆な策。
リスクが大きすぎて心配になってしまうが、しかし、そこまでして僕と妃香華を助けてくれるのは、とても嬉しい。
神無月さんに助けられるのはこれで二度目となる。本当に、感謝しなくては。
「まったく、仕方ないか」
伊梨は諦めたように溜息を吐いた。瞬間、僕の身体が軽くなる。
「……よし、これで!」
「ああ、空間転移できる。じゃあ、いってこい」
そして僕は、神無月さんの空間転移によって飛ばされた。
◇◇◇
「さて、それじゃあ私自ら呼び寄せてしまった天使たちなのだが……」
灯醒志を空間転移で送り出した後、その場に残った神無月はバツの悪そうな顔をして、伊梨に言った。
「私一人ではどうにもならない。すまないが、助けてくれないか?」
「……空間転移、君もすればよかったのに」
「ふ……っ、あの二人を転移する分しか持ってこなかったんだよ」
(はあ……まあ僕の分を貸してあげてもいいけど、でも少しやりたい事もあるし、ここは天使と戦っておきますか)
溜息を吐きながら、伊梨はそう思ったのだった。
◇◇◇
「悪意の獣……全消滅確認、です……」
「何とかなった……とは言い難いわね。悪意の獣は完全に潰えたけど、同時に、相当数の悪魔がその力を取り戻してしまった筈。
それが黒霊衆の狙いだというのはもはや疑いようもないわね……。何せ――」
そもそも抑霊衆がこの件に関わる事になったきっかけである霊力の乱れが、いつの間にか収まっている。つまり、その意味するところは。
「黒霊衆が、もう霊力を乱すのを止めた。つまり、もう霊力を乱す必要はなくなった。彼らの目的が達成されたか、あるいは次の段階に進んだか、どちらかでしょうね」
「そうですね……。でも、どちらにせよ、私達のやる事は一つでしょう」
巫は立ち上がり言った。
「復活した悪魔は唯一神を討つ為に天界へと向かうでしょう。そして、それに便乗して、黒霊衆が何かをしようとしている事は明白。
セム系一神教の天界への行き方など分かりませんが、しかし天空の世界は全て繋がっていると聞きます。高天原への境が開かれている今なら、きっと……」
「うん、そうね。悪意の獣はいなくなり、霊力の乱れもなくなった。まあ、後始末はいろいろ大変だろうけど、それよりも今は、黒霊衆を叩く事の方が先決ね。
悪魔を復活させてまで行う計画。そんなものを放置しておいたら大変な事になるわ」
「ええ。麻布さんと十六夜さんと伊梨さん。それから先行して高天原に向かった守繁さんと神無月さんと早流さん。
彼らと合流して、私達の全勢力を以て、黒霊衆と戦いましょう!」
斯くして。
抑霊衆。黒霊衆。神。悪魔。
それらすべてが天へと昇り、各々の目的の為、死闘を繰り広げようとしていた。
混沌を拒み、人々に論理を与え給うた神。
その統べる天界が、今まさに混沌へと堕ちようとしている。
果たしてそれは――誰の意図によるものだろうか。
その結末は神のみぞ――否、神すら知る事が叶わないだろう。




