第二十話 黒霊衆の女の正体
翌日。
抑霊衆へと向かう僕と妃香華の前に、見覚えのある女が立ちはだかった。
「ひゃはっ、昨日ぶりだなあ。ええっと、麻布灯醒志、だっけ?」
こいつはたしか……秋空と一緒にいた女だ。
ならば、言うべき事はひとつだ。
「秋空に会わせてくれ」
秋空緋紅麗。多分あいつは、妃香華の事について、何かを知っている。
だが、当然ながらそんな僕の言葉は一笑に付された。
「嫌だねえ。会いたいなら、力尽くで居場所を聞いたらあ?」
「なら、望み通りにしてやる」
そう答え、僕は女に向けて踏み込んだ。
しかし、
「……っ!」
僕の攻撃を、とてつもなく邪悪な霊力が遮る。
ゾッとして、僕は後退した。
その邪悪な霊力が恐ろしかったから――ではない。
これと似たような感じの、されどもこれ以上の存在感を有する霊力に、心当たりがあったからだ。
間違いない。この邪悪な霊力は、妃香華の中にいた何かと同種のものだ。
やはり、上代さんが言っていた事は事実だったのか。
「おまえは一体……?」
「ひゃはっ、この力に恐れをなしたか。いいだろう、教えてやる。これはなあ麻布、悪魔の力だ」
「悪魔の、力……?」
その不穏な響きに底知れない不安感を抱きながら、僕は訊く。
対して女は、凄惨な笑みを浮かべながら話を続けた。
「その昔、多くの悪魔は神と戦い、そして敗れた。んで、その時にほとんどの力を失っちまったわけだ。
そんな悪魔達はどうやって力を取り戻そうかと考えた。そこで、悪魔が目を付けたのが、人間ってわけだ。人間に取り憑き、その中の悪意を糧にして力を取り戻そうってなあ。
そして、悪魔に憑かれた人間は悪魔憑きとなる。憑いた悪魔がある程度負の感情を取り込み、力を手に入れ始めると、その体の持ち主に語りかけるようになるのさ。
最初は誘惑程度だが、力を取り戻す度に、悪魔は心をどんどん侵食していく。その果てが、このオレだ」
「果てってことは、つまり――」
「ああ、今のこの体の所有者は、もとの持ち主の意識ではなく――」
そんな風に言う女の笑みは――
「このオレ、悪魔マモンのものだ」
――文字通り、悪魔の笑みだった。
「まあ、意識はのっとっているが、悪魔としての力を完全に取り戻したわけではないから、果てというのは言い過ぎだったが」
そんな言葉を聞きながら、僕は考える。
この話の流れからすれば、妃香華は――
「そこの女も、生前は相当苦しんだようだからなあ。そうだろ、十六夜妃香華」
悪魔憑き、と。
この女は、妃香華の事をそう呼んだ。
それを聞いた今でさえ、もしかしたらこいつの勘違いなのではないか、などという淡い期待が脳裏にちらつく僕は、もう本当にどうしようもない。
妃香華は、悪魔に憑かれていた。しかも、生前から。
浮かんでくる感情は二つ。
一つは衝撃。そしてもう一つは――
「人間の心を侵食し、負の感情を生ませ、それによって力を得て、さらに侵食を強める。おまえ達悪魔は、そんな巫山戯た事をずっとやってきたのか……っ!」
目の前の悪魔、そして何より、妃香華の中にいる悪魔に対しての怒り。それが、僕の中で熱く煮えたぎっていた。
心が侵食されていく感覚は、穢れを取り込んだ時に経験した。あれを慢性的に。しかもじわじわと強めていくなど。
そんなむごい事を、こいつらは平気で出来るってのか……っ!
「ああ――もちろん」
その返答に、僕は完全に逆上した。
「てめえ――!」
思いっきり、僕はマモンに殴りかかった。しかし、
「ひゃはっ、無策に突撃してくるとか、能無しかテメエはあ!」
邪悪な霊力が、再び僕の行く手を阻む。
だが、今度は後退などしない。
「邪魔だ!」
構わず、僕は霊力をぶつけた。しかし、流石は悪魔の力。破れる気配が全くない。
「うおおおおおっ!」
しかし、それでも僕は、限界を超えて霊力を絞り出す。
途端、素戔嗚戦で神器を創造したときと同種の、あの痛みが僕を襲った。
「があ……っ!」
魂の痛み。やはり無理矢理霊力を増大させると、魂にダメージが及んでしまうのか。
しかもその痛みは、前にも増して強くなっていた。あのとき魂にかけた負担が、未だに残っているのだろう。
だがその甲斐あって、霊力が倍増した僕の拳が、悪魔の力を打ち破った。
「……っ!」
驚いているマモンに向かって、拳を振り下ろす。
しかしその直前、
「ぐは……っ!」
突然現れた何かが、僕とマモンを突き飛ばした。
顔を上げてみるとそこには――
異形。
そうとしか形容しようのない、悍ましい怪物がいた。
一体、こいつは何なんだ……?
そんな風に思っていると、突如、妃香華が苦しみだした。
「あ、あああああ!」
「どうした、妃香華……っ!」
「ひゃはっ、大方、自分の中の悪魔を、必死に抑え込もうとしてるんだろうさ。なにせこの異形は、霊力の乱れの影響で、怪物として具現化した人間の悪意の塊だからなあ。つまり、オレたち悪魔にとっちゃあ恰好の餌だ」
「な……っ!」
霊力の乱れで災いが起こる。それは巫も言っていた事だ。
しかし、人間の悪意が怪物として具現化するなど、流石に予想外だ。
こんな事が起きるのならば、巫達が神様を生み出してまで霊力を安定させようとした事にも納得できる。
しかし、同時にこうも思うのだ。
これほどの事態、抑霊衆ですら、想定していなかったのではないかと。
そんな僕の不安を他所に、マモンは腕まくりし、その棒切れのように細い腕をあらわにしながら笑みを浮かべる。
「それにしたって、こいつは都合が良い。最近は黒霊衆の仕事してばかりで、あんまりこいつらを狩れてなかったからなあ。いやあ、本当に、とてつもなく良いタイミングだぜ」
そんな言葉と共に、マモンの右腕が、大きく、そして悍ましい形に変化した。
「強欲の腕」
彼女がそう呟いた刹那、その手は怪物の身体を貫き、核のようなものを引っこ抜いた。そして、それを容赦なく握りつぶす。
それだけで、怪物の身体は霧散した。呼応するように、マモンが纏っていた力が倍増する。
「ひゃはっ、いつだって、力を手に入れていく感覚は心地がいいねえ!」
「なんなんだ、一体……」
「だから言ったろ。この怪物は、人間の悪意が長い年月をかけて蓄積し、それが霊力の乱れによって形となったもの。
オレたちは悪意の獣と呼んでいるが、まあ要するに、多くの人間の悪意そのものだ。
一人の人間からちまちま悪意を取り込むより、こうして取り込んじまった方が、力を取り戻すのには手っ取り早い。
悪意の獣が現れた以上、これから多くの悪魔が、急速にその力を取り戻す事になると思うぜえ。
洪水からもう随分と経った。悪意の蓄積ももう十分だ。獣は世に蔓延り、オレたち悪魔は皆、どんどん力を取り戻すことが出来る。
それに黒霊衆の計画が合わされば、地上も天界もこれ以上ないほど大混乱するだろう」
「何を、言っているんだ……? 悪意の獣? 洪水? 天界?」
わからない。悪魔の話は、意味不明な部分が多すぎる。
そんな風に困惑する僕の様子を見て、マモンは嘲笑い、言った。
「まあ、一般人上がりの神様には難しい話だったか。それに、こんな話をしても仕方ねえな。どうせオマエはここで死ぬんだから」
その言葉とともに、マモンは邪悪な霊力を、こちらに向けて射出してきた。
「ぐは……っ!」
避けきれず、僕は後ろに飛ばされる。
悪意の獣を取り込んだからか、マモンは確実に先程より強くなっている。だがそれ以上に、僕自身が、魂の痛みにより十全な機能を発揮できなくなっていた。
「おいおい、張り合いがないなあ。いくら悪意の獣を取り込んだとはいえ、オレの強化なんざ微々たるものだぜ? 中住古久雨に比べりゃあ、ささやかな成長だ」
「リー、ダー……?」
「ああ、なんせあの人は、神を取り込んだんだからな。しかも、神産みの権能を持つ神を、だ。
ああ、そういえば、オマエたしか、そこの悪魔憑きを助けた時に、一度自身の中に穢れを取り込み、それを排出してたな。
神の中に直接入り込んだんだ。その穢れは、おまえの霊力の影響を多分に受けただろうなあ。
そんな特殊な穢れに、神産みの権能で実体を与えたら、さて一体、どんなことになるんだろうなあ?」
凄惨な笑みを浮かべながら、わざとらしくマモンは言う。
こいつは、僕に多くの情報を与えているが、その情報はどれもこちらを不安にさせるようなものばかり。おそらくこちらの反応を楽しんでいる。
今の状態では、どうやっても勝てない。ならば、ここはこいつの嗜虐心を利用して、会話を続け、魂の痛みが完全に回復するまでの時間を稼ぐしかない。
それが出来なければ、せめて妃香華を逃がす隙だけでもつくりたい。
「僕の偽物でも生み出すってか」
「さあねえ。でも、もしそんなやつを生み出せれば、抑霊衆の連中を出し抜くのは容易いだろうけどなあ」
「!」
そう。今この場のことばかり考えていて、頭が回っていなかった。
これは、僕が抑霊衆の拠点に辿り着かないようにする足止めかもしれないじゃあないか。
だとしたら、痛みが回復するまで時間稼ぎなんて、悠長なことは言ってられない。
「うおおおおおっ!」
魂の痛みを無理矢理抑え込んで、僕はマモンに突撃する。しかし。
「が、ああ……っ!」
一撃で、僕は地面に叩きつけられた。
「ひゃはっ、神だからって少々期待してたが――オマエ、弱すぎ。そんなんじゃあ百年経ってもオレには勝てねーよ」
「よく言うぜ。さっきは僕にやられかけた癖に」
「黙れ。たしかにその通りだが、せっかく気持ちよく勝とうとしている時に水を差すんじゃあねえ」
そう言って、マモンが僕にとどめの一撃を放とうとした、刹那。
「弱った相手をボコって気持ちよく勝つとは、西洋の悪魔も思いの外小せえやつだな」
そんな声とともに、何者かが攻撃を放った。
マモンはそれを防ぎながら後ろに下がって距離を取る。
「よお、灯醒志。俺を倒した男が、そう何度も危機に陥ってんじゃねえぞ」
「テメェ――!」
マモンが睨み付ける先にその男――素戔嗚は立っていた。
また、助けに来てくれたのか。
最初はとんだ目に遭わされたけど、こうして何度も助けてもらっていると、感謝の念が強くなってくる。
それに、あそこで僕達を逃がしてくれた後の事が気になっていた。
「ありがとう。その、あれから一体……?」
だが、そんな問いを無視して素戔嗚は言った。
「礼も説明も後だ。そんな事より、早く抑霊衆の拠点へ行け」
もっともな意見だ。
こうしている間にも、マモンが仄めかしていた、僕の偽物とやらが抑霊衆に入り込んでいるかもしれない。
「そうだな。恩に着る」
それだけ応え、僕は魂が軋みをあげる身体を必死に動かして、妃香華と共に、抑霊衆の拠点へと向かった。